3EMI - 転生した平凡令嬢が好感度マイナスの義兄から溺愛されるまで
2章:公爵邸をでようかしら? - 2 -
年が明けて五月に入り、エミリオは飛び級試験に見事合格した。新学期から、十八歳にまじって大学の授業を受けることになる。
周囲と年齢差があるので目立ちそうだが、これまでもエミリオは常に注目の的であったし、大人びた雰囲気を持つ彼のことだから、むしろ大学院の方が馴染めるかもしれない。
試験が終わってもエミリオは多忙だ。生徒会の引継ぎや、進学手続きなどで、相変わらず公爵家には帰ってこない。
エイミーは、冬の晩餐会を最後に彼と顔をあわせていないが、ウィスプをする仲になった。
というのも、エミリオは冬休みの間にエイミーの贈った本を読み、その感想を伝えてくれたのだ。好評だったことも嬉しいが、なにより彼から伝えてくれたことが嬉しかった。出会った当初を思えば、奇跡のような出来事だ。
もしかしたら、今なら最後通牒の件を水に流してくれるかもしれない……
そんな甘い考えが脳裏をよぎりもするが、エイミーには自立計画がある。次に会うときは、エミリオにしっかりと報告するつもりだ。
七月の終わり、エイミーの誕生日の一週間前、エイミーは練りに練った“エイミー投資計画”を両親の前でプレゼンした。十四歳になったら独り暮らしをするという案は義母に猛反対されたが、それ以外は概ね好評で、初期費用の七一〇万ルアー(約一億円)も融資ではなく無利子の贈与として承諾された。
うまくいけば、将来は公爵家の投資コンサルタントの一端を任せてもらえるかもしれない。
俄然やる気になったエイミーは、エミリオにもウィスプで資料を共有した。その日の晩には既読の自動通知が届いたが、返信がきたのは翌日の晩で「エイミーが考えたの?」という懐疑的な一言だけ。恐々と「そうです」と答えると「帰省した時に詳しく聞かせて」と怖いような期待に満ちたような返事がきた。
かくしてXデー。
八月一日、エイミーの八歳の誕生日である。
この日のエイミーは、黒と白のコントラストが織り成すゴシック・ドレスを身に纏い、ツインテールの毛先を巻いて、去年エミリオにもらったリボンを結んでいる。と、おとなしく鏡の前に座ってお世話されていたら、笑美のなかのエイミーがいきなり暴走して、黒に近いリップを塗ろうとして、マイヤ夫人によって阻止された。結局、ピンク色のリップに蜂蜜のバームを塗って、八歳らしい感じに落ち着いた。
全身鏡の前でおかしなところがないかチェックしていると、マイヤ夫人に声をかけられた。
「グラスヴァーダム魔法学院からエミリオ様がお戻りになったそうです」
並列化水晶 で使用人から報告があったのだろう。
「そう」
エイミーは笑顔で振り向いた。
「今回はどれくらい滞在されるのかしら?」
「特に窺っておりません。ご本人にお訊きしてみたらいかがですか?」
てっきり三日間だと即答されると思っていたエイミーは、少し意外に思いながら、頷いた。いよいよエミリオと対面するのだと思うと、緊張してきた。大丈夫。この日のために準備してきたのだから。
一階の光射すリビングルームに、公爵家の人々は集まっていた。いつものように、赤い天鵞絨 のソファに腰をかけて寛いでいる。
エイミーは、彼らの顔を順に眺め、エミリオを見つけてほほえんだ。彼の方も近づいてきて、互いの姿を目に映した。エイミーもだが、彼もまた少し背が伸びたようだ。
「お帰りなさい、お義兄さま」
スカートの裾を摘まんで、上品にお辞儀をすると、
「ただいまエイミー。誕生日おめでとう」
エミリオは目を細めて微笑した。艶やかな銀髪がさらりと揺れる。久しぶりに見る義兄の美しさに、エイミーは息を忘れそうになった。
「素敵なドレスだね、よく似合っているよ」
「ありがとう」
エイミーは嬉しいような恥ずかしいような、よく判らない羞恥に襲われた。彼に外見を褒められるのは、初めてかもしれない。
「お義兄さまも、今日もとっても素敵です」
エイミーは心のこもった言葉を返した。
「ありがとう」
エミリオは礼儀正しくも、余裕の笑みを浮かべている。
日頃から美辞麗句を浴びている彼には響かないかもしれないが、世辞ではなく、本当に素敵だと思う。
陶磁器人形 のような美貌はもちろん、衣装も素敵だ。碧色のブラウスは首元が高く、漣 のような絹の輝きで、細見の黒いスラックスは脚をしなやかに包みこんでいる。宝飾は控えめだが、腰に巻かれた金のベルトがアクセントになっている。流麗なシルエットは完成され過ぎていて、まるでバロック調の鏡に映りこんだ幻影のようだ。
「はい、プレゼント」
プレゼントを差しだされ、エイミーは我に返った。
「わ、ありがとうございます」
リボンの蒔かれた木箱を両手で受け取ると、程よい重さを掌に感じた。わくわくしながら箱をあけると、硝子製の宝石箱が入っていた。
