奇跡のように美しい人

3章:決意 - 2 -

 誕生日の夜から、レインジールを避けていた。
 部屋に籠って、読書にふけっている。いつものことではあるが、今回は逃げているだけだ。
 胸中を察してくれているのか、レインジールは部屋から出ようとしない佳蓮を、引きずり出そうとはしなかった。
 しかし、七日も経つと、食事の量が減ったことを気にしたレインジールに夕食に誘われた。

「せっかくだけど、今夜も部屋で食べていい? パンと飲み物と、果物だけでいいから」

 目線も合わせずにぼそぼそというと、顔に穴が空きそうなほど強い視線が刺さった。

「それでは少なすぎるでしょう」

「平気。調理するなら、簡単なものにしてくれる? 食事に時間をかけたくないの」

「佳蓮、食事を取る時間もないほど、本を読んでいたいのですか?」

「うん」

 上目遣いに仰ぐと、レインジールは困ったような顔をした。ほだされてはくれないだろうか?

「心配なのです。貴方が食べている姿を、この眼で見たい」

「う……」

「食べたいものを教えてください。何でも好きなものを、用意させます」

「……本当は、毎日決まった時間に食事を取るの、嫌なの。お腹が空いた時に、食べたいものを食べたい。駄目?」

「そうだったのですか?」

 穏やかな口調だが、我儘を責められている気がした。自分でも恥ずかしくなったが、一度飛び出した言葉は取り消せない。俯いたまま、佳蓮は小さく頷いた。

「……ごめんなさい。一人でいたい」

 俯いたまま答える佳蓮に、レインジールもそれ以上はいわなかった。
 気まずい空気を解消できないまま、レインジールとは生活がすれ違うようになった。
 わざわざ部屋に籠るまでもなく、仕事で忙しくなったレインジールは、工房に詰めるようになったのだ。
 こんなに長いこと、彼と口を利かないのは初めてのことだ。
 自分から訪ねていけばいいのだが、どんな顔をすればいいのか判らない。うじうじしている自分が嫌になる。
 きっかけを掴めぬまま、無為に日が流れた。
 ある朝――
 部屋に、薔薇の花束とメッセージカードが届けられた。

“貴方が笑顔でいてくれますように”

 優しい言葉を胸に抱いて、佳蓮は俯いた。
 彼はどんなに忙しくても、こうして花束とメッセージカードを届けてくれる……
 いつまでも逃げてはいられない。レインジールの想いに、向き合わなければ――差し入れを手に、勇気を出して工房を訪れた。
 突然の来訪にレインジールは驚いた顔をしたが、すぐに嬉しそうにほほえんだ。

「忙しいのに、お花とカードをありがとう」

「いいえ」

「嬉しかった。薔薇ね、寝室に飾ってあるよ。一輪でもよく香るよね」

「喜んでくださって、良かった」

「……少し話せる?」

「もう帰るところです。少し待っていてもらえますか?」

「いいよ。星をさかなに一杯やろう」

 転送盤で最上階の星詠宮に上がると、満点の星空の下に並んで腰を下ろした。藤の籠から葡萄酒を取り出すと、レインジールは眼を輝かせた。
 満点の星を仰ぎながら飲む酒は、格別だった。
 こうして二人で過ごす、のんびりした時間も本当に久しぶりだ。
 とりとめのない雑談が楽しくて、なかなか切り出せない……
 タイミングを計りながら、オリーブをつまみに、気付けば結構な量の葡萄酒を煽っていた。
 本人も知らぬことだが、酔うと、佳蓮は普段よりも気が大きくなり、大胆になる。やっかいなことに、普段は押し隠している意地悪な感情が表に現れてくるのだ。

「ねぇ、本当は自分のこと、綺麗だと思っているんでしょ?」

 意地悪な笑みを口元に溜めていうと、レインジールは佳蓮の手から杯を奪った。

「酷い冗談ですよ。飲みすぎです、佳蓮」

「とっくに知ってるでしょ? 私は根性の曲がった、意地悪な女だよ」

 冷たく自分を嗤う佳蓮を見て、レインジールはほほえんだ。

「貴方は誰よりも美しくて、かわいい人ですよ」

 はにかむレインジールを見て、佳蓮は照れ臭そうに顔の前で手を振った。

「当てにならない。レインの美的感覚は崩壊しているから」

「失礼なことをいわないでください。佳蓮はとびきり綺麗です。眼の眩まない男はいないでしょう。おまけに無防備で……惹かれるなという方が無理です」

 佳蓮は笑って誤魔かそうとしたが、レインジールの真剣な表情は変わらなかった。

「……このままじゃ、駄目なの? 変だよ今更。ずっと仲のいい姉弟みたいに過ごしてきたじゃん」

「貴方はまれなる客星かくせいであり、天真爛漫な女神であり、慈しむ姉であり、気のおけない友人であり……触れたくて堪らない、愛しいひとです」

「レイン」

「叶うことなら――」

「待って!」

 退路を探して視線を探した途端に、抱きすくめられた。強い力に、身体が軋む。

「レイン!」

 喘ぐように呻くと、僅かに腕の力は緩んだが、レインジールは離そうとしない。顔を寄せられて、咄嗟に形のよい唇を両手で塞いだ。至近距離で見つめ合う。

“貴方が好き。愛している”

 熱っぽい視線が雄弁に物語る。佳蓮は渾身の力で、レインジールを突き飛ばした。

「いっちゃ駄目」

「佳蓮……もう、想いを抑えることは難しい。貴方を見ているだけで、愛しさが溢れてしまう」

 言葉に詰まる佳蓮に、レインジールは手を伸ばす。頬に触れられる前に、身をよじって逃げた。哀しみに染まる顔を見て、胸に罪悪感が込み上げるが、どうすることもできない。

「この想いは、佳蓮にとって迷惑でしかないのでしょうか?」

「あべこべなんだよ、私達。本当に綺麗なのは、レインの方なのに」

「そう思ってくださるなら、離れていかないで。佳蓮の嫌がることはしません。気持ちを押しつけたりもしません」

 胸に手を当てて騎士のように請う姿は、潔く、清廉だった。佳蓮の心を汲み取り、あたう限りの言葉で尽くそうとしてくれている。
 こんなに素晴らしい人は、世界中を探したっていやしないだろう。

「……ごめんね」

 逡巡してから口にした答えは、永訣えいけつの覚悟をきざしていた。
 今この瞬間が、二人の分岐点だ。レインジールの傷ついた顔を見ながら、唇を割った。

「もう一緒にはいられない」