3EMI - 転生した平凡令嬢が好感度マイナスの義兄から溺愛されるまで

4章:アガサの灯火 - 5 -

 世間では懐古主義ノスタルジーが一大潮流と化して久しいが、グラスヴァーダム魔法学院においては、そうした流行など塵ひとつほどの価値も持たない。
 この学院では、千年前の空気が今なお肌に触れ、静かに息づいているのだから。
 中庭を中心に放射状に広がる建築構造は、魔法エネルギーの均衡を計算しつくした設計であり、その配置美には幾何学を超えた叡智が宿っている。
 大学院棟へと続く遊歩道を歩けば、視界はひとときも退屈を許さない。
 興味を惹かれるものが次々と視界に飛びこんでくる。
 生徒たちが渾身の力で作りあげた油彩画や、魔道木工細工、ルーン織りの綴錦タペストリが通路の随所に飾られ、時にどこからともなく弦楽の調べが降りそそぎ、祭儀めいた祝祭の讃歌が、空気に香のように溶けこんでいた。
 ――前世・笑美の知っている文化祭とは随分と違う。
 魔法、知、芸術がけあい、光彩万華こうさいばんかにきらめく、幻想と叡智の万華鏡的カレイドスコピックだ。
 大学院の玄関広間は、神殿建築を思わせる円蓋構造で、その足元には、初代学院長と歴史に名を刻む賢者たちの像が厳かに並んでいる。
 天より吊るされた円環燭台が燦々さんさんと場内を照らし、その光のもと、彼らは生きた者のように、訪れし者を迎え入れていた。
「大学院には初めて入ったわ、素敵ね」
 ときめきのこもったエイミーの声に、オリヴィアが頷く。
「あなた、文化祭自体も初めてじゃなくて?」
 エイミーは小さく笑った。
 五歳の時にも文化祭はあったけれど、その年、オリヴィアはシドニーを身ごもっていて翔環ポータルの使用が制限されていた。代わりにマイヤ夫人が同行を申し出てくれたものの――当時のエイミーは彼女が苦手で、拒否したのだ。
 通信制アルカにも仮想空間バベル・ヴェールで文化祭イベントはあるが、やはり本家は違う。学院が醸す匂い、温度、息づかい――五感と六感を大いに刺激される。
 通りすがりに覗いた図書館では、古文書の特別公開が行われており、学者たちや専門職の来訪者でごった返していた。
 羊皮紙、葦紙パピルス、綿紙、そして孔子皮紙パーチメントの写本が、揺れる蝋燭の灯火に照らされて展示されている。
 それは、まるで眠りから目覚めた知の亡霊――失われた叡智が、いま一度この世に顕現するかのような眺めだった。
「……学者先生もたくさんいらしているのね」
 尖帽をかぶった魔導士たちに、貴石を纏う占術師、白衣の薬師や、白法衣の聖職者が、真剣な眼差しで書を手にしている様子は、ひとつの知的儀式のようでもある。
「学院にしか現存しない稀覯書きこうしょや、普段は閉じられている地下書庫まで開放されているからね。目当ての来訪者も多いよ」
 食堂もまた賑わっていた。
 “星の記憶”と銘打たれた出店には、行列ができている。夜空のゼリー、月灯りプリン、星屑チョコレート……どれも魅力的だ。魔術製菓部の人気は絶大らしい。
 興味をひかれたエイミーは、つい足を止めて行列に目をやった。
「寄ってみる?」
 娘の視線を追いかけた義母は、そう訊ねた。魔術製菓部に目をやりながら、エイミーは首をふる。
「気になるけど、すごい行列だから……お義兄さまの研究を見にいきましょう」
 ――が、いったそばから、道すがらに並ぶ呪術系展示のひとつに目を奪われて立ち止まる。
 黒蛇の蠢く幻視装置、眼球が浮かぶ呪水、無数の針が刺さった人形――琥珀色の光に照らされたそれらは、まるで死の予兆を表現した装飾美のようでもあった。
(アンが好きそう)
 脳裏に親友の姿を思い浮かべつつ、隣接する呪い屋で黒棕櫚の香を購入する。
 ほくほくした笑みを浮かべるエイミーに、エミリオが訝しげに訊ねた。
「……何に使うの? 黒魔術のアイテムだけど」
「アンへのお土産。彼女、こういうの大好きなの」
「ふぅん……」
 さらに骨董店にて封蝋印を見つけ、これまた購入。
「それもアンのお土産?」
「これはテンペスティスさん。彼、封蝋を集めているのよ」