「綺麗……」
宝石箱のなかに、紫水晶のピアスが入っている。ちょうど先日、ピアスホールを開けたばかりだ。
「ありがとう! 嬉しい」
エイミーが笑顔でいうと、エミリオはちょっとほっとしたようにはにかんだ。頭上に淡い光が集まる。
“28%”
驚いた。
冬の晩餐会では8%だったのに、ちょっと会わない間に随分と増えた。これは投資計画が効いたのかもしれない。
エイミーはエミリオに話したいことがたくさんあったが、エミリオは、午後になるまで公爵の執務室からでてこなかった。久しぶりに帰省したから、色々と話すことがあるのだろう。
午後一時になり、客人たちが続々と訪れはじめると、エイミーも義母と一緒に挨拶回りで忙しくなった。
午後二時になり、ホールに音楽が流れ始めると、ようやくエミリオと合流できた。
「踊る?」
エミリオに手を差し伸べられ、エイミーはびっくりした。一年前は“死んでも厭”って顔をしていたのに。
「はい」
驚いたものの、エイミーは喜んで手を重ねた。
エミリオは柔らかな笑みを浮かべ、紳士然とその手をとり、エイミーをエスコートしてくれる。
ホールの中央へ向かう二人の姿に、周囲からは拍手が湧きあがった。本日の主役が踊るとなれば、注目を浴あびるのも避さけられない。
エイミーは少し緊張したけれど、日頃からダンスの練習をしているので、不安はなかった。
音楽に身を任せて、軽やかにステップを踏む。エミリオと踊るのは初めてだけれど、息はあっている。幾度かの旋回を経て、エイミーの動きにも余裕が出てきた。するとエミリオはふいに微笑みながら、エイミーに小声で話しかけた。
「投資計画書を読ませてもらったよ。いい内容だと思う」
「ありがとう。お義父さまとお義母さまには、もう了承を頂いているの」
「うん、聞いたよ。ふたりとも感心していた。僕もね」
エミリオはふっと笑った。嫌味のない素の笑みだ。エイミーは胸が熱くなるのを感じた。
「あのね、投資計画の内容なんだけど」
一瞬、ダンスを忘れて脚が止まりそうになった。すかさずエミリオがフォローしてくれる。
「後でゆっくり話そう」
「はい」
エイミーは踊ることに集中した。一曲終えると、また拍手が鳴る。
エミリオは忽 ちご令嬢方に囲まれた。今年はエイミーにも男性から声がかかり、礼を失しない程度に幾人かの手をとって踊ったり、歓談に興じたりした。
お互いに、午後三時の鐘が鳴るまで社交をこなし、来客を見送った。
午後四時過ぎ。一息ついたところで、義母から退出の許可がでたので、エイミーは早速エミリオに声をかけた。
「お義兄さま、明日の予定は?」
「午前中は、父上と面談がある。午後なら空いているよ」
「良かった。私の秘密基地にきてくれる? 投資計画について報告したいの」
「秘密基地?」
「森のなかにあるの。歩いていける距離なんだけど、いい?」
ちょっと不安になりながらエイミーが訊ねると、エミリオはふっとほほえんだ。
「いいよ」
ぱっとエイミーは顔を輝かせた。
「良かった! 明日、部屋で待っていればいい?」
「うん。用が片付いたら、エイミーの部屋に迎えにいくよ」
「わかった!」
エイミーは笑顔のまま、廊下で別れた。
翌日の午後。
エイミーは私室の深いソファに腰を沈め、香り立つ紅茶の湯気を軽く吸いこみながら、並列化水晶 で投資計画の復習をしていた。微かに時計の針が時を刻む音が響き、薄曇りの窓辺に揺れるカーテンが、静寂に小さな波紋を落としている。
そわそわと落ち着かない。意識もそぞろで、扉越しにノックの音が聞こえた途端に、ぱっと立ちあがった。
「いらっしゃい」
大きく扉を開くと、廊下の空気が静かに流れこみ、エミリオが姿を現した。黒のスラックスと白いシャツにベストと軽装だが、泥濘 も歩けそうな編みこまれた黒革のブーツを履いている。準備万端だ。
「お待たせ。迎えにきたよ」
「少し待ってね」
エイミーは扉を開けたまま身を翻すと、椅子に置いてあった鞄を斜めがけにし、机上の籠を腕にさげた。これでエイミーも準備万端だ。
急いで扉に戻ると、エミリオは物珍しそうに部屋の様子を眺めていた。これまで犬猿の仲だったから、互いの部屋を行き来することもなかった。ゆっくりもてなしたいところだが、今日は目的がある。
「さっ、でかけましょう」
エイミーが張り切っていうと、
「持つよ」
すかさずエミリオが籠に手を伸ばし、エイミーは戸惑った。
「あ、重いから」
「なおさら持つよ」
今度はエイミーも素直に籠を渡した。お皿や料理が入っているので、そこそこ重量はあるが、エミリオは文句もいわずに扉を閉めてくれた。息を吸うようにエスコートをしてくれるが、エイミーは気恥ずかしに赤面しそうになる。いつか慣れる日がくるのだろうか?
