燈幻郷奇譚
4章:天狼と見る夢 - 7 -
彩国の騒動から数日。
波乱のない、穏やかな日々が燈幻郷に戻ってきた。
あの夜、蓬莱山から降りてきた天狼達は、先陣を切って暴れていた烈迦をはじめ、皆元気にしている。
聞いた話では、大王の病は完治したらしい。
約束を違えて亜沙子を閉じこめた件に関して、民草には伏せられたが、天帝の目を誤魔化すことはできない。彼等は今後もお山に入ることは赦されないだろう……そう一世も紫蓮も話していた。
趣のある中庭に、蒼白い光が降りてくる。
欄干から月を仰いで、亜沙子は月輪観 をしていた。ここのところ、眠れない夜が続いている。
夜空にたなびく大星雲、蒼白い月を眺めていると、今でも自分がどこにいるのか判らなくなる。
ここは地球と似ているようで、異なる別世界だ。月も二回りほど大きく見えるし、黄金ではなく蒼白い光彩を放っている。
ぼんやり思想に耽 っていると、奥の茂みが揺れた。
恐々と目を凝らしていた亜沙子は、茂みから覗いた顔を見て、目を丸くした。
「凛夜! びっくりした!」
「驚かせてすまん。戻ってきたのに、ちっとも顔を見せないから、心配していたんじゃ」
「ごめんね。実は、しばらく邸から出ることを禁じられているの」
凛夜は首を傾げた。
「しばらくって? いつまでじゃ?」
「うーん……判らない」
「宗主様は、姫様のことが心配なんだな」
一世のことを思い浮かべてどきりとしたが、亜沙子は淡くほほえむだけに留めた。
あの晩、一世と身体を繋いでから、亜沙子は彼の瞳を直視することができなくなっていた。彼はこれまで以上に甘く、優しく、亜沙子を大切にしてくれる。けれど、亜沙子の方は少しばかり怖気づいてしまった。
長寿の、それも群れを率いる天狼主 に寄り添って生きていくということを、真剣に考え始めたのだ。
先ず寿命が違う。彼の番 になるのなら、守られるだけでは駄目だ。それに、ちゃんと子を産めるのだろうか?
これまでになかった様々な懸念を覚えて、恋心は複雑に揺れていた。
こうなると知っていたから、これまで気持ちに抑制をかけてきたのに、あの一晩で何もかも変わってしまった。
複雑に揺れる気持ちに蓋をして、亜沙子は凛夜に笑みかけた。
「皆は元気にしている?」
「うん。和葉も、皆も姫様に会いたがっている」
「外出を許されたら会いにいくね」
「早く許されれるといいな」
「そうね。私も早く皆に会いたいな」
ゆったり銀毛の尾を揺らしていた凛夜は、亜沙子の顔をじっと見つめて、ぴたりと尾を止めた。
「……姫様、少し痩せたんじゃないか?」
「そう?」
「うん。邸に閉じこめられているせいか?」
「違うよ」
亜沙子は曖昧にほほえんだ。
天狼達の過保護を窮屈に感じることもあるが、心配をかけた罰だし、想われているのだと感じられて幸せでもある。
「なら、どうして元気がないんじゃ?」
「元気だよ。凛夜の顔を見たら、なんだか元気になったみたい」
凛夜は顔を朱くした。照れて無言になるが、ふいに真面目な顔つきになって、真っすぐに亜沙子を見つめた。
「……姫様が笑ってくれるなら、俺はなんでもする」
「優しいなぁ、凛夜は。ありがとうね」
「姫様が彩国へいくことになって、何遍も後悔した。あの時、俺が澄花酒を夜那川に落としさえしなければ、こんなことにはならなかったのに……って。もう後悔はしたくない」
陰った少年の顔を見て、亜沙子は努めて明るく笑った。
「こうして無事に帰ってこれたんだから。気にしないでいいんだよ」
「姫様、ずっと郷にいてくれる?」
「いるよ」
「本当に? 彩国にいきたいとかいいだすんじゃないだろうな?」
「いわないよ。ここの暮らし、気に入っているもの」
「本当か?」
「本当だよ。一世も凛夜達もいるし。ずっといたいと思ってる」
「俺も姫様が好きじゃ! ずっと郷にいておくれ」
しがみついてくる凛夜の背中を、亜沙子は優しく撫でた。
「ありがと。私も凛夜が大好きだよ」
「姫様がいないと退屈じゃ。宗主様も紫蓮様もおっかないし……俺も姫様のことが気になって敵わん。もう、どこにもいかないでおくれ」
「いかないよ」
胸がぎゅっと締めつけられて、亜沙子は思わず凛夜の頭を腕の中に抱き寄せた。凛夜は吃驚 して声を上げたが、腕の中でじっとしていた。
ここへきた当初は、望郷や肉親への愛情を、意識して鎖 していたけれど、今は自然と想うことができる。
