3EMI - 転生した平凡令嬢が好感度マイナスの義兄から溺愛されるまで

2章:公爵邸をでようかしら? - 4 -

 翌日。昼食をとったあと、エイミーとエミリオは玄関ホールに向かった。ふたりとも乗馬に適した身軽に動ける恰好をしている。
 エイミーは、黒を基調としたケープコートを纏い、淡いベージュのパンツを脚に滑らせ、膝上まで伸びる艶やかな革の深靴を履いている。エイミーにしては装飾控えめだが、裏地に忍ばせた白豹しろてんが洒落ている。全体の印象は大人びているが、髪を高く結いあげ、真っ白なポンポン飾りは子どもらしい。
 エミリオは、重厚な刺繍が施された軍服風のデザインで、腰回りを締める金属の装飾ベルトが素敵だ。身体に沿う縫製なので、スタイルの良さが際立つ。深い黒の布地は上質で温かそうだが、外套はいらないのだろうか?
「お義兄さま、寒くない?」
 エイミーが訊ねると、いや、とエミリオは首を振った。
「平気だよ。今日は天気もいいしね」
「そうね。私もコートいらないかな?」
 エイミーは健康な八歳児だが、冷え性だった笑美の影響で、この頃は靴下も肌着も、暖かいものを好んで身に着けている。
「着ておけば? 暑くなったら、脱げばいいんだから」
「うん」
 外にでると、使用人が二頭の美しい馬を引いてきた。
 この時代、人工ではない本物の馬に乗ることは上流階級のステータスで、公爵邸では、十七頭の素晴らしい馬を所有している。黒い雄馬はエミリオ、白銀の牝馬はエイミー専用の馬で、それぞれ養親から誕生日プレゼントに贈られた、一頭あたり一二四〇,〇〇〇ルアー(約一億円)もする超高級馬だ。
 乗馬は貴族のたしなみで、ふたりとも五歳の頃から馬に乗っている。エミリオはひとりで乗れるが、エイミーは補助が必要なため、使用人の手を借りて馬に乗ると、視界がぐんと高くなる。
「大丈夫?」
 エミリオの問いに、エイミーは笑顔で頷いた。乗馬には慣れているし、御伽噺のような白銀のシンシアのことは大好きだ。
「お義兄さまこそ、馬は久しぶりですか?」
「いや、学院の授業で乗っていたから、そうでもないよ」
 なるほど、とエイミーは頷いた。
 手綱さばきが軽やかで、凛々しい乗馬姿に見惚れてしまう。きっと学院でも注目の的だったに違いない。このように麗しい少年貴公子を見たら、年頃の少女たちはたちまち恋に落ちてしまうだろう。
 少し距離を置いて、浮遊単駆動車で追従しようとする護衛を、エミリオは振り返った。
「こなくていいよ、僕がいるから。何かあればウィスプで連絡して」
「かしこまりました」
 護衛は、丁寧にお辞儀をして引きさがった。
 きっとエイミーがいっても聞きいれてくれないのに、エミリオの言葉には従うのね……なんてひねくれた考えが脳裏を掠めるが、これも過去の悪行のせいだ。
 公爵家の裏に拡がる森に向かって走ると、ロージーが元気に駆け寄ってきた。今日は馬に乗っているので、いつもより遠くまでいける。
 ラドガ湖を囲む広大な森は、紅葉が見頃を迎えている。
 森のなかで空を仰ぎ見ると、視界いっぱいに、コナラやかえでの鮮やかな赤や黄金が目に飛びこんでくる。
 さわさわ、梢の葉擦れの音。遠くから聞こえるせせらぎ。鳥のさえずり。自然の交響曲に包まれて、原始の森の美しさに心を奪われる。緩やかな常歩なみあしの馬も、心地よさそうに尾を揺らしている。
 ラドガ湖は世界で十番目に広い湖で、外周をギャロップで駆けたとしても、八日はかかるだろう。
 あまりに広大なので、散歩する際はもっぱら、公爵邸から一番近い場所を起点にして、左右五キロから十キロ前後を目安にしている。外周は歩道整備されていて、馬でも走りやすい。
 湖に映る雄大な峰、紅葉が綺麗だ。穏やかな静寂が心を癒してくれる。空気は澄んで、冷たく、そろそろ極光オーロラを観測できる季節になる。
 一刻ほど散策したあと、再び森にわけ入り、秘密基地の前でおりた。
 エイミーが毎日のように訪れているので、なかは綺麗に保たれている。エミリオに雨除けの魔術をかけてもらったので、天幕の外側も綺麗だ。
「休憩にしましょう。火をおこすわ」