庭にでると、遠くからロージーが駆けてきた。今日はエミリオも一緒なので、いつになく嬉しそうだ。
「秘密基地にいくときは、いつもロージーと一緒なの」
エイミーはロージーの白い長毛を撫でながらいった。
「仲がいいね」
「うん」
初めて会った時から気のあう友達だ。先導するように少し走っては振り返り、嬉しそうに吠えて、ふたりが追いつくのを待っている。白い長毛が緑の森に映えて眩しい。遠くにいても一目でわかる。
曇り空だが、風は涼しくて心地いい。こうしてエミリオと一緒に森を歩く日がくるとは……感慨深い気持ちで歩いていると、あっという間に目的地に到着した。
エイミーは大樹のしたにエミリオを案内し、少し誇らしげに雨除けのシートをはがした。居心地よく整えた自慢の天幕だ。
「私の秘密基地なの」
ちょっと子供っぽい言い方かなと思ったけれど、エミリオの菫色の瞳は輝いた。大人びて見えても、まだ十歳の男の子なのだと思えて安心する。
「ここに招待したのは、お義兄さまが初めてよ」
エイミーはなかに入ると、積みあげた煉瓦のうえに立ち、慣れた手つきで天幕から吊りさげた角燈 に火を点けた。アンティークな蝋燭の明かりが、天幕のなかを柔らかな橙色に染めあげる。
「どうぞ、座って」
エイミーが煉瓦のうえに敷いたクッションを叩くと、エミリオはそこに腰を落ち着けた。興味深そうに辺りを眺めている。
「ここにあるものは、全部エイミーが用意したの?」
「そうよ」
小さな丸テーブル、土いじりの道具や、小瓶に詰められた乾燥ハーブ、そのほかエイミーが運びこんだ数々の小物を詰めこんだ木箱たち。
「少しずつ運び入れたの。時間はかかったけどね」
紅茶を淹れながら、エイミーは説明した。
受け皿に慎重にカップをおいて、ミルクと砂糖、それからスプーンを添えると、エミリオにさしだした。
「ここで、お茶会を開くことが夢だったの」
「お招きありがとう」
エミリオはほほえんだ。本当に優しい兄のように感じられて、エイミーは照れてうつむいた。
「いつか、招待したい子がいるの」
「誰?」
「通信学校の友達で、名前はアン・ホーリー・オラクル。私と同じ八歳の女の子」
笑美の感性では、呪われそうな響きの名前と思うが、この世界では不自然ではない。笑美の感性があっても、エイミーならイカしてるとコメントしそうだ。
「オラクル? オラクル・コードの?」
「そう、オラクル・コードの三女」
オラクル・コードは、魔術を利用した最大級の情報解析・未来予測を専門とする企業で、法人向けに未来予知や情報分析を行い、国家政策や企業戦略にも予言データを提供しているといわれている。
「社交では聞かないな。深窓の令嬢なの?」
「優しくていい子だよ。少し吃音があるから、人と話すのは苦手みたいで、通信制を受けているの」
「へぇ……誕生パーティーにはきていなかったよね?」
「うん。誘ったんだけど、人が集まる場所は苦手みたいで。お祝いのカードとプレゼントは届いたよ」
「そう、いい友人ができたんだね」
「うん。私、アンと離れたくないし、グラスヴァーダムも肌にあわないから、復学はしないつもりなの。これからも通信制を続けたいと思ってる」
少し緊張しながら、エイミーは切りだした。エミリオがじっと見つめてくる。
「あの投資計画は、エイミーがひとりで考えたの?」
エイミーはドキッとした。
「先生に訊いたり、並列化水晶 にもだいぶ手伝ってもらったけれど、大筋は自分で」
「よく調べたね」
「ありがとう。私、十四歳になったら自立しようと思ってる。それまでは、公爵家にいても良いですか?」
いよいよエイミーは、緊張で手が汗ばむのを感じた。もうエミリオの目を見ることができない。
「……本当に、変わったんだね。エイミーは」
ふっ、とエミリオが微笑する気配がして、エイミーはおずおずと顔をあげた。優しい菫色の眼差しと遭って、なぜだか胸がぎゅっと締めつけられるのを感じた。
「僕も態度を改めるよ。もうエイミーを追いだそうとは思っていないから」
一拍の後、はぁ、っとエイミーは安堵の息をついた。
「僕がいうと変に聞こえるかもしれないけど、自立を急ぐ必要はないよ。投資計画はともかく、母上もおっしゃっていたように、十四歳の女の子に一人暮らしなんてさせられない。ましてや君は公爵家の令嬢なのに」
