奇跡のように美しい人

2章:謳歌 - 2 -

 この頃、佳蓮は夢中になっているものがあった。
 庭園喫茶である。
 豪華絢爛な宮廷文化にはあまり興味のない佳蓮であったが、喫茶にだけは強く惹かれた。
 例えば、庭園に設けられた硝子の温室。草花を愛でながら、銀器のポッドで煎れる茶様式の優美。数百にも及ぶ、芳醇な香りの茶葉。眼でも楽しめる、宝石箱のようなティーキャディーボックス……それらの虜になった。
 佳蓮の喫茶趣味は王宮のみならず、アディール帝国全土に広まり、喫茶文化は眼にも彩な百花繚乱の花園として全盛期を迎えようとしていた。
 これまで、喫茶は応接間や客室といった屋内で嗜むのが一般的であったが、佳蓮はとりわけ屋外での喫茶を好んだ。
 硝子の温室で喫茶することもあれば、ゴールデン・アカシアの大樹の下で涼風を楽しみながら、日除けのパラソルを拡げて喫茶することもある。
 屋外での喫茶は、宮廷文化に一大旋風を巻き起こした。
 外で喫茶する習慣のなかった宮廷人にとって、佳蓮は流行の先導者だった。
 佳蓮はお茶を楽しむ環境にもこだわり、お茶を飲む為だけの茶室を設けて、好みのインテリアで整えた。
 波濤はとうを越えて取り寄せた、エキゾチックな麻のティーガウンを羽織り、紅茶を飲む佳蓮の姿は、たちまち宮廷中の憧れの的になった。
 そして、喫茶庭園が誕生する。
 庭園には美しい草花が植えられ、人工の池や彫像が配置された。遊歩道や生け垣を利用した、巨大な迷路も造られた。
 お茶や軽食のとれる娯楽施設の多くは、郊外の風光明媚な田園地帯に建てられたが、数が増えるにつれ、互いに差別化を図るようになり、オーケストラの生演奏を聴かせる庭園や、花火を打ち上げる庭園まで誕生した。
 時には、噂を聞きつけて佳蓮が訪れることもあった。
 佳蓮が一度でも訪れると、人気の流行誌に取り上げられ、休息日ともなれば大勢の客が押し寄せた。
 喫茶庭園の多くは貴族が後見を務めたが、奔放で享楽的な佳蓮の思想が浸透し、庭園の殆どは、階級や身分に拘らず誰もが訪れることができた。
 上流から中流階級は然り、一般家庭に至るまで、家族や恋人、友人を連れて大勢が喫茶庭園を訪れた。
 社交を苦手にしている佳蓮も、喫茶の招待にだけは、比較的よく応じた。
 宮廷佳人は佳蓮の寵愛を競い、美しい喫茶庭園を我先にと建てた。
 当然、レインジールも例外ではなく、他の誰よりも手の込んだ庭園に情熱を注いだ。贅をつくした庭園建築に、喫茶の虜になっている佳蓮ですら、苦笑を浮かべることがあったほどだ。
 今もちょうど――
 時計塔の六十二階、ティーテーブルで手紙を検めていた佳蓮は、レインジールの拡げた図面に眼を落として、苦笑を零した。

「また造るの?」

「はい。今度は、美しいにれの並木道に建てようと思うのですが、いかがでしょうか?」

「そんなに幾つもいらないよ」

「佳蓮の為に私が造りたいのです」

「うわぁ、レインジールが無駄遣いしてる。貧乏になっちゃう」

 茶化す佳蓮を見て、レインジールは笑った。

「メビウス家の資産をいかほどとお思いですか? ほんの一部を解放しているに過ぎませんよ」

「うん。でも、もう充分だからね。この間、湖水の傍に素敵な庭園を建てたばかりでしょ」

 レインジールは楽しそうにしているが、佳蓮は半ば本気で心配していた。彼が佳蓮の為に建てた紅茶庭園は、最終的に百三十を越えることになる。
 後から思えば――
 茶会に頻繁に足を運ぶ佳蓮の気を引きたくて、レインジールも必死だったのだろう。散財など滅多にしない人が、湯水のように資金を使ったものだ。

「レインジールの造る紅茶庭園が一番好き。特に、ルルーシュナ紅茶庭園。あそこ以上に素敵な庭園はないと思う。また連れていってね」

 月明かりに照らされた、美しい紅茶庭園を想い浮かべながら、佳蓮はうっとりと呟いた。

「もちろんです。気に入ってくださって、嬉しい」

 後の建築史に金字塔の如く名を連ねる四大紅茶庭園の一つ、ルルーシュナ紅茶庭園は、長く一般公開されずに秘されることになる。造らせたレインジールが、佳蓮しか招き入れなかったのだ。
 女神の訪れがない日には、硬く施錠されて誰も入ることができない紅茶庭園は、まさにこの世の楽園なのだろうと人々は夢を膨らませた。