 エイミーはケープを脱いで袖をまくりあげ、天幕から道具をもちだし、煉瓦を積んだ小さな窯に火を入れた。その様子を、エミリオは興味深そうに見守っている。
「慣れているね」
「まぁね」
 ちょっと誇らしい気持ちでエイミーは頷いた。薬缶を火にかけて、湯を沸かす間に調理に取りかかる。
 煉瓦のうえに木製のまな板を水平において、持ってきた携帯保存袋から、材料をとりだすと、水筒の水で軽く手を洗う。エミリオの手にもかけてやった。
「こうやって、串にさしすの」
 お手本を見せると、エミリオは目を煌めかせて、キノコやベーコンを串にさしていく。
「僕が火にかけようか?」
 防火手袋をはめるエイミーを見て、エミリオが申しでた。
「平気、いつもやっているから」
「気をつけてね」
「うん」
「火事を起こさないように」
 エイミーが無言でエミリオに流し目を送ると、エミリオは咳払いした。
「失礼、つい」
「いいの」
 実際、庭に火を点けた前科もちのエイミーである。彼が釘を刺したくなるのも無理はない。
 そうこうしている間に湯が沸いた。じゃがいも、ベーコン、チーズ、それからスープの素と調味料を白い琺瑯カップに入れて、湯を注ぐ。木製スプーンでかきまぜて、簡単オニオンスープのできあがり。
「熱いから気をつけて」
 カップを渡すと、エミリオは両手で慎重に受け取った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 エイミーはにこっと笑みかけ、よく火が通るように、串の向きを変えた。
「そろそろいいわ」
 焼きあがった串に、ハーブと塩胡椒を振りかけて、エミリオに渡した。食べ方を迷っている様子を見て、エイミーはかぶりついて見せた。淑女らしくないかもしれないが、これが正解だ。すると、エミリオも同じようにかぶりついた。意外と躊躇いのない大きなひとくちだった。
「美味しい!」
 菫色の瞳がぱっと輝いた。
「良かった」
 エイミーもぱっと笑った。
「こんなに美味しいもの、初めて食べたよ」
 上品に口元を手で隠しながら、エミリオは感想を述べた。
「本当? 嬉しい」
 携帯保存袋に密封していたとはいえ、外で調理したものだ。エミリオがどう思うか心配していたのだが、気に入ってくれて良かった。
 傍にロージーが寄ってきたので、香料を振りかけていないベーコンを切り分けてあげた。尻尾をぶんぶん振りながら、ロージーはがつがつ食べている。
「エイミーは森でいつも、これを食べているの?」
「たまに。けど、今日は格別に美味しく感じるわ。きっとお義兄さまと一緒だからね」
 目を見つめていうと、エミリオは、はにかむように視線を伏せた。
 この理性的な義兄に、かわいいといいたくなる日がくるとは。思いがけず、エイミーはほほえましい気持ちになる。
「お義兄さま、グラスヴァーダムの寮生活はどんな感じですか?」
「やっぱり小等部とは違うね。皆大人だし……変わった人が多いけれど、個人主義というか、僕を特別視しないでくれるから楽だよ」
 エミリオは、大学課程の「月影寮」で生活している。高度な魔法研究を行う生徒のために用意された寮で、個室が与えられ、静かな環境で研究に集中できると聞いている。
「朝は早いんですか?」
「僕は早いけど、人によるよ。朝から瞑想や魔法の基礎練習に取り組む人もいれば、昼まで寝ている人もいる。皆、午後は講義や実験に集中して、夜は天体観測や個人研究に取り組んだりしている」
 エイミーは興味深く頷いた。ここ最近、エイミーの投資の話ばかりしていたので、彼の学園生活について聞いてみたいと思っていたのだ。これまでは聞ける仲ではなかったから、話してくれるのが嬉しい。
「大学の食事は美味しい?」
「美味しいよ」
「何が好き?」
 ふっとエミリオは笑った。
「そんなこと気になる? 学園内にレストランやカフェはあるけど、僕はいったことない。いつも携帯包装食エーテル・パックを買って、公園で食べているから」
 彼らしいな、とエイミーは頷く。