理知的な優しい言葉を聴いた途端に、エイミーの目に涙が滲んだ。突然、感動に胸が詰まって、両手に顔を沈めた。
「エイミー? どうしたの?」
エミリオは身を乗りだして、エイミーの顔を覗きこもうとした。
「認めて、もらえて、嬉しくて……っ」
エイミーは溢れる涙を掌で押しぬぐい、しゃくりあげながら答えた。ふわっと髪に手が触れて、驚いて顔をあげると、エミリオが手を伸ばしてエイミーの頭を撫でていた。
「認めるよ。エイミーの努力と、君が義妹だということ。僕も……辛くあたって、悪かった」
エイミーは泣きながら首を振った。
時間が必要だったのだ。過去の記憶と交わした言葉を消化する時間が。今だから、春の雪解けのように、鎧 われた心を見せてくれた。赦しの言葉をくれたのだ。
勇気づけられたエイミーは、もうひとつ願い事をいってみた。
「今度、手紙を書いてもいい?」
ウィスプは便利だけど、たまには文字を綴りたい。これは笑美としての感性かもしれないが、絵を描いて送りたいとも思っていた。
「もちろん」
「ありがとう」
エイミーは涙をふいて笑った。顔をあげると、エミリオの頭上に光り輝く数字が見えた。
“32%”
目に見えて好感度が向上したことが嬉しくて、エイミーは声にだして笑った。
「良かったぁ」
「そんなに喜ぶ?」
エミリオは苦笑している。
「うん、嬉しいの」
エイミーは頬についた涙を指先でぬぐい、感謝の眼差しでエミリオを見つめた。
「ありがとう、お義兄さま」
エミリオは、珍しく照れたように視線をそらした。エイミーは物珍しさに目を瞠ったが、パタッパタッと天幕を叩く音に気を取られた。
「雨が降ってきたみたい」
どうしよう、とエイミーは持ってきた籠に視線を落とした。ここでランチを楽しむつもりでいたが、家に戻った方がいいかもしれない。
「この天幕に雨除けの魔術をかけようか?」
「ぜひ! お願い」
ぱっとエイミーは瞳を輝かせた。
「わかった」
彼は静かに、指先を天幕に向けた。その仕草は、まるで夜の闇に糸を紡ぐ蜘蛛のようで、ひそやかでいて確かな意志が宿っている。次の瞬間、空気がかすかに震えた。風でも音でもない何かが、天幕の内と外を隔て始めたのだ。
「わぁ……」
エイミーは感嘆の声をもらした。
透明な膜がゆっくりと広がり、天幕の上に薄氷のような輝きをまとって形を成していく。まるで光の糸を無数に絡め、天の帳 を織りあげたかのようだ。外の雨粒がその膜に触れるたび、まばゆいきらめきが生まれる。それは単なる水滴が生みだす光ではない。雨粒一つひとつが魔法に囚われ、微細な光の断片となって溶けてゆくのだ。膜越しに落ちる雨は、まるで空そのものが舞台の装飾であったかのように、意識を変えていく。
「どうかな?」
声をかけられ、エイミーは我に返った。
「とても素敵。ありがとう、お義兄さま」
「どういたしまして」
「本当にすごい、完璧だわ」
エイミーは、膜越しに落ちる雨を見つめたままいった。
「気に入ってもらえて良かった。これくらい部屋つきのメイドに頼めば、すぐに解決してくれたと思うよ」
エイミーは沈黙で答えた。
もちろん、マイヤ夫人を含めて、この邸の上級召使が、優秀な黄金種 なのは知っている。彼らに頼めばすぐにでも応えてくれただろうが、この場所はエイミーだけの秘密にしておきたかったのだ。大事な避難場所だったから。
「これからは、困ったことがあれば僕にいって」
沈黙の意図を汲んだかのように、エミリオは呟いた。
思いがけず柔らかな声をかけられて、エイミーは顔をあげた。思いやりに満ちた眼差しに、胸がじんと暖かくなる。
「……ありがとう」
「うん」
互いの目を見つめて、ほほえみあう。
「さて、雨に濡れる心配もなくなったし、ランチにしようか。用意してくれたのでしょう?」
明るい声で提案してくれることが嬉しくて、エイミーはにっこりした。
「採れたての野菜と、パンケーキ、それからベリーのジャムを持ってきたの」
エイミーはテーブルに白いレースの布をかけると、鞄から取りだした簡素な品々を並べた。それはただの食事ではなく、この場に捧げたエイミーの心そのものだった。彼もその準備にこめられた細やかな気持ちを感じ取り、ふっと微笑する。その笑顔はエイミーにとって、まるで世界そのものが優しく包み込んでくれるような感覚をもたらした。
