3EMI - 転生した平凡令嬢が好感度マイナスの義兄から溺愛されるまで

4章:アガサの灯火 - 6 -

 研究室をでたところで、後ろから声をかけられた。
「オリヴィア、お久しぶりです」
 女性にしては低めの澄んだ声が、上品な余韻を伴って響いた。
 振り返れば、長身の貴婦人がいた。
 長く流れる青金髪に、白金の瞳を湛えた、うっとりするような美女だ。その透明度の高い麗貌は、ただそこに立つだけで周囲の視線を奪っていた。
「ルシア! いらしていたのね」
 オリヴィアの声が一段明るく弾けた。
 こんなに嬉しそうにする彼女は珍しい。どこでも人気者の義母だが、どうやら特に親しい旧知のようだ。
「紹介するわね。こちら、ルシア・ルナ・アイスガルテン侯爵夫人。リオと生徒会で一緒だったアンジスタ君の、お母様よ」
 紹介され、エイミーとエミリオは礼節正しくお辞儀した。
 アイスガルテン侯爵家といえば、王国北端、氷雪と鉱脈に覆われた白銀高地アークティカを治める名門だ。実質的に北域の防衛辺境伯としての機能を担っており、我が公爵家ゼラフォンダヤと並ぶ、国防の双璧である。
(キアルスさんといい、やっぱりお義兄さまの交友関係って、上流階級なのね……)
 エイミーは思わず、涼しげな顔をした義兄を横目で見やる。
「ふたりとも初めまして。エミリオさんのことは、アンジェからよく伺っております。とても優秀で、素晴らしい方だと」
 ルシア夫人の声は、水面をなでる風のように柔らかく、同時に毅然としていた。
「ありがとうございます。生徒会では、アンジスタに助けられました。中等部での活躍も聞いています」
 エミリオは、端正な社交の笑みで応じた。
「ふふ、ありがとう。アンジェが聞いたら、きっと喜ぶでしょう」
 凛とした女性の瞳が、慈母のように優しく細められる。柔らかな眼差しが、今度はエイミーへと注がれた。
「エイミーさんも……壇上のご挨拶、拝見していました。とても感動いたしました。もう、立派な淑女レディですね」
「ありがとうございます」
 スカートの裾をつまみ、エイミーは丁寧に礼を返した。
(“アンジェ”って呼ぶんだ……私の“アン”と似てるな)
 そう思うと、ふわりと親近感が湧いた。
「エミリオさん、大学院でもご活躍と伺っております。アンジェがあなたを尊敬していて、会えなくなって寂しがっているんですの。よろしければ、また声をかけてやってくださいな」
「はい」
 エミリオは如才ない笑みをたたえたまま、軽く頷いた。
(……以前、生徒会には仲のいい子なんていないって、いってたけど……)
 実際はどうなのだろう――エイミーの胸に、好奇の灯がともる。
「ねぇ、時間あるかしら? 少しサロンでお話でもしない?」
 オリヴァアが誘うと、いいの? という顔でルシアはエイミーとエミリオを見た。オリヴィアも子供たちを振り返り、
「エイミーたち、いいかしら?」
「はい」「ええ、お義母さま」
 ふたりが頷くと、義母はにっこり笑った。
「では、自由行動にしましょう。何かあればウィスプで連絡してちょうだい」
 そういい残し、オリヴィアはルシアと腕を組み、優雅に歩きだした。
 その歩みは軽く、品があり、どこか少女めいている。
(お義母さまは、どこにいても自由な人ね)
 エイミーは同意を求めて、エミリオと視線を交わそうとした――そのとき。
「こんにちは、エミリオ様。お久しぶりです、エイミー様」
 甘く、高慢な声が聞こえた。
 波打つ青金髪に、白金の瞳をもつ黄金種ベルハーの令嬢。左右にとりまきを従えて、まるで女王様のような――
 タリヤ・ラグラーナ。
 エミリオに釣書を送ってきた令嬢のひとりだ。
「お久しぶりです、タリヤさん」
 嫌悪が顔に顕れないよう気をつけて、愛想笑いを浮かべる。タリヤの目的は明らかだが、無難にやり過ごしたい。
「エミリオ様、魔導部の研究作品、とても興味深かったですわ」
「ありがとう」
 エミリオは冷めた表情で答えた。
「エイミー様のご挨拶も、立派でしたこと」
「ありがとうございます」
「……本校に復学されるご予定は?」
「いいえ、通信制を続けるつもりです」