 エミリオの返事がないことに気づき、エイミーは彼の顔を覗きこむ。菫色の瞳が、なにかいいたげにじっと見つめてきた。
「なぁに?」
「……見合い話は断ったんだよね?」
 耳元で囁かれた声に、心臓が跳ねる。距離の近さにドキドキしながら、エイミーは頷く。
「そうだけど、友達だから。交流はあるのよ」
「断った相手と仲良くするのって、気まずくない?」
「別に……断ったというより、流れたという感じだし。向こうもさっぱりしたものよ」
 奇妙な居心地の悪さを覚えながら、エイミーは答えた。
「ふぅん……」
 どこか釈然としない表情のエミリオ。その様子を見たオリヴィアが、くすくすと笑いを堪えている。
「リオは、エイミーを他の男の子に取られたくないのよね?」
「母上……」
 美貌の少年に冷たい目で見られても、オリヴィアは余裕の笑みを浮かべている。
「ふふ、かわいいものね」
 ふたりのやりとりを横目で見ているエイミーは、内心でハラハラしているのだが……母は強しというか、どこ吹く風だ。
(私があんな風にからかったら、好感度が一気にさがりそう……)
「あら、着いたんじゃない? ここでしょう、魔導光学部」
 ひと抱えもある一枚板のかしの扉は、堂々と開け放たれていた。
 その脇に掲げられた黒曜石の石板には、魔導光学部特別展——冥淵界クォンタム・ヘル干渉解析実験と、魔力で彫られた黄金文字が燦然さんぜんと刻まれている。
 千客万来――とまではいかないが、なかなかの賑わいだ。
「お義兄さまの所属している魔導光学部は、どんな展示をしているの?」
深淵光アビサル・フレアに長時間さらされることを想定した、並列化水晶バベルの干渉遮断に関する公開試演だよ。僕が衛星で実験していた時の映像も、今日から上映されてる」
「えっ……それって、お義兄さまが主役じゃない? こんなところにいて大丈夫なの?」
「交代制だから、気にしないで。明日は僕も腕章をつけて、来客の応対をするよ」
「そうなのね」
 大学院ということもあり、来訪者の多くは専門職や研究機関の大人たちだった。
 彼らは壁面にかけられた研究映像や、展示された魔導機器に目を輝かせ、特に鉄壁の硝子ケースに群がるように視線が集まっている。
 魔導光学部の腕章をつけた大学院生たちが、静かに、それでいて熱を帯びた解説をつけていた。
 部屋の奥、暗幕の奥まった空間では、衛星で行われた実験の様子が、壁一面に映しだされていた。
 映像のなか――巨大な魔導図を、大勢の研究員たちが囲んでいる。
 冥淵界クォンタム・ヘルからの波動を遮断しつつ、魔力の伝導率を最適化する複雑な術式が幾何学模様のように連なる魔導図を、彼らは真剣な顔で議論していた。
 そのなかには、エミリオの姿もあって、見ているエイミーの胸はじんと熱くなる。
 十五分ほどの映像が一巡すると、ふたたび冒頭に戻って再生された。
 暗幕のそとにでると、エミリオは、オリヴィアとエイミーを硝子ケースの前に連れていった。
「これが、先ほどの映像で紹介されていた並列化水晶バベル冥淵界クォンタム・ヘル干渉軽減装置だよ。僕も参加した衛星実験の成果が、ここに結晶しているんだ」
 彼の明瞭めいりょうな口調は抑えめながらも、隠しきれない誇らしさが滲んでいる。
 水晶が発する青白い光が、彼の端整な横顔に薄く反射していた。
 硝子の向こう、中央に据えられた深碧しんぺきの水晶を軸に、浮遊する粒子たちが螺旋を描いて踊っている。
 水晶の奥から、突如として黒い糸状の影が出現し、光の螺旋に絡みついた。
 一瞬で光の粒子を侵食していく——刹那、水晶から青白い閃光が放たれ、黒い糸を吹き飛ばし、霧散させた。
 展示を見守っていた人々から、驚きと感嘆かんたんの声が漏れる。
「今のは、影霊の干渉を模した擬似波動だよ。防御機構が自動発動して、浸食を遮断した。
 ただ、魔力伝導率をさげすぎると、干渉検知に必要な処理が追いつかなくなる。防御力と感知精度、その最適解を探るのが、この研究の核心なんだ。
 まだ試験段階だけど、完成まであともう少しなんだ」
 語る彼の声には、研究者としての冷静な熱意がにじんでいた。ひたむきな眼差しが、一層凛々しく見える。
 ――いつかの彼の言葉が蘇る。