 携帯包装食エーテル・パックは、いわゆる弁当のことだ。表面に銀色の簡易封印が施されており、封を開けると食材の鮮度を保つ魔法が一瞬で解除され、温かな湯気が立ち、大きくなる。なかには、ドライミートやチーズ、果物や穀物パンが入っていて、栄養バランスに優れているし味も良い。
「公園で食べるのいいね」
 と、エイミーは同意した。
「気持ちいいよ。良い気分転換になる」
 友達と一緒に食べているのか気になったが、質問するのは気が引けた。周りは大人ばかりで、大学は始まったばかりだ。気のあう友人を見つけるには、たぶん、時間がいるだろう。
「大学の講義は難しい?」
「まぁ、難しいよ。でも、それ以上に興味深い」
「どんなことを学んでるの?」
 エイミーは明るく訊ねた。エミリオは少し言葉を選ぶように考えてから答えた。
「例えば深淵力学で、冥淵界クォンタム・ヘルの構造について学んでいる。どのようにこの世界と繋がり、深淵光アビサル・フレアを引きだしているのか、その理論を、実験を重ねながら深く掘りさげているところ」
「実験って? 罰則ペナルティがあるでしょう、危なくないの?」
 現代科学は光速を可能にし、瞬間転移や上位次元干渉に成功しているが、冥淵界クォンタム・ヘルについては解明できていない。謎が多いこともあるが、危険を伴うのだ。深淵光アビサル・フレアに触れ続けると、“影霊”に侵されてしまう。これを罰則ペナルティと呼ぶ。
「専属の浄心療法士が常駐しているし、対策はされているよ。冥淵界クォンタム・ヘルの研究施設は、安全面も重要視されるから」
「そうなんだ。深淵力学って、お義父さまの仕事にも関係している?」
「もちろん、関係しているよ。ゼラフォンダヤ公爵家は、古くから影霊祓いを生業にしているし、父上は冥淵総帥めいえんそうすいだしね」
 そう、義父であるエドガー公爵は、冥淵界クォンタム・ヘルから生じる影霊との戦いを指揮する、王国最高位の指導者でもある。
 影霊は、くらく、おぼろで、かたちなく、“いる”と認識してしまうと呪われる。墨が沁みこむように心をむしばみ、死へといざなうことから人々に恐れられてきた。
 その問題に対処するのが影霊祓士や浄心療法士で、ゼラフォンダヤ公爵家は彼らの筆頭だ。影霊単体ではなく、その集合体、かたちとなった 冥災めいさいを祓うことができる。一都市まるごと祓う冥照陣めいしょうじん断罪光だんざいこうを放出できるのは、ゼラフォンダヤ公爵家くらいのものだろう。
「じゃあ、公爵家のことを考えて、深淵力学を就学しているの?」
「半分はね。継承者として学んでいるのはもちろんだけど、僕自身も冥淵界クォンタム・ヘルに惹かれているんだ」
「惹かれてる?」
 エイミーは首を傾げた。
冥淵界クォンタム・ヘルは、僕たちの世界と並行して存在する、観測可能な別次元だ。その法則や現象を解明できれば、深淵光アビサル・フレアの安全な利用だけじゃなく、新しい魔法体系や次元間移動の安定化も見えてくるかもしれない。それに……単純に、未知を知りたいという気持ちがある」
「探求熱心だね。私は、なんでも並列化水晶バベルに訊いちゃうからなぁ」
 エイミーはすごいなぁと感じ入りつつ、脱力した。
並列化水晶バベルは義務化されているし、使うのは当たり前なんだけど、依存しすぎると自ら考える力を失ってしまうかもしれない。だから、エイミーも並列化水晶バベルの力を借りながら、自分で考える癖をつけるといいよ」
「気をつけます。私もお義兄さまを見習って、思考停止しないようにしないと」
「訊くこと自体は、いいことだよ。知ろうとしなければ、何も始まらない。並列化水晶バベルや僕に訊いて、そのうえで考えることが大事なんだと思う」
 エミリオは微笑みながら答えた。
「その通りね」
 しみじみとエイミーは頷いた。いやはや、十歳の少年とは思えないほど立派だ。
 心地いい風が流れて、ふと沈黙が落ちる。窯の火はもう消えていて、崩れた炭の端が、わずかに橙に光っていた。
「そろそろ、帰ろうか」
 エミリオの言葉に、エイミーも頷いた。
 椅子代わりにしていた切り株から腰を浮かすと、膝がじんとした。けっこう長い時間、座っていたようだ。
 窯の後片づけを済ませて、荷袋を馬具にくくりつけたエイミーは、エミリオを振り向いた。
「お義兄さま、冬はお戻りになる?」