周囲と年齢差があるので目立ちそうだが、これまでもエミリオは常に注目の的であったし、大人びた雰囲気を持つ彼のことだから、むしろ大学院の方が馴染めるかもしれない。
試験が終わってもエミリオは多忙だ。生徒会の引継ぎや、進学手続きなどで、相変わらず公爵家には帰ってこない。
エイミーは、冬の晩餐会を最後に彼と顔をあわせていないが、ウィスプをする仲になった。
というのも、エミリオは冬休みの間にエイミーの贈った本を読み、その感想を伝えてくれたのだ。好評だったことも嬉しいが、なにより彼から伝えてくれたことが嬉しかった。出会った当初を思えば、奇跡のような出来事だ。
もしかしたら、今なら最後通牒の件を水に流してくれるかもしれない……
そんな甘い考えが脳裏をよぎりもするが、エイミーには自立計画がある。次に会うときは、エミリオにしっかりと報告するつもりだ。
七月の終わり、エイミーの誕生日の一週間前、エイミーは練りに練った“エイミー投資計画”を両親の前でプレゼンした。十四歳になったら独り暮らしをするという案は義母に猛反対されたが、それ以外は概ね好評で、初期費用の七一〇万ルアー(約一億円)も融資ではなく無利子の贈与として承諾された。
うまくいけば、将来は公爵家の投資コンサルタントの一端を任せてもらえるかもしれない。
俄然やる気になったエイミーは、エミリオにもウィスプで資料を共有した。その日の晩には既読の自動通知が届いたが、返信がきたのは翌日の晩で「エイミーが考えたの?」という懐疑的な一言だけ。恐々と「そうです」と答えると「帰省した時に詳しく聞かせて」と怖いような期待に満ちたような返事がきた。
かくしてXデー。
八月一日、エイミーの八歳の誕生日である。
この日のエイミーは、黒と白のコントラストが織り成すゴシック・ドレスを身に纏い、ツインテールの毛先を巻いて、去年エミリオにもらったリボンを結んでいる。と、おとなしく鏡の前に座ってお世話されていたら、笑美のなかのエイミーがいきなり暴走して、黒に近いリップを塗ろうとして、マイヤ夫人によって阻止された。結局、ピンク色のリップに蜂蜜のバームを塗って、八歳らしい感じに落ち着いた。
全身鏡の前でおかしなところがないかチェックしていると、マイヤ夫人に声をかけられた。
「グラスヴァーダム魔法学院からエミリオ様がお戻りになったそうです」
「そう」
エイミーは笑顔で振り向いた。
「今回はどれくらい滞在されるのかしら?」
「特に窺っておりません。ご本人にお訊きしてみたらいかがですか?」
てっきり三日間だと即答されると思っていたエイミーは、少し意外に思いながら、頷いた。いよいよエミリオと対面するのだと思うと、緊張してきた。大丈夫。この日のために準備してきたのだから。
一階の光射すリビングルームに、公爵家の人々は集まっていた。いつものように、赤い
エイミーは、彼らの顔を順に眺め、エミリオを見つけてほほえんだ。彼の方も近づいてきて、互いの姿を目に映した。エイミーもだが、彼もまた少し背が伸びたようだ。
「お帰りなさい、お義兄さま」
スカートの裾を摘まんで、上品にお辞儀をすると、
「ただいまエイミー。誕生日おめでとう」
エミリオは目を細めて微笑した。艶やかな銀髪がさらりと揺れる。久しぶりに見る義兄の美しさに、エイミーは息を忘れそうになった。
「素敵なドレスだね、よく似合っているよ」
「ありがとう」
エイミーは嬉しいような恥ずかしいような、よく判らない羞恥に襲われた。彼に外見を褒められるのは、初めてかもしれない。
「お義兄さまも、今日もとっても素敵です」
エイミーは心のこもった言葉を返した。
「ありがとう」
エミリオは礼儀正しくも、余裕の笑みを浮かべている。
日頃から美辞麗句を浴びている彼には響かないかもしれないが、世辞ではなく、本当に素敵だと思う。
「はい、プレゼント」
プレゼントを差しだされ、エイミーは我に返った。
「わ、ありがとうございます」
リボンの蒔かれた木箱を両手で受け取ると、程よい重さを掌に感じた。わくわくしながら箱をあけると、硝子製の宝石箱が入っていた。
「綺麗……」