「それにしても、こんなに喫茶文化が流行るとは思わなかったなぁ」

 手にしていた招待状から手を離すと、佳蓮は頬杖をついた。既に十数通に眼を通したが、まだ結構な束が残っている。

「私にも届いておりますよ」

「誰から?」

「マクランタ家の令嬢と、シリウス皇太子殿下からです。殿下の方は、深夜の紅茶会のようですよ。他にも多数届いておりますが」

「へぇ、深夜の? ふぅん、いこうかな。両方、出席で返事しておいてくれる? あとは欠席で」

「判りました」

 どことなく沈んだ声を聞いて、佳蓮は端正な顔を覗き込んだ。

「レインは、皇子のことあんまり好きじゃないの?」

「そんな不敬は申しません。私に届く招待状は、佳蓮の返事が良いと見抜かれているようで、少しばかりしゃくではありますが」

「はは、レインの判断を仰いでいるって、バレてるんだね。間違ってない。私に送るより、レインに打診した方が確実だわ」

「殿下は魅力的ですから、佳蓮もお気に召しているのではありませんか?」

「お茶会が愉しいだけだよ。他のご令嬢と違って、彼に惹かれているわけじゃないから」

 疑惑の眼差しを向けるレインジールの額を、佳蓮は人差し指でつついた。

「何ですか?」

「私にとって、レインほどの美男子はいないよ」

 照れたように視線を泳がせるレインジールを見て、佳蓮は微笑んだ。
 出会った頃より、背も伸びて、天使のように愛らしい顔は少しシャープになった。あともう少しすれば、誰もが……佳蓮がびっくりするほどの、眼の醒めるような美少年になるだろう。
 会話が途切れると、レインジールは思い立ったように席を立ち、どこからか布にくるまれた箱を持ってきた。

「これをどうぞ」

 テーブルに置かれたそれを左右から眺めて、佳蓮は首を傾げた。

「見ていいの?」

「もちろんです」

 布を捲り、佳蓮は眼を瞠った。
 宝箱のような、真鍮で装飾が施された飴色のティーキャディボックスだ。

「わぁ、素敵!」

 アンティークな外見はどこか日本風で、ひと目で佳蓮は気にいった。

「ありがとう、レイン! 大切にするね」

 満面の笑みを見て、レインジールはほっとしたような顔をした。

「喜んでいただけてよかった」

 はにかむ端正な顔が、さらりと流れた前髪に半分隠れる。
 最近、レインジールは前髪で顔を隠すようになった。以前はそうでもなかったのに、成長するにつれて、己の容姿に引け目を感じることが増えたように思う。

「ねぇ、そろそろ前髪を切ったら?」

「え?」

「切ってあげようか?」

「佳蓮が?」

「せっかく綺麗な顔をしているのに、隠すなんて勿体ないよ」

「そんな風におっしゃってくださるのは、佳蓮だけです」

 そっと視線を落とす美しい顔に、似つかわしくない自嘲の色が仄かに滲んだ。
 以前なら、賞賛を浴び慣れた者の見せる余裕だと思っただろう。
 今なら判る。彼は自分の姿を恥じているのだ。佳蓮を独り占めしたいと思う一方で、隣に並ぶことを恐れてもいる。
 そんな風に自分を卑下する必要などないのに、と佳蓮は複雑なジレンマに駆られた。

「誰が何といおうと、私にとってレインは天使なの。綺麗な青い瞳が隠れてしまって、寂しいな」

 前髪をそっとかき分けると、レインジールは陶然とした表情で佳蓮を見つめた。

「佳蓮……」

「お互いに、生まれてくる世界を間違えちゃったね」

 もし、彼が地球に生まれていれば、薔薇色の人生を歩めただろう。佳蓮も最初からこの世界に生まれていれば、あんなにも辛い思いをせずに済んだのに。

「間違えておりません。今生でなければ、佳蓮にお会いすることは叶いませんでした」

 きっぱりと言い切るレインジールの顔を見て、佳蓮は言葉に詰まった。

「貴方にめぐり逢えたことを、毎日天に感謝しています」

「……ありがとうね。私もね、レインに会えてとっても嬉しい」

 感極まったように瞳を潤ませる少年の頬を、佳蓮は両手で包み込んだ。

「あれ、泣いちゃった?」

「泣いていませんっ」

 額にかかる前髪を手でよけて、そっと唇を落とすと、レインジールの目元に朱が散った。

「佳蓮……」

「後で前髪を切ってあげる。私、結構上手なんだよ」

 レインジールは顔を伏せたまま額を手で押さえると、小さく頷いた。