 “影霊に侵されるリスクなく、冥淵界の最前線でも並列化水晶を安全に使えるようになる。父上をはじめとした前線の魔導士たちの負担を、少しでも減らしたいと思っているんだ。
 つまり、並列化水晶バベルの魔力伝導率を最適化しつつ、冥淵界クォンタム・ヘルとの干渉を絶つ方法を確立できれば、今よりもずっと戦闘は安全で楽なものになる”

 ……あの日、彼が語ってくれた夢が、いま現実になろうとしている。並々ならぬ努力を経て。
「……お義兄さまは、すごいわ」
 敬意をこめてそう呟くと、エミリオは優しくほほえんだ。
「ありがとう。でも、これは僕ひとりの成果じゃない。この研究に携わるすべての人の、総合力の結晶なんだ」
「みんなと協力して、成果を出しているお義兄さまが、私は誇らしい」
 エイミーが心からの賛辞を贈ると、エミリオは面映ゆげな表情で視線をふせた。
「……僕も、エイミーが誇らしかったよ。だから、僕の研究も見てほしかったんだ」
 その言葉に、エイミーの胸が熱くなる。
 静かな沈黙が流れる。
 てっきり、義母にからかわれると思ったのに、彼女はなにもいわなかった。とても優しい眼差しで、こちらを見おろしていた。
 おずおずと、エミリオに視線を戻すと、彼の頭上に光が集まり始めて――

 72%

 また、好感度があがった!
 目を丸くしたエイミーは、エミリオの視線に気がついて、ぎくしゃくとした笑みを浮かべた。
(えっ……また? 演壇の挨拶、そんなに響いてたの?)
 ドキドキしながら数字の分析をしていると、腕章をつけた長身の男子生徒が、音もなく近づいてきた。
「やぁ、エミリオ。珍しく懇切に案内をしてると思ったら……これは、これは、ゼラフォンダヤ公爵夫人では?」
 気取った一礼を添えたのは、中性的な美貌の、黄金種ベルハーの青年だ。肩まである青金髪は、柔らかいウェーブがかかっている。
「初めましてかしら? オリヴィアよ」
 義母は、にこやかに挨拶をした。
「お会いできて光栄です、オリヴィア様。私はキアルス・アドゥーラ・ヴァッカスと申します」
「僕と衛星実験に参加した、魔導光学部の先輩です」
 そうエミリオが紹介すると、キアルスは興味深そうな目でエイミーを見た。
「……もしかして、君が噂の妹君かな?」
(どんな噂だろう……)
「はじめまして、エイミーです」
 少し緊張しながら、スカートの裾をつまんでお辞儀をする。
 ヴァッカス公爵家といえば、ゼラフォンダヤ家と並び称される、三大公爵家の一柱ひとはしらだ。
 王家に仕える古貴族ハイ=アーデルで、魔導監ガルディアとして裁定と秩序の魔術体系を継承してきた名門である。
「はじめまして、エイミー嬢。会えて嬉しいよ」
 青年は長身を屈めて、エイミーと目線をあわせてくれた。
 鳶色に金緑のまだらが浮く不思議な瞳をしている。金緑石クリソライトにも似た、晴れた秋の木漏れ陽のような瞳だ。
 キアルスの珍しい虹彩に見入っていると、ん? と彼は優しい表情で小首を傾げた。エイミーは我に返って、
「お義兄さまが、いつもお世話になっております」
 そういって丁寧にお辞儀すると、キアルスは小さく噴きだした。
「……っふ。失礼、小さい淑女レディかしこまる姿がかわいらしくて」
 エイミーは、驚きに目を丸くした。
 褒められたからではなく、彼の頭上に光の粒子が舞い始めたからだ。