宝石箱のなかに、紫水晶のピアスが入っている。ちょうど先日、ピアスホールを開けたばかりだ。
「ありがとう! 嬉しい」
エイミーが笑顔でいうと、エミリオはちょっとほっとしたようにはにかんだ。頭上に淡い光が集まる。
“28%”
驚いた。
冬の晩餐会では8%だったのに、ちょっと会わない間に随分と増えた。これは投資計画が効いたのかもしれない。
エイミーはエミリオに話したいことがたくさんあったが、エミリオは、午後になるまで公爵の執務室からでてこなかった。久しぶりに帰省したから、色々と話すことがあるのだろう。
午後一時になり、客人たちが続々と訪れはじめると、エイミーも義母と一緒に挨拶回りで忙しくなった。
午後二時になり、ホールに音楽が流れ始めると、ようやくエミリオと合流できた。
「踊る?」
エミリオに手を差し伸べられ、エイミーはびっくりした。一年前は“死んでも厭”って顔をしていたのに。
「はい」
驚いたものの、エイミーは喜んで手を重ねた。
エミリオは柔らかな笑みを浮かべ、紳士然とその手をとり、エイミーをエスコートしてくれる。
ホールの中央へ向かう二人の姿に、周囲からは拍手が湧きあがった。本日の主役が踊るとなれば、注目を浴あびるのも避さけられない。
エイミーは少し緊張したけれど、日頃からダンスの練習をしているので、不安はなかった。
音楽に身を任せて、軽やかにステップを踏む。エミリオと踊るのは初めてだけれど、息はあっている。幾度かの旋回を経て、エイミーの動きにも余裕が出てきた。するとエミリオはふいに微笑みながら、エイミーに小声で話しかけた。
「投資計画書を読ませてもらったよ。いい内容だと思う」
「ありがとう。お義父さまとお義母さまには、もう了承を頂いているの」
「うん、聞いたよ。ふたりとも感心していた。僕もね」
エミリオはふっと笑った。嫌味のない素の笑みだ。エイミーは胸が熱くなるのを感じた。
「あのね、投資計画の内容なんだけど」
一瞬、ダンスを忘れて脚が止まりそうになった。すかさずエミリオがフォローしてくれる。
「後でゆっくり話そう」
「はい」
エイミーは踊ることに集中した。一曲終えると、また拍手が鳴る。
エミリオは
お互いに、午後三時の鐘が鳴るまで社交をこなし、来客を見送った。
午後四時過ぎ。一息ついたところで、義母から退出の許可がでたので、エイミーは早速エミリオに声をかけた。
「お義兄さま、明日の予定は?」
「午前中は、父上と面談がある。午後なら空いているよ」
「良かった。私の秘密基地にきてくれる? 投資計画について報告したいの」
「秘密基地?」
「森のなかにあるの。歩いていける距離なんだけど、いい?」
ちょっと不安になりながらエイミーが訊ねると、エミリオはふっとほほえんだ。
「いいよ」
ぱっとエイミーは顔を輝かせた。
「良かった! 明日、部屋で待っていればいい?」
「うん。用が片付いたら、エイミーの部屋に迎えにいくよ」
「わかった!」
エイミーは笑顔のまま、廊下で別れた。
翌日の午後。
エイミーは私室の深いソファに腰を沈め、香り立つ紅茶の湯気を軽く吸いこみながら、
そわそわと落ち着かない。意識もそぞろで、扉越しにノックの音が聞こえた途端に、ぱっと立ちあがった。
「いらっしゃい」
大きく扉を開くと、廊下の空気が静かに流れこみ、エミリオが姿を現した。黒のスラックスと白いシャツにベストと軽装だが、
「お待たせ。迎えにきたよ」
「少し待ってね」
エイミーは扉を開けたまま身を翻すと、椅子に置いてあった鞄を斜めがけにし、机上の籠を腕にさげた。これでエイミーも準備万端だ。
急いで扉に戻ると、エミリオは物珍しそうに部屋の様子を眺めていた。これまで犬猿の仲だったから、互いの部屋を行き来することもなかった。ゆっくりもてなしたいところだが、今日は目的がある。
「さっ、でかけましょう」
エイミーが張り切っていうと、
「持つよ」
すかさずエミリオが籠に手を伸ばし、エイミーは戸惑った。
「あ、重いから」
「なおさら持つよ」
今度はエイミーも素直に籠を渡した。お皿や料理が入っているので、そこそこ重量はあるが、エミリオは文句もいわずに扉を閉めてくれた。息を吸うようにエスコートをしてくれるが、エイミーは気恥ずかしに赤面しそうになる。いつか慣れる日がくるのだろうか?