その心の変化は、燈幻郷の暮らしが亜沙子の中で根づいたからだ。
まだ怖気づくともあるが、心の底ではとっくに覚悟を決めている――天狼達と共に、ここを終 の棲家として生きていく。
波乱のない、穏やかな日々が燈幻郷に戻ってきた。
あの夜、蓬莱山から降りてきた天狼達は、先陣を切って暴れていた烈迦をはじめ、皆元気にしている。
聞いた話では、大王の病は完治したらしい。
約束を違えて亜沙子を閉じこめた件に関して、民草には伏せられたが、天帝の目を誤魔化すことはできない。彼等は今後もお山に入ることは赦されないだろう……そう一世も紫蓮も話していた。
趣のある中庭に、蒼白い光が降りてくる。
欄干から月を仰いで、亜沙子は
夜空にたなびく大星雲、蒼白い月を眺めていると、今でも自分がどこにいるのか判らなくなる。
ここは地球と似ているようで、異なる別世界だ。月も二回りほど大きく見えるし、黄金ではなく蒼白い光彩を放っている。
ぼんやり思想に
恐々と目を凝らしていた亜沙子は、茂みから覗いた顔を見て、目を丸くした。
「凛夜! びっくりした!」
「驚かせてすまん。戻ってきたのに、ちっとも顔を見せないから、心配していたんじゃ」
「ごめんね。実は、しばらく邸から出ることを禁じられているの」
凛夜は首を傾げた。
「しばらくって? いつまでじゃ?」
「うーん……判らない」
「宗主様は、姫様のことが心配なんだな」
一世のことを思い浮かべてどきりとしたが、亜沙子は淡くほほえむだけに留めた。
あの晩、一世と身体を繋いでから、亜沙子は彼の瞳を直視することができなくなっていた。彼はこれまで以上に甘く、優しく、亜沙子を大切にしてくれる。けれど、亜沙子の方は少しばかり怖気づいてしまった。
長寿の、それも群れを率いる
先ず寿命が違う。彼の
これまでになかった様々な懸念を覚えて、恋心は複雑に揺れていた。
こうなると知っていたから、これまで気持ちに抑制をかけてきたのに、あの一晩で何もかも変わってしまった。
複雑に揺れる気持ちに蓋をして、亜沙子は凛夜に笑みかけた。
「皆は元気にしている?」
「うん。和葉も、皆も姫様に会いたがっている」
「外出を許されたら会いにいくね」
「早く許されれるといいな」
「そうね。私も早く皆に会いたいな」
ゆったり銀毛の尾を揺らしていた凛夜は、亜沙子の顔をじっと見つめて、ぴたりと尾を止めた。
「……姫様、少し痩せたんじゃないか?」
「そう?」
「うん。邸に閉じこめられているせいか?」
「違うよ」
亜沙子は曖昧にほほえんだ。
天狼達の過保護を窮屈に感じることもあるが、心配をかけた罰だし、想われているのだと感じられて幸せでもある。
「なら、どうして元気がないんじゃ?」
「元気だよ。凛夜の顔を見たら、なんだか元気になったみたい」
凛夜は顔を朱くした。照れて無言になるが、ふいに真面目な顔つきになって、真っすぐに亜沙子を見つめた。
「……姫様が笑ってくれるなら、俺はなんでもする」
「優しいなぁ、凛夜は。ありがとうね」
「姫様が彩国へいくことになって、何遍も後悔した。あの時、俺が澄花酒を夜那川に落としさえしなければ、こんなことにはならなかったのに……って。もう後悔はしたくない」
陰った少年の顔を見て、亜沙子は努めて明るく笑った。
「こうして無事に帰ってこれたんだから。気にしないでいいんだよ」
「姫様、ずっと郷にいてくれる?」
「いるよ」
「本当に? 彩国にいきたいとかいいだすんじゃないだろうな?」
「いわないよ。ここの暮らし、気に入っているもの」
「本当か?」
「本当だよ。一世も凛夜達もいるし。ずっといたいと思ってる」
「俺も姫様が好きじゃ! ずっと郷にいておくれ」
しがみついてくる凛夜の背中を、亜沙子は優しく撫でた。
「ありがと。私も凛夜が大好きだよ」
「姫様がいないと退屈じゃ。宗主様も紫蓮様もおっかないし……俺も姫様のことが気になって敵わん。もう、どこにもいかないでおくれ」
「いかないよ」
胸がぎゅっと締めつけられて、亜沙子は思わず凛夜の頭を腕の中に抱き寄せた。凛夜は
ここへきた当初は、望郷や肉親への愛情を、意識して
その心の変化は、燈幻郷の暮らしが亜沙子の中で根づいたからだ。
まだ怖気づくともあるが、心の底ではとっくに覚悟を決めている――天狼達と共に、ここを