奇跡のように美しい人

1章:女神 - 3 -

 気付けば、数日が経っていた。
 レインジールの話では、高熱を出して寝込んでしまったらしいが、その間の記憶がさっぱりなく、飲食した覚えも、いつ眠ったのかも定かでない。
 眼を醒ますと酷く空腹で、暖かなスープを口にした途端に、腹の中でカッと焔が燃え上がったように感じた。
 最初に眼を醒ました時の経緯いきさつたずねると、レインジールは佳蓮の様子を窺いながら唇を開いた。

「羽澄様は、ご自身がどのように降臨されたか、ご存知ですか?」

 佳蓮は強張った表情で、首を左右に振った。

「知らない。私、飛び降りた後、どうなったの?」

「羽澄様は、高次元の星幽アストラル界の魂を、物質エーテル界の肉体に宿して再生しました。眼を閉じて、緩やかに地上へと舞い降りる様子を、大勢の魔導師が見ております」

「……嘘」

「本当です」

 ほんの数秒で地上に激突したはずだ。緩やかに舞い降りるなんて、考えられなかった。

「羽を一つ、また一つ散らして、血を流しながら堕天する羽澄様は、胸が潰れるほど痛々しくて、哀しくて、けれど眼を離せぬほどお美しかった」

「……」

「大地に足がついた時、羽は一枚も残っておらず、血は金色に燃え上がりました。翼を、天上の世界を失い、主の膝元から引き離された羽澄様は、全てと引き換えに仮初の大地に命を吹き込んでくださいました」

 ふと、眼裏まなうらに金色の光がよぎった。
 闇の瀑布ばくふに落ちた時、そういえば、誰かの声を訊いた気がする。
 不得要領に頷く佳蓮の顔を覗き込み、レインジールは寂しそうに微笑んだ。

「記憶の一部すらも、捧げてしまわれたのですね」

「……全然判らない。微塵も覚えていないんだけど、それ本当に私の話?」

「はい。大地に命が宿る光景は圧巻でした。羽澄様の降りた点を中心に、夜闇を無数の光芒が貫き、真昼のように照らしました。大地が産声を上げて拍動したのです。萌ゆる緑の先端にまで瑞々しい命が通い、いにしえの霊気が一瞬で満ちました」

「本当に、本当に、私の話?」

「もちろんです。大勢の人間が、奇跡の顕現を目の当たりにしたのです。私も、全身の肌が総毛立つのを感じました。あの感動は、とても言葉では言い尽くせません。貴方は紛れもなく、アディールを絶望から救ってくださった、唯一無二の女神です」

「絶対、誤解してる! 私なわけがない。欠片も身に覚えがない。そもそも、仮初の大地って何?」

「この星は一面を水に覆われており、殆どの人間は海面から浮いた人工大地の上で暮しているのです」

「海面から浮いているって、埋立地にしているってこと? この国も?」

「はい。アディールは荘厳な歴史を持っていますが、長く大地に恵まれませんでした。羽澄様の大いなる御業により、ようやく真の大地を得ることが叶いました」

「いやいやいや、どう考えても私じゃないから」

「覚えていらっしゃらないのは、大地を芽吹く役を終えたからでしょう。人に生まれ変わった羽澄様に、天界の知識は毒となりえます」

「わけ判らん。熱出そう……」

 理解が追いつかない。佳蓮の常識が通用しない。

「ちょっと整理させて。私が女神だとして、レインジールは、えーとなんだっけ?」

「帝国の研究機関、星詠機関の長官を務めております」

 まだ子供なのに、要職に就いているのか?
 ふと沸いた疑問を、佳蓮はひとまず捻じ伏せた。それより気になるのは、

「レインジールはどうして私のしもべなの?」

「帝国の終焉を幾度となく視てきた私は、客星かくせいを天に請いました。天は願いを聴きれてくださった。私は、大恩に報いねばなりません」

「……それが、どうして僕に繋がるの?」

「この国の信仰にも通じる話ですが、地上に生まれ落ちた者は、魂に咎を刻まれています」

「咎?」

「はい。前世の悪行ともいいます。生きとし生ける者は、深い業を輪廻を繰り返しながら灌いでいくのです」

 輪廻転生の信仰だろうか。仏教思想に通じるものがある。

「レインも?」

「はい。私は、アディールを導く為に客星を求めました。全身全霊を懸けて羽澄様にお仕えすることが、私にできるあがないになります」

「判るような判らないような……そもそも、レインは幾つなの?」

「先日、十歳になりました」

「十歳!?」

 思わず頓狂とんきょうな声が出た。会話するうちに、彼を十四~五歳と錯覚していた。

「経験不足は否めませんが、機関の最高権威を継承しております。誠心誠意お仕えさせて頂きますので、どうぞよろしくお願いいたします」

「あ、こちらこそ……えぇっと、私、よく判ってなくて、話を訊く限り、人違いのような気もするんだけど」

 レインジールは小さく眼を瞠った。かと思えば、すぐに強い視線に変えて、正面から佳蓮を射抜く。

「羽澄様以外にありえません。大地を芽吹けるのは、翼を持つ女神だけです。私は、初めて星を詠んだ三つの時から、羽澄様をお待ちしておりました」

 海のような青い瞳は、佳蓮を映して潤んだ。煌めいた瞳から視線を逸らせずにいると、伸ばされた幼い手に、そっと両手を包まれた。

「この国で、羽澄様が安心して暮らしていけるよう、心を尽くしてお仕えさせて頂きます。どうか、お傍に置いてくださいませ」

「う、うん……」

 包まれた手を、そっと持ち上げられる。どうするつもりかと見ていると、指先に形の良い唇を落とした。

「レイン?」

 上目遣いに佳蓮を仰ぎ、目元を朱く染める。
 勘違いしてしまいそうだ。彼の瞳に映っているのは、不器量な佳蓮ではなく、麗しの女神なのではないかと。
 けれど、佳蓮は佳蓮でしかなかった。
 澄んだ青い瞳に、唖然としている佳蓮が映っている。地味で冴えない顔。肥満気味の小太りな体型。彼の美貌の足元にも及ばない。
 出会って間もないのに、天使のようなレインジールがそれほど心を砕く理由が判らなかった。
 佳蓮を女神と信じているから?
 指先に羽のようなキスを繰り返すレインジールを、佳蓮は身動きもできずに見続けていた。