庭にでると、遠くからロージーが駆けてきた。今日はエミリオも一緒なので、いつになく嬉しそうだ。
「秘密基地にいくときは、いつもロージーと一緒なの」
エイミーはロージーの白い長毛を撫でながらいった。
「仲がいいね」
「うん」
初めて会った時から気のあう友達だ。先導するように少し走っては振り返り、嬉しそうに吠えて、ふたりが追いつくのを待っている。白い長毛が緑の森に映えて眩しい。遠くにいても一目でわかる。
曇り空だが、風は涼しくて心地いい。こうしてエミリオと一緒に森を歩く日がくるとは……感慨深い気持ちで歩いていると、あっという間に目的地に到着した。
エイミーは大樹のしたにエミリオを案内し、少し誇らしげに雨除けのシートをはがした。居心地よく整えた自慢の天幕だ。
「私の秘密基地なの」
ちょっと子供っぽい言い方かなと思ったけれど、エミリオの菫色の瞳は輝いた。大人びて見えても、まだ十歳の男の子なのだと思えて安心する。
「ここに招待したのは、お義兄さまが初めてよ」
エイミーはなかに入ると、積みあげた煉瓦のうえに立ち、慣れた手つきで天幕から吊りさげた
「どうぞ、座って」
エイミーが煉瓦のうえに敷いたクッションを叩くと、エミリオはそこに腰を落ち着けた。興味深そうに辺りを眺めている。
「ここにあるものは、全部エイミーが用意したの?」
「そうよ」
小さな丸テーブル、土いじりの道具や、小瓶に詰められた乾燥ハーブ、そのほかエイミーが運びこんだ数々の小物を詰めこんだ木箱たち。
「少しずつ運び入れたの。時間はかかったけどね」
紅茶を淹れながら、エイミーは説明した。
受け皿に慎重にカップをおいて、ミルクと砂糖、それからスプーンを添えると、エミリオにさしだした。
「ここで、お茶会を開くことが夢だったの」
「お招きありがとう」
エミリオはほほえんだ。本当に優しい兄のように感じられて、エイミーは照れてうつむいた。
「いつか、招待したい子がいるの」
「誰?」
「通信学校の友達で、名前はアン・ホーリー・オラクル。私と同じ八歳の女の子」
笑美の感性では、呪われそうな響きの名前と思うが、この世界では不自然ではない。笑美の感性があっても、エイミーならイカしてるとコメントしそうだ。
「オラクル? オラクル・コードの?」
「そう、オラクル・コードの三女」
オラクル・コードは、魔術を利用した最大級の情報解析・未来予測を専門とする企業で、法人向けに未来予知や情報分析を行い、国家政策や企業戦略にも予言データを提供しているといわれている。
「社交では聞かないな。深窓の令嬢なの?」
「優しくていい子だよ。少し吃音があるから、人と話すのは苦手みたいで、通信制を受けているの」
「へぇ……誕生パーティーにはきていなかったよね?」
「うん。誘ったんだけど、人が集まる場所は苦手みたいで。お祝いのカードとプレゼントは届いたよ」
「そう、いい友人ができたんだね」
「うん。私、アンと離れたくないし、グラスヴァーダムも肌にあわないから、復学はしないつもりなの。これからも通信制を続けたいと思ってる」
少し緊張しながら、エイミーは切りだした。エミリオがじっと見つめてくる。
「あの投資計画は、エイミーがひとりで考えたの?」
エイミーはドキッとした。
「先生に訊いたり、
「よく調べたね」
「ありがとう。私、十四歳になったら自立しようと思ってる。それまでは、公爵家にいても良いですか?」
いよいよエイミーは、緊張で手が汗ばむのを感じた。もうエミリオの目を見ることができない。
「……本当に、変わったんだね。エイミーは」
ふっ、とエミリオが微笑する気配がして、エイミーはおずおずと顔をあげた。優しい菫色の眼差しと遭って、なぜだか胸がぎゅっと締めつけられるのを感じた。
「僕も態度を改めるよ。もうエイミーを追いだそうとは思っていないから」
一拍の後、はぁ、っとエイミーは安堵の息をついた。