 返した瞬間、タリヤの取りまきたちが、押し殺したように笑った。
 本校の生徒は、通信組を下に見ているのだ。いかがなものかと思うが、エイミーは混血種アミーなうえに、超がつく問題児だったから、まぁ馬鹿にしたくなるのだろう。
 まったく、意地悪く輝く白金色の瞳を見ると、アンの優しい琥珀色の眼差しが恋しくなる。
(昔のエイミーなら、闘いのゴングを鳴らしていたわね)
「通信制もなかなか楽しいですよ。でも、こうして文化祭にきてみると、やっぱり学院は素敵だなって思います」
 エイミーは微笑を崩さずに、柔らかく返した。
「久しぶりの文化祭ですものね。良ければ、ご案内しましょうか?」
「ありがとうございます。でも、お義兄さまが案内してくださるので、大丈夫です」
 丁寧に、しかしはっきりと断った。タリヤの白金の瞳がきらりと光る。
「ぜひ、ご一緒させていただきたいですわ」
(え……面倒くさ)
 と、返事を迷う間もなく、エミリオに手を取られた。
「ふたりで見て回りたいから、失礼するよ」
 エミリオが、静かに、けれど明確に告げた。
 空気が凍る。
 エイミーと目があうと、タリヤの瞳に、隠しきれぬ屈辱の色が滲んだ。
(わぁ、こわ……逃げよう)
「では、失礼します」
 笑顔を保ったまま、エミリオに手を引かれてその場を離れる。角を曲がったところで、ようやく手を離した。
「ふぅ……」
 安堵の息をつくエイミーの頭を、エミリオはぽんと撫でた。
「どこかで休憩しようか」
「ええ、ぜひ」
 エミリオは優しく微笑した。
 さきほどの塩対応を見たあとでは、いっそう優しく感じる。自分にだけ甘い義兄の姿に、胸がくすぐられる。
「広場は出店が色々あるけれど、混雑しているから、別のところでもいい?」
 エミリオは彩り豊かな小冊子を取りだした。文化祭のガイドマップだ。
「私、お義兄さまがよく食べてる、携帯包装食エーテル・パックを食べてみたい」
 エイミーがそういうと、エミリオは苦笑を浮かべた。
「……それは……お土産に買ってあげるから、もっといいものを食べよう? どこか、落ち着ける場所がいいな」
「そうね」
 エイミーは笑顔で頷いた。
「少し階段を登るんだけど、いい? 気に入っているカフェがあるんだ。地図には載っていないけれど、このあたり」
 そういって彼が指さしたのは、マップの端の方だった。
「大丈夫よ、いきましょ」
 道すがら、噴水のある広場を覗いてみる。
 天幕で日陰をつくり、出店や、木のテーブルと椅子が並んでいる。家族連れや学院の教授、学生たちが思い思いに腰掛け、くつろいでいた。まるで小さないちのようだ。
 天幕には無数のランプがついているが、今は陽射しが明るいので点灯はしていない。きっと、夜は明かりが綺麗なのだろう。
「文化祭は夜まで続くのよね?」
「うん、夜は上映会があるよ。天幕を校舎の外壁に垂らして、映像を映すんだ」
「いいなぁ! ランプも灯されて、綺麗なんだろうな」
「エイミーは気に入ると思う。今日は無理でも、次回は夜までいたら? 旅館を予約してさ」
「そうね」
 次の文化祭は二年後だ。
(その時も、またお義兄さまと並んで歩けたらいいな)
 賑わいから離れて、小径をたどってゆくと、細い階段が見えた。
 いざ登り始めると、幾重にも曲がりくねり、先が見えず、まるで迷宮のようだった。
「ふぅ、はふ、お義兄さま、いつも階段を登っているの?」
「たまにね。無理しないで、ゆっくりいこう」
「ありがとう」
 小さく息をつきながら、一段一段、足を運ぶ。途中、石造りの踊り場に差しかかり、ふたりは自然と立ち止まった。
「綺麗……」
 エイミーの声が、風に溶ける。
 見晴らしの良いその場所からは、学院の尖塔や、樹海のように広がる森が一望できた。陽光が葉の海を照らし、翠の波がゆるやかに揺れている。
 感動のあまり、しばらく動けなかった。
 悠久を感じさせる景色に、時間も言葉も緩やかにほどけて、まるで夢を見ている気分になる。
「……この景色を見るためなら、階段地獄も耐えられるわ……たまになら」
「ふ、地獄? 頑張って、あと少しだよ」
「ええ」