 44%

(まさかの、好感度発生!?)
 唖然とするエイミーに、ふたりが注目していることに気がついて、エイミーは笑みを取り繕った。
「お義兄さまが、学院の友人を紹介してくれたのは初めてです。お会いできて、光栄です」
 キアルスはきょとんとした顔になり、ふっと笑った。
「エミリオの大切な妹君に、初めて紹介されるなんて光栄だな」
「偶々ですよ」
 淡々と応えるエミリオ。素っ気ない口調から、かえってふたりの仲の良さがうかがえた。
「エイミー、僕は彼の世話になっていないからね。むしろ僕が世話していると思う。この人は放っておくと食事もとらないし、研究室にも顔をださないんだから」
 そうなんだ? と思いつつ、エイミーは好意的な笑顔で受けとめた。
「そうだねぇ、いつもありがとうね」
 のほほんといした口調で、青年が頭をかいている。
「そう思うなら、もう少し自分を律してください」
 苦言を呈するエミリオが珍しくて、エイミーは口元に手をあてて笑った。
「いいなぁ、エミリオはかわいい妹がいて……俺の弟は、いやになるほど生意気なんだよ」
 義母には丁寧に“私”と称したのに、エミリオを前にした途端に、口調がくだけている。この気さくな青年に、エイミーは好感を抱いた。
 日頃から大人に囲まれているエミリオの交友は気になっていたが、すっかり大学院の空気に馴染んでいるようで、なんだか安心した。
「……いいでしょう?」
 自慢げに、エミリオはエイミーの頭に頬を寄せて肩を抱き寄せた。エイミーは驚いて目を丸くした。
「「「えええっ!?」」」
 こちらの様子を窺っていた、周囲の生徒もざわめいている。
「エミリオが女の子を抱きしめてるぞ」「えッ、誰?」「恋人?」「妹だって」驚きの声にまじって、小さな「……ずるい」という少女の呟きが聞こえた。
 真っ赤な顔になっているエイミーを見て、オリヴィアは呆れたようにエミリオを見た。
「……リオ、エイミーが硬直してるわよ」
 オリヴィアの言葉に、エイミーはさりげなく身を引いた。
 こういうとき、エミリオが少しも恥ずかしそうにしていないのが不思議だった。日頃から衆人環視しゅうじんかんしに慣れているせいなのだろうか?
「……あの、エミリオ様。防御機構に使われている、研究データについてお聞きしても良いですか?」
 控えめな少女の声が、割って入った。振り向けば、可憐な中等部の女子生徒が、一歩控えて立っていた。
「申し訳ない、今は家族を案内中なので……質問は腕章をつけた係員にお願いします」
 穏やかな声ではあるが、つれないエミリオの言葉に、少女はしゅんとなって視線をふせた。
 指名を受けたキアルスは、すぐに感じの良い笑みを浮かべて、少女に話しかけた。
淑女レディ、質問なら私が承りますよ」
「あら……」
 すると少女も、気を取り直したように笑みを浮かべた。まんざらでもなさそうな様子で、美青年の説明に相槌を打っている。
(ありがとう、キアルスさん……!)
 心のなかで感謝していると、エミリオはエイミーとオリヴィアの背を押すようにそっと促した。
「――そろそろいこうか。長くいると、また声をかけられる」