奇跡のように美しい人

1章:女神 - 2 -

 一人になると、佳蓮はぼんやりと部屋を見渡した。
 素敵な部屋だ。
 天井は高く、テラスも室内も広い。
 家具は飴色の調度で整えられており、カーテンにされた自然光に優しく照らされている。上品で贅沢。そして、どこかノスタルジックな香りがする。
 あの少年は、ここはアディール帝国だと話していたが、どのような所なのだろう?
 楽園なのか、はたまた地獄なのか。
 そのどれでもなく、夜に見る夢なのか……実は死に損ねて病院のベッドで見ている夢なのだとしたら、最悪だ……それだけは嫌だ。永遠に目覚めたくない。
 一人でいると、思考は悪い方へ傾いていく。レインジールは、すぐに戻るといっていたが、いつ戻ってくるのだろう?
 やきもきしていると、品の良い深緑色のロングドレスを着た召使達が部屋にやってきた。意図は不明だが、佳蓮の身支度を整えてくれるらしい。
 寡黙な召使達は、粛々と佳蓮の準備を整えた。
 裾の長い、アンティークな瀟洒な衣装、結い上げた頭髪にブルーベルの生花を飾り、耳と首には涙滴るいてき型の宝石。
 どうして着飾る必要があるのか、訊いても教えてくれない。鏡の中の佳蓮を眺めては、始終満足そうにしていた。意味不明である。
 鏡は嫌いだ。
 醜い容姿を直視するのが嫌で、化粧を施される間、壁紙や部屋の柱ばかり見つめていた。会話を試みても、寡黙な召使達は必要最小限のことしか口にしてくれない。支度を終えると、そそくさと出ていってしまった。

「何してるんだろ、私……死んだよね?」

 呟きに応える者はいない。
 やがて日は暮れて、窓から茜が射しこんだ。
 夢現ゆめうつつの区別をするでもなく、六角の星形にくり抜かれた天井を眺めていると、控えめなノックの音が聞こえた。

「羽澄様、お待たせいたしました」

 古風な真鍮の台車を押して、ようやくレインジールは戻ってきた。どうやったのか、手も触れずに部屋の硝子照明を灯すと、着飾った佳蓮を正面から見つめて、心を奪われたといわんばかりに、胸を手で押さえてみせた。

「本当に、貴方ほど美しいひとを見たことがありません。どうしましょう……心臓が静まりそうにありません」

「はぁ?」

 大袈裟な賞賛の真意が判らない。訝しむ佳蓮の傍に、レインジールは慎重に歩み寄った。

「窓の外をご覧になりましたか? ここは、塔で一番景観の良い室です。気に入ってくださると良いのですが」

「見た……綺麗なお部屋だね」

「良かった」

 嬉しそうにはにかむレインジールを、今度は佳蓮が賞賛の眼差しで見下ろした。
 こんなに綺麗な少年を、これまでに見たことがない。美しく、神秘的でとても同じ人間とは思えない。
 ふと見つめ合っていることに気付いて、視線をそっと外すと、レインジールも我に返ったように青い瞳を瞬いた。

「失礼いたしました。とてもお美しいから、つい……」

 さっきから、何の冗談なのだろう? 半分瞑目するレインジールを、佳蓮は冷ややかに見下ろした。

「やめて。そういう風にからかわれるの、死ぬほど嫌いなの」

 冷たく尖った声を聞いて、レインジールはさっと青褪めた。

「申し訳ありません」

「ここはどこなの?」

「は、はい。北アルル大陸の宗主国、アディール帝国です。アディールは大陸でも屈指の富める大国で、ここはその中心地、王都ヘカテルの聖教区でございます。この塔は、星詠機関管轄の五つ塔の中央塔、通称、時計塔と呼ばれています」

 淀みない回答は、何かの呪文のようだった。

「つまり、天国じゃないの?」

「天界ではありません」

「……」

「羽澄様の尊い献身で、妖魔は遠のき、王都に蔓延はびこ猖獗しょうけつは失せました。国中が、羽澄様の御業に感謝の祈りを捧げております」

 呆気に取られていると、勘違いしたのか、レインジールは焦ったように付け加えた。

「どうか哀しまないでください。これからは、私が羽澄様の翼の代わりになります」

 片翼の流星痕が刻まれた左手を、真摯な仕草で胸に押し当てる。
 夢より奇天烈な展開に、佳蓮の思考は停止しかけたが、髪の一房を細い指に絡めとられ、意識を呼び戻された。

「羽澄様は、全てと引き換えにこの国の柱になってくださいました」

「いや、何がなんだか……私、飛び降りたはずなんだけど」

「そうです。尊い御身を捧げて、天から舞い降りてくださいました」

「天から……」

「他国に比べて安定しているとはいえ、アディールも破滅のわだちをゆっくりと進んでいました。羽澄様の降臨により、天地開闢てんちかいびゃくの扉が開かれたのです」

「う、ごめん。全然判らない。私、デパートの屋上から飛び降りたはずなんだけど……」

「苦しい選択を強いてしまい、申し訳ありませんでした。羽澄様の堕天の苦痛に、今度は我々が報います。生涯を懸けてお仕えさせていただきます」

 青い瞳に決意を灯して、レインジールは告げた。恭しい手つきで、うねる黒髪の一房を手に取り、形の良い唇を落とす。
 その様子を、佳蓮は呆然と眺めていた。噛みあわぬ話の内容は頭から消え失せ、レインジールの唇に眼が釘付けになる。

「やめて」

 我に返って髪を取り返すと、レインジールは恥じ入るように視線を伏せた。

「ここは天国なんでしょ?」

「いいえ、羽澄様。ここはもう、天界ではありません」

 首を左右に振るレインジールを凝視したまま、佳蓮は沈黙した。
 天国ではない。
 天国ではない……だとすれば、次に眼を醒ました時、佳蓮はどこにいるのだろう?
 もし病院だとしたら――
 ぞぉっと、全身の血が凍りついた。
 今更、息を吹き返したりしたら、果たしてどのような事態に陥るのだろう?
 自殺を図ったことは、覆しようのない事実だ。
 遺書に詳しいことは敢えて書かなかったが、佳蓮を知る人間なら、佳蓮が何を苦に飛び降りたのか、想像に余りあるだろう。
 クラスメート達は今頃どうしているのだろう? いらぬ詮索を受けて、面倒だと思っているだろうか。
 家族は……家族は、めちゃくちゃになってしまっただろう。心の細い母は、責任を感じて寝込んでいるかもしれない。
 自分で蒔いた種だが、合わせる顔がない。
 学校を辞めたとしても、部屋に閉じこもる佳蓮を見て、両親や妹はどう思うだろう?
 呆れ果て、冷ややかな眼差しを向けるのか、憐れみの瞳を向けるのか――

(嫌だ。あそこへ戻るのは嫌!)

 胃がじっとりと重くなった。全部棄てたのに、どんな悪夢だ。

(嫌、嫌、嫌、嫌……)

 表情の剥落した幽鬼のような顔を、レインジールは痛ましげに仰いだ。膝に置かれた手を、小さな手で労わるように包み込む。

「大丈夫。私がついております」

 囁きは、佳蓮の耳に届いていない。手の温もりも、捕えることはなかった。現実世界を見失い、意識は混沌こんとんとした深海へと沈み込んでいく……