燈幻郷奇譚

4章:天狼と見る夢 - 6 -

 蓬莱山は、明るい月に照らされていた。
 夜闇に浮かぶ蒼白い桜を見て、亜沙子は深い安堵に包まれた。
 お帰り――桜が囁いている。亜沙子の帰還を祝福するように、白い花弁が淡雪のように舞い上がった。
(ただいま)
 連なる桜を仰いで、亜沙子は胸の中で呟いた。
 邸に戻ると、手ぐすねを引いて待っていた灯里が、亜沙子を見るなり駆け寄ってきた。
「姫様! お怪我は?」
「大丈夫です。ご心配をおかけいたしました」
 そう亜沙子が答えても、灯里は心配そうに四方から亜沙子の全身に視線を走らせ、怪我の有無を確認した。無事だと判ると、ようやく肩から力を抜いた。ピンと張っていた耳としっぽは少し緩んで垂れる。
「ようございました……」
 涙ぐむ灯里を見て、思わず亜沙子の視界も潤みかけた。再会の余韻に浸っていると、人の姿に戻った一世が、亜沙子の肩を抱いた。
「お帰り」
 深みのある声で囁かれて、亜沙子は思わずどきっとした。
「……ご迷惑をおかけしました」
 深々とお辞儀する亜沙子を、周囲の天狼はほっとしたように見ている。涙ぐむ亜沙子の背を、灯里は優しく撫でた。
「さぁ、姫様、中へ入りましょう。湯の仕度がととのっております」
「ありがとうございます、灯里さん」
 鼻を啜りながら礼をいうと、灯里も琥珀の瞳を潤ませた。
「お帰りなさいまし、姫様」
 ほほえみあってから、優しい光の灯る邸に入った。
 連れていかれた浴室は、すっかり準備が整えられていた。
 天窓から射し入る月明りが、夜風に揺れ、立ち昇る湯気を幽玄的に煌かせている。
 熱い湯に肩まで浸かりながら、亜沙子は天窓の向こう、満点の星空をぼんやり見上げた。
(あぁ……帰ってこれた。帰ってこれたんだ、私……)
 我が家に帰ってこれた安堵に、心が凪いでいく。瞳を閉じて、心地よい湯の温もりに身を任せた。
 湯を浴びたあと、部屋で寛いでいると、一世がやってきた。彼も湯を浴びたようで、おろし髪が艶やかに濡れている。しどけない姿に落ち着かない気分にさせられながら、さりげなく寝椅子を勧めると、一世は亜沙子の手を引いて隣に座った。
「亜沙子」
「はい」
 亜沙子は、居住まいを正して身体ごと一世を向いた。彼は左右の色の違う瞳で亜沙子をじっと見つめていたが、ふと何かに気づいたように眉をひそめた。
「一世さん? ……ひゃぁっ」
 急に腕を引っ張られて、亜沙子は一世の胸に転がりこんだ。首筋を指先でくすぐられて、肌が粟立つ。
「? 一世さ……ん」
 肌を吸いつかれて、甘痒い痛みが走った。
「他にはどこを触れられた?」
「え……」
 目を瞠る亜沙子を、一世は射抜くように見つめた。
「どんな風に肌を吸われた?」
「あぁっ」
 首筋を吸われて、亜沙子の喉からあえかな悲鳴が迸った。あの晩、暁暉にされたことを思い出した。
「いとけないと思っていたけれど……こんな痕をつけられるなんて、どのような媚態を見せたのだろうね?」
 咎めるようにいわれて、亜沙子は腕を突き出して一世を遠ざけようとした。
「私は何もしていません!」
「なら、この痕は何?」
「ッ……」
 首筋を撫でられて、亜沙子は背筋を震わせた。
「独りで心細かった? それとも、彩国の王に惹かれた?」
「違います!」
「……誘ったのではないか?」
「私が?」
 心外といわんばかりに亜沙子が睨みつけると、一世の眼差しもきつくなった。
「なぜ触れさせた!」
 きつく怒鳴られ、亜沙子は怯んだ。腕を取られて、縮こまる身体を強く抱きすくめられる。
「――許せぬ。八つ裂きにしてくれればよかったわ」
 うなじに指を這わせながら、一世にしては口汚く罵った。
 烈火のような怒気が怖いのに、嫉妬されているのだと思うと嬉しくもあり、亜沙子の背筋はぞくぞくと甘美に震えた。
 その震えを、恐れととったのか、一世は腕の力をいっそう強めた。背が弓なりにしなる。
「い、ぁっ」
 首筋に吸いつかれて、亜沙子は高い声を上げた。
「あの男が執着する気持ちは判る。天狼達も亜沙子を好いている。私も――」
「あッ」
 乱れた襟の隙間に指が入り込み、亜沙子は驚いて腰を引かせた。逃げられない。強い力で胸を揉みしだかれた。
「……今夜は気がたかぶっている。姫が慰めてくれるか?」
「ッ」
 深みのある声で耳にささやかれて、身体の芯が疼いた。否定も肯定もできずにいると、身体を横抱きに持ち上げられた。そっと寝台の上に下ろされ、力強い身体が、荒々しく覆いかぶさってくる。
「ま、待って」
 腕を突き出して押しのけようとするが、びくともしない。膝で足を割られ、はだけた着物の隙間に手を差し入れられた。
 息を呑む亜沙子を押さえつけて、肌の上を大きな掌が艶めかしくまさぐる。胸の膨らみを直に揉みしだかれて、亜沙子の背筋にぞくっとしたふるえが走った。
「やめ……んぅッ」
 かすかな拒絶は、唇の中に呑みこまれた。熱い舌にからめとられて、言葉は艶めかしい水音に溶けてゆく。
 逃げようとする身体を叱るように、両腕をきつく、寝台の上に縫い留められた。
 強い力に抗えない。
 できたとしても、一世の魅力には抗えなかっただろう。
 本当は、こうなることを、ずっと心のどこかで望んでいたのかもしれない。
 二人の間に銀糸を引いて、唇は離れた。
 濡れた唇を親指で拭われて、亜沙子は上目遣いに一世を見つめた。青と金の瞳に、見まごうなき熱が灯っている。
「……はぁ……亜沙子……」
 艶めかしい吐息に、身体が熱くなった。きっと、亜沙子も同じような顔をしているのだろう。
 月明りに輪郭を縁取られた一世は、優麗で幽幻的な美しさに満ちていた。彫像のように引き締まった美しい裸体が、亜沙子に覆い被さる。
 重なる影は一つになり、境目がないほど溶け合った。
 細い悲鳴を上げて仰け反る身体を、強靭な腕が抱きしめる。荒れ狂う大波に身体を攫われて、悦びの中で貫かれた。