燈幻郷奇譚

4章:天狼と見る夢 - 5 -

「離れておいで」
 一世は亜沙子を紫蓮の方へ押しやると、暁暉に向かって駆け出した。
 腰にいた刀を抜いて、振りかざす。
 キィンッ!
 鋼がぶつかり、朱金の火花が散った。
 総大将同士の激突を見て、それぞれの味方が助太刀を試みるが、凄まじい剣戟けんげきの押収にとても近寄れなかった。
 閃光のような暁暉の剣を大きく弾き、一世は尊大な笑みを浮かべた。
「なるほど。人間にしては大したものだ。いくさ上手というのは伊達だてではないらしいな」
 暁暉は鋭く一世を睨んだ。
「光栄ですよ、天狼主あめのおおかみぬしに褒められるとは」
「腕は認めるが、随分と舐められたものだ。天狼を敵に回して、勝てると思ったか?」
「不敬は承知。恐れ多いと知っていても、姫を諦められない」
「――亜沙子は渡さぬッ」
 勁烈けいれつな視線が交差し、火花を散らす。
 暁暉は刀を腰溜めに構えた。剣先にまで青い覇気がみなぎる様子が、亜沙子の素人眼でも判った。
 一陣の風が吹いた――暁暉は地を蹴ると、鋭い一閃を解き放った。
 亜沙子は小さな悲鳴をあげた。鋼の閃きを、一世は紙一重で交わすと、横一文字の閃きで大王の身体を吹き飛ばした!
「大王様ッ!!」
 周囲の護衛兵達がさっと駆け寄り、盾を突き出し、主を背に護った。
 一世は迷わず歩を進めると、盾を向ける兵士達に向けて刃を振り上げた。
「やめてッ」
 たまらず、亜沙子は叫んだ。悲痛な叫び声は、硝煙の立ち昇る戦場に、不思議なほど響き渡った。
 幾つもの視線が亜沙子に向かう。
 一世の青と金の双眸は鋭い光彩を放ち、薄闇の中でもらんと燃えていた。
「こ、殺さないで……」
 消え入りそうな声で亜沙子が請うと、一世は逡巡し、ため息をついた。キン、と刀を鞘に戻して、長い青銀の髪を煩げに手で払う。
「約束を違え、蓬莱山の天狼に銃を向けた不届き者ではあるが……亜沙子がそういうなら、仕方がないね?」
 一世は大地に膝をつく暁暉を冷たく睥睨し、次に凄艶な笑みを亜沙子に向けた。
「ッ」
 たじろぐ亜沙子の肩を、紫蓮が支えた。
「姫!」
 鋭い声で呼ばれて、亜沙子は肩を震わせた。瞳に強い光を灯した大王と目が合う。
「……ごめんなさい、郷に帰ります。もう、天狼を傷つけないでください」
 震える声で亜沙子が告げると、暁暉は苦しげに表情を歪めた。
「お赦しください。私は、どうしても貴方が――」
「二度と蓬莱山に立ち入るな。次はない」
 告解を遮るように、一世は冷たくいい捨てた。たちまち天狼の姿に変わると、首を下げ、亜沙子の顔に優しく頭をこすりつけた。大きな舌で亜沙子の頬を舐めた。
「んぷ」
 つい手で顔を庇おうとすると、その手ごと舐めてくる。顔を俯けても、覗きこむようにして追いかけてくる。唇にも舌が触れて顔が熱くなった。狼の姿をしていても、彼は一世なのだ。
「帰ろう、我が姫」
 優しく請われて、亜沙子は小さく頷いた。
「……はい」
 艶やかな毛並みに顔をうずめて、頬ずりをする。一世は目を細めて、大きな身体で亜沙子を包み込んだ。
 いつの間にか紫蓮も天狼の姿になり、亜沙子の腕を鼻先で優しく突いた。手を伸ばして頬を撫でてると、心地よさそうに灰紫の瞳を細める。
 一世は周囲を牽制するように喉を鳴らすと、集まってきた他の天狼達を追い払った。身体を伏せて、亜沙子に背に乗るように視線で促してくる。
「失礼します……」
 亜沙子は横向きに乗ると、身体を倒して太い首にしっかとしがみついた。
 一世は空を仰ぐと、オォーン、一つ啼いた。
 同胞達も遠吠えで応えると、双翼を広げて天へと舞い上がり、風のように翔け上がった。
 月明かりに照らされて、輪郭を白く縁取られた天狼達は、夜闇に光が立ち昇るようだった。
 地上には無残な爪痕と、傷ついた兵だけが残された。
 天を仰ぎ、暁暉は亜沙子の名を呼んだが、亜沙子はもう振り向かなかった。