「僕がいうと変に聞こえるかもしれないけど、自立を急ぐ必要はないよ。投資計画はともかく、母上もおっしゃっていたように、十四歳の女の子に一人暮らしなんてさせられない。ましてや君は公爵家の令嬢なのに」
理知的な優しい言葉を聴いた途端に、エイミーの目に涙が滲んだ。突然、感動に胸が詰まって、両手に顔を沈めた。
「エイミー? どうしたの?」
エミリオは身を乗りだして、エイミーの顔を覗きこもうとした。
「認めて、もらえて、嬉しくて……っ」
エイミーは溢れる涙を掌で押しぬぐい、しゃくりあげながら答えた。ふわっと髪に手が触れて、驚いて顔をあげると、エミリオが手を伸ばしてエイミーの頭を撫でていた。
「認めるよ。エイミーの努力と、君が義妹だということ。僕も……辛くあたって、悪かった」
エイミーは泣きながら首を振った。
時間が必要だったのだ。過去の記憶と交わした言葉を消化する時間が。今だから、春の雪解けのように、
勇気づけられたエイミーは、もうひとつ願い事をいってみた。
「今度、手紙を書いてもいい?」
ウィスプは便利だけど、たまには文字を綴りたい。これは笑美としての感性かもしれないが、絵を描いて送りたいとも思っていた。
「もちろん」
「ありがとう」
エイミーは涙をふいて笑った。顔をあげると、エミリオの頭上に光り輝く数字が見えた。
“32%”
目に見えて好感度が向上したことが嬉しくて、エイミーは声にだして笑った。
「良かったぁ」
「そんなに喜ぶ?」
エミリオは苦笑している。
「うん、嬉しいの」
エイミーは頬についた涙を指先でぬぐい、感謝の眼差しでエミリオを見つめた。
「ありがとう、お義兄さま」
エミリオは、珍しく照れたように視線をそらした。エイミーは物珍しさに目を瞠ったが、パタッパタッと天幕を叩く音に気を取られた。
「雨が降ってきたみたい」
どうしよう、とエイミーは持ってきた籠に視線を落とした。ここでランチを楽しむつもりでいたが、家に戻った方がいいかもしれない。
「この天幕に雨除けの魔術をかけようか?」
「ぜひ! お願い」
ぱっとエイミーは瞳を輝かせた。
「わかった」
彼は静かに、指先を天幕に向けた。その仕草は、まるで夜の闇に糸を紡ぐ蜘蛛のようで、ひそやかでいて確かな意志が宿っている。次の瞬間、空気がかすかに震えた。風でも音でもない何かが、天幕の内と外を隔て始めたのだ。
「わぁ……」
エイミーは感嘆の声をもらした。
透明な膜がゆっくりと広がり、天幕の上に薄氷のような輝きをまとって形を成していく。まるで光の糸を無数に絡め、天の
「どうかな?」
声をかけられ、エイミーは我に返った。
「とても素敵。ありがとう、お義兄さま」
「どういたしまして」
「本当にすごい、完璧だわ」
エイミーは、膜越しに落ちる雨を見つめたままいった。
「気に入ってもらえて良かった。これくらい部屋つきのメイドに頼めば、すぐに解決してくれたと思うよ」
エイミーは沈黙で答えた。
もちろん、マイヤ夫人を含めて、この邸の上級召使が、優秀な
「これからは、困ったことがあれば僕にいって」
沈黙の意図を汲んだかのように、エミリオは呟いた。
思いがけず柔らかな声をかけられて、エイミーは顔をあげた。思いやりに満ちた眼差しに、胸がじんと暖かくなる。
「……ありがとう」
「うん」
互いの目を見つめて、ほほえみあう。
「さて、雨に濡れる心配もなくなったし、ランチにしようか。用意してくれたのでしょう?」
明るい声で提案してくれることが嬉しくて、エイミーはにっこりした。
「採れたての野菜と、パンケーキ、それからベリーのジャムを持ってきたの」
エイミーはテーブルに白いレースの布をかけると、鞄から取りだした簡素な品々を並べた。それはただの食事ではなく、この場に捧げたエイミーの心そのものだった。彼もその準備にこめられた細やかな気持ちを感じ取り、ふっと微笑する。その笑顔はエイミーにとって、まるで世界そのものが優しく包み込んでくれるような感覚をもたらした。