 再び階段を登りはじめて、間もなく、ようやく天辺についた。
「はぁ、ふぅ、着いたぁ……っ」
「お疲れ。階段は終わり、ここからは平らな道だから」
 木漏れ日に癒されながら、森の小路を歩いていると、光の揺らぎがあった。
翔環ポータル?」
 エイミーは思わず脚をとめた。
「魔術認証だよ。この先は入場規制されているんだ。僕と一緒なら、エイミーも入れるよ」
 そういってエミリオは、エイミーの手を取った。
「どうして、お義兄さまは入れるの?」
 光の揺らぎを抜けても、翔環ポータルと違って景色は変わらない。いまいち実感がないが、恐らく、認証されていない人は弾かれるのだろう。
「生徒会の特権だよ。といっても、僕はもう生徒会に所属していないけれど、認証登録されたままなんだ」
「そうなの」
 雑談しながら、さらに歩いていくと、雰囲気の良い、秘密めいた佇まいのカフェがあった。
 古木の看板に「森の梟カフェ」と彫られてあり、翼を広げた金の梟と三日月が描かれている。
「素敵ね」
「森の魔力を活用しているカフェで、照明も深淵光アビサル・フレアではなく、天然の微光石エーテライトなんだ。夜になると星のように灯って、綺麗だよ」
「へぇ」
 テラス席に、数人の客がいた。生徒はひとりもいない。教授や学者ばかりで、隠れ家的な名店といった雰囲気だ。
「テラスと店内、どちらがいい?」
 エイミーは少し悩み、テラスと答えた。内装も気になるが、木漏れ日の揺れる石畳のテラス席は魅力的に見えた。
 パラソルつきの丸テーブルに着席した。テーブルに硝子のランプが置かれている。暗くなったら点くのだろう。
「いらっしゃいませ」
 感じのよい給仕がやってきて、メニューを渡してくれた。
 お店は素朴な雰囲気だけれど、最新鋭の映像つきメニューで、星霜せいそう雫氷しずくごおりや、雲間のレモンティータルトセット、スノウ・オパールの氷晶菓ひしょうかといった、魅惑的な名前ばかりだ。
「どれも美味しそう……迷う……でもブリュレかな。月環のプリュム・ブリュレ・ティーセットにする」
 生クリームの羽雲に、月をかたどった金箔チョコがのっている。濃厚なカスタード・プリンにカラメルソースをかけて、表面をトーチーで炙ったものだ。
「僕は星図のレーヴ・ブルー・ティーセットにしよう」
 エミリオが選んだのは、星々が煌く天蓋のようなジェリーグラサージュと、月光苺ルナ・ストロベリーのトッピングが特徴的な、青いケーキだ。
 間もなく、いい香りのする紅茶と共に供されると、エイミーは思わず携帯水晶ミリスフィアで映像におさめた。ウィスプ映えする一枚だ。
「映像を、アンに共有しても大丈夫かしら?」
「いいと思うよ。入場制限されているけれど、秘密というわけではないし、撮影禁止もされていないから」
「判ったわ」
 エイミーは頷き、スプーンを手に取った。
 飴色に焼きあがったブリュレの表面を、そっと叩き割る。軽やかな音とともに砕けたカラメルのしたから、なめらかなカスタードが顔を覗かせた。
 一口すくって口に含むと、優しくとろける甘さが舌を包みこむ。
「ん~、美味しい! ……なんだか懐かしい味がする」
「懐かしい?」
 首をかしげるエミリオに、エイミーは思わず笑ってごまかした。
 それは、前世――笑美の生で幾度となく味わった、あのブリュレに似ていた。優しい、けれどどこか切ない記憶の味。
「お義兄さまも、一口食べる?」
 プレートとスプーンを差しだすと、エミリオは少し躊躇ってから、受け取ったスプーンで慎重にすくい、小さく口に運んだ。
「……ん、美味しい」
 それだけの言葉なのに、どうしてこんなにも、胸があたたかくなるのだろう。
 ひとつの味を、同じ時間に分けあうだけで――こんなにも、満ち足りた気持ちになる。
 ふと、心地いい風がふいた。
 樹々の葉にされた午後の陽射しが、地面のうえで戯れている。涼しげな葉擦れの音、枝にかけられたウィンドウチャイムの音色。
 木漏れ日が踊り、風がそよぎ、まるで世界が一息ついているかのようだ。
 パラソルの下。
 スプーンとカップ、心と記憶――すべてが穏やかに交わる、甘く静かな午後だった。