3EMI - 転生した平凡令嬢が好感度マイナスの義兄から溺愛されるまで

4章:アガサの灯火 - 4 -

 エミリオの先導で、目的地の講堂に辿り着いた。
 古色蒼然こしょくそうぜんたる円形講堂は、石造りの巨大建築――外壁には、幾世紀もの風雪を刻んだ石が幾重にも積まれ、時の重みをもくして語る。
 けれど、一歩足を踏み入れれば、空気は一変する。
 滑らかな曲線を描く構造に、黒革の観覧席が整然と並び、そこかしこに現代の意匠が息づいていた。
 確かに現代風なのだが……黒い制服に身を包んだ生徒たちが席を埋め尽くす光景は、どこか黒魔術結社の秘密集会を思わせる。
「……ちょっと、緊張する」
 消え入りそうな声で、エイミーはぽつりと漏らした。オリヴィアはふわりと身を屈め、茶色の瞳を覗きこんだ。
「あなたは素敵よ。もっと自信をお持ちなさいな」
 明るい碧眼に、茶目っ気と慈愛の光が宿っている。
「ありがとう、お義母さま」
「では、僕は自分の席に戻るよ。エイミーの挨拶、楽しみにしているね」
「はい! 頑張りますっ」
 ふたりに励まされて、エイミーは両拳を固く握りしめる。
 エミリオはふっと微笑し、エイミーの髪に指先をそっと置いた。優しく撫でるその仕草の余韻を残したまま、彼は大学院生の列へと歩を進めた。 
 一方、エイミーとオリヴィアは貴賓席に着席した。
 高い天窓から斜めに射す光が、月日を重ねたかしの壇を柔らかに染めている。
(あそこに立つのかぁ……壇上に立ったら、台詞が飛びそう。でもバベルがあるから大丈夫……)
 待ち時間が、余計に緊張を煽る。
 いっそ早く始まってほしいと思いながら、挨拶する自分の姿をシミュレーションしていると、壇上に学院長が顕れた。
 彼が歩くのにあわせて、琥珀を象嵌ぞうがんした白金のマントが片肩から翻り、魔術紋のように裾を縁取る金糸の刺繍が光る。
 緩んでいた空気は引き締まり、講堂はしんと静まりかえった。
 学院長は壇の中央に立つと、思慮深い眼差しで生徒を見据えた。
 照明の光をもらい受けて、学院長の肩章に、袖に、王国の紋章のあしらわれた胸章が煌めいている。
 学院の長というより、厳格な騎士を思わせる男性だ。
 オールバックにした青金髪、豹を思わせる白金の瞳。短く刈り込まれた顎髭。全身から醸す雰囲気からして、威厳と知性の化身のようだ。
 外貌は四十代に見えるが、黄金種ベルハーである彼の実年齢は、ゆうに百歳を超えている。
「今日は、喜びに満ちた祝祭の日。学問と友情と魔術が交わる特別な場。文化祭の幕開けです」
 重厚でありながら、穏やかな声。彼の言葉は、講堂の隅々にまで響き渡り、聴衆の胸を静かに打った。
「知とは孤独の果てに眠るものではなく、共に磨きあう炎です。
 この場に集いし全ての生徒たちに、他者と交わる喜び、世界に触れる勇気を、今日この日、心に刻んでほしい」
 誰もが、もくして聴き入っている。
「思索も討論も演目も、どれもがあなたたち自身の表現であり、記憶に刻まれる煌きとなるでしょう。
 さあ、グラスヴァーダムの名において――どうか、存分に楽しみなさい」
 その言葉が閉じられると、講堂の空気は、再び緩やかな息吹を取り戻した。遠慮がちな拍手が起きたが、学院長の視線が客席へと向けられると、再び講堂は静まり返った。
 学院長と視線がぶつかった瞬間、エイミーは、光の矢に射抜かれたような錯覚がした。
「エイミー・アガサ・ゼラフォンダヤ」
 その名が呼ばれると、講堂内にかすかな囁きがさざなみのように駆け巡った。
「はい」
 返事をして、エイミーは静かに席を立つ。
 オリヴィアが、励ますように、そっと腕を叩いてくれた。エイミーはほほえみで応えると、視線を正面に戻し、緊張した足取りで壇上へと向かった。
 数百人を収容する講堂は、静謐せいひつに包まれている。
 落とされた照明のなか、天窓から斜めに射す光が、くっきりと明るい。まるで深海の底を照らしているみたいだ。
 細心の注意を払って階段をのぼり、壇上に立つと、圧倒的な視線の重圧が降り注いだ。
 緊張のあまり、頭のなかが真っ白になる。
(大丈夫、落ち着いて)
 あらかじめ、並列化水晶バベルに台詞をインストールしてある。
 ただ読みあげれば、それでいい。
「皆さま、お久しぶりです。エイミーです。五年前まで、こちらの学院に通っていました」
 言葉を区切る。
 静寂が支配する。
 空気が、ひとつの呼吸すら躊躇うような沈黙に支配されていた。
 数百人の生徒たちの意識が、自分へと焦点を結ぶのを感じる。
「今日、このような場でご挨拶できること、心から感謝しています。そして、あの頃の私を知っている方には……様々な形で、大変ご迷惑をおかけしました」
 視線を巡らせると、数人の生徒が顔を寄せあい、こちらを見て笑っていた。
 視力のいいエイミーは、彼らがかつてのクラスメイトだと判っていた。
 ほんの僅かに、そちらに向けてお辞儀をする。皮肉ではなく――贖罪の証として。
「以前の私は――ちょっと、いえ、かなり問題のある生徒でした。怒りに身を任せ、周囲を破壊し、迷惑を撒き散らして……多くの人々の平穏を乱しました。でも、そんな私を見捨てなかった人たちがいたのです」
 言葉は、流れるように紡がれる。
 けれどそれは、決して平板な読みあげではなかった。台詞でありながら、確かな感情を宿していた。
「家族であり、施設の、学院の、通信制アルカの先生であり、そして同じ通信制アルカで出会った友人です。
 暖かい善意に、応えたくて。そして、次の誰かの助けになりたくて。私は、奨学金制度を創設することにしました」
 声が震えそうになり、エイミーは一度、言葉を切った。大丈夫、自信をもっていえる。
「名前は、“アガサの灯火”。アガサは、義母であるオリヴィアが授けてくれた、私のミドルネームです。
 灯火――それは、誰かがくれたぬくもりを、次の人に渡すこと。希望が消えそうになった時に、そっと照らしてくれる、小さな光のことです」
 話しながら、エイミーの脳裏に孤児院の記憶がよぎった。
 騒々しい食堂、慎ましい食事、隙間風……冬は部屋のなかにいても息が白く、冷たい床に辟易しながら、ほんのりと温かかった、誰かの手。あの頃は判っていなかったけれど、ささやかな暮らしは、誰かの善意で成り立っていた。
「私は、もともと孤児院で育ちました。学校にいけない子の気持ちも、家族のいない子の寂しさも、少しだけ知っています。
 でも、私が学ぶことを諦めないでいられたのは、ゼラフォンダヤ公爵家の人々が、先生方が、手を伸ばしてくれたからです。だから今度は、私が誰かに手を伸ばしたい。そう思いました」
 深く、ひとつ呼吸をおいて、遠くを見つめるように。
「この奨学金は、返さなくていいお金です。でも、ひとつだけお願いがあります。
 それは、将来、その子たちが誰かの“灯火”になってくれること。それだけです。
 たとえ困難があっても、自分を信じて、未来を信じて、歩いていけるように。私の灯した火が、小さくても、誰かの足元を照らすように。そう願っています」
 ほんの僅かに、ほほえむ。
 これがパフォーマンスであることは否定しないけれど、奨学金で未来を掴む子がひとりでも現れてほしい、その祈りは真実だ。
「以上をもちまして、ささやかながら、私からのご挨拶とさせていただきます。
 グラスヴァーダムの文化祭が、皆さまにとって――学びと出逢いに満ちた、実りあるひとときとなりますように。ご清聴、ありがとうございました」
 深く丁寧に、一礼する。
 最初はぽつり、ぽつり――やがて全体に広がるように――温かな拍手が講堂を包んだ。劇的な万雷……ではないけれど、真摯な拍手だ。
 燃え尽きた心地で、エイミーは貴賓席へと戻った。着席すると、膝に置いた手を、オリヴィアが、ぽんぽんと叩いて労ってくれた。
「立派だったわ」
 顔を寄せて、そっと囁く。
「ありがとう、お義母さま」
 エイミーも小声で返した。
 鼓膜の奥で、まだ心臓がとどろいている。
(お、おお、終わったあぁぁ……っ)
 人前で話すのは、本当に久しぶりだった。もう一回やれといわれても、膝が震えて無理だ。
 気が緩み、半ば茫然自失しているうちに、開幕式は終わった。
 講堂の扉が左右に大きく開かれ、来賓が先に外へでると、続いて生徒たちがぞろぞろと続く。
 講堂前の広場で待っていると、すぐに、エミリオが駆け寄ってきた。
「エイミー、素晴らしかったよ!」
 いつでも冷静な彼にしては珍しく、感情の色濃い声が弾けた。菫色の瞳が、きらめく星のように輝いている。
「ありがとう、お義兄さま! なんとか終わりました……」
 エイミーは表情を綻ばせた。張りつめていた糸が、ふっとほどけた気がした。
「よく頑張ったね」
 手をそっと握られた瞬間、自分の手が、震えていることに気がついた。
「……うん。ほっとしたら、なんか……」
 声が震えて、目元が熱を帯びる。
「エイミー」
 ぎゅっと、包まれるように抱きしめられた。
 温もりが、冷えきっていた感覚を溶かしていく。
 とても心地良かったけれど、周囲の視線が気になり、控えめに身を引こうとすると、エミリオも離れた。けれども、指先は優しく握り続けたままだ。
 顔をあげたエイミーは、息を止めた。
 エミリオの頭上に、光の粒子が集まりはじめている。