 エミリオは考えこむ素振りを見せた。去年は帰ってこなかった。冬至祭も、誕生日も、新年を迎えても……公爵家にエイミーがいるから。
 そう考えて、自信をなくしかけたエイミーだが、思い切って誘ってみることにした。
「もし、時間があれば、オーロラ極光を観測しにいかない?」
「観測?」
「うん。十二月になれば、見れると思うから。綺麗だよ。ロージーを連れて、暖かいスープを飲みながら、眺めない?」
「それはいい案だね」
 好感触だ。エイミーの胸の奥に、ぽっと暖かな火が灯った。
「そろそろラドガ湖が凍り始めるから、スケートもできるよ」
「いいね」
「楽しみね」
 エイミーが笑みかけると、エミリオもほほえんだ。
「誕生日は判らないけど、冬休みには戻ってくるよ」
「うん! 楽しみ」
 心がふわっと軽くなり、エイミーは衝動的に、足元の落ち葉の山をつま先で蹴りあげた。赤や黄色の落ち葉が舞いあがる。
「はしたないよ」
「お義兄さまも蹴ってみて」
 エイミーが誘うと、エミリオは少しだけ逡巡した後、つま先で蹴りあげた。紅葉した葉が舞いあがり、思わずといった風に、エミリオは声にだして笑った。
「はは、こんなに散らかして、落ち葉を掃除する人は大変だ」
「森で掃除? 誰にも怒られないよ!」
 エイミーは無邪気に笑う。思いきり蹴りあげると、落ち葉が高く舞いあがった。エミリオも続けて蹴りあげながら笑った。
「しまったな。エイミーの振る舞いが僕にも移ったかもしれない」
「楽しくていいでしょ? これだけ降り積もっていたら、落とし穴があっても気づかないね」
「ダメだからね」
 エミリオは蹴るのを止めてエイミーを見た。
「何が?」
「落とし穴を作る気じゃないだろうね」
 エミリオに睨まれて、エイミーは怒ったふりをした。
「作らないよ!」
 エミリオに向かって落ち葉を蹴りあげてやった。枯れ葉が舞いあがり、エミリオの姿を覆い隠してしまう。
「やったな」
 お返しとばかりに、エミリオはエイミーに向かって枯れ葉を蹴りあげた。しまいにはたりとも葉っぱまみれになって、声をあげて笑った。
 やがて興奮も醒めて、そろそろ戻ろうとしたが、互いの姿を見て冷静になった。
「髪の奥にまで枯れ葉が潜んでる。どうしよう、ちっとも取れない。マイヤ夫人に殺される」
 エイミーは髪をいじりながら、深刻げに呟いた。
「僕も同罪だよ」
 協力して、互いの背中や髪についた枯れ葉を取り除いたが、細かな葉片の全てを取り除くことは不可能だった。
「大丈夫かな……」
 エイミーは土汚れの目立つ淡いベージュのズボンを眺めまわした。つい、はしゃいでしまった。
「洗えば落ちるさ。うちには最新のナノ分解洗濯機がある」
「確かに」
 この世界の生活魔道具は実に優秀で、ナノ分解洗濯機は、あらゆる汚れを落としてくれる優れものだ。
「飛び跳ねたら、枯れ葉が落ちるかも」
 その場でステップするように撥ねるエイミーを、エミリオが笑って見ている。
「兎になったつもり?」
「お義兄さまもどうぞ?」
 誘うと、エミリオの笑いは大きくなった。両手で腹を押さえて笑う姿なんて、初めて見る。
 彼の頭上に光が集まりだしたので、エイミーは飛び跳ねながら、見守った。

 41%

 わぁ、随分あがった。
 最後に見た時は、32%だった。会えない間もウィスプをしていたから、夏からさほど疎遠にしてはいなかったけれど……
 あんなに人形めいて見えたエミリオが、今、こんなにも楽しそうにしている。エイミーに笑いかけてくれる。それだけ心を許してくれたのだと思うと、感動して、涙がでそうになる。
 公爵家に戻ると、エイミーとエミリオの恰好を見た使用人たちは、予想した通り、少々慌てた。というよりも驚いていた。マイヤ夫人は少しばかり小言を漏らしたが、その眼差しは優しかった。
 これまで子供らしく遊ぶことのなかったふたりの姿に、その新鮮さに、彼らは胸を打たれのだ。
 その日の夕方、エミリオはグラスヴァーダム魔法学院に戻った。
 玄関まで見送ったエイミーは、いつもにまして寂しさを覚えたが、次の約束があることが嬉しかった。冬休みになればまた会える。