 68%

 好感度だ!
 すごく、あがっている!!
「母上、エイミー、文化祭を見にいきましょう。案内しますよ」
 指先をつないだまま、エミリオは優しげに笑みかけた。
 その無垢な微笑がこぼれた瞬間、空気が――ざわり、と波立つ。
 胸を撃ち抜かれた生徒たちは次々と心臓をおさえ、呻き声さえあげていた。エイミーもまた、眩しさに射抜かれたように視線を逸らす。
「……さすが、お義兄さま」
「何が?」
「すごく注目されるから。学院では、いつもこんな感じなの?」
並列化水晶バベル雑音遮断ノイズ・キャンセルを有効にしているんだ。どうでもいい会話は聞こえないから、楽でいいよ。エイミーもそうしたら?」
 あまりにもあっけらかんとした口調に、思わず吹きだしそうになる。
 ……エミリオの学院生活が垣間見えた気がする。向けられる秋波も、情熱も、涼しい顔で受け流し、無意識に幾人もの恋心を袖にしてきたのだろう。
「ほら、いきましょう。エミリオの研究成果を見せてちょうだい」
 オリヴィアの明るく艶やかな声が、膠着していた空気をさらりとほどいた。
 いざ魔導光学部へ――
 若き天才が飛び級で籍を置く、大学院の中枢領域。深淵光アビサル・フレアに挑む叡智の砦、魔術と理論が交差する祭典のコアへと向かった。