奇跡のように美しい人

3章:決意 - 5 -

 九月の終わり。
 旅立ちに向けて、佳蓮は着々と準備を進めていた。
 荷造りしながら部屋を整理し、図書館に通って街の地理や、関所、通貨手数料といった情報を集めている。
 最近では、悲壮な諦観を漂わせながらも、レインジールの方から有益な情報を教えてくれるようになった。
 外は雨。
 大きな格子窓に、雫が幾筋も伝っている。
 図書館の片隅で、しとしと降る優しい雨の音色に聴き入りながら、佳蓮はこれからの計画を練っていた。
 海辺の街にも憧れるが、先ずはアディールの大通りに近いところから、行動範囲を広げていくつもりだ。
 本格的な冬が始まる前に、新しい生活を軌道に乗せたいところである。
 続きは部屋でやろうと図書館を出ると、廊下の向こうにリグレットを見かけて、慌てて壁に隠れた。塔を出ていくことは聞いているはずだ。余計な嫌味をもらいたくなかった。
 忍び足で逆方向から帰ろうとしたが、突然、目の前にリグレットが現れて、広い胸に飛び込む羽目になった。

「わぁッ!」

「失礼。気付いていないようでしたので」

 しれっと答える男の顔を、佳蓮は遠慮もなく胡乱げに見つめた。

「また長官と喧嘩したのですか?」

「違います」

「塔を出ていくとお聞きしましたが?」

「そうですけど……どうも、今までお世話になりました」

 投げやりな口調で佳蓮が応じると、意外にもリグレットは案じる顔になった。

「ここを出て、どうするおつもりですか?」

「自活できるようになります」

「はぁ。それで、長官はなんて?」

「……いいたくありません」

「長官の機嫌が悪くて、仕事がやり辛いんですよ。出て行く前に、どうにかしてください」

 片眼鏡モノクルの奥から、凍えるような金色と蒼氷色アイス・ブルーの視線が突き刺さる。

「そんなこと私にいわれても……レインにいってください」

「いいましたよ。解決しそうにないので、こうしてハスミ様に申し上げています」

 嫌味を装っているが、心配しているのだと佳蓮にも判った。

「……そんなに機嫌が悪いんですか?」

 顔色を窺うようにたずねると、リグレットは口元を緩めた。

「普段は冷静過ぎるほど冷静なんですけれどね。貴方のことになると、彼も年相応の若者に見えて安心しますよ」

「昔はかわいかったんだけどな……」

 懐かしむように佳蓮がいうと、リグレットは思いのほか優しい顔をした。

「あの長官が、そんな風に構うのは貴方くらいですよ。貴方のことが大切で、かわいくて仕方ないのでしょう」

「お互いに、依存し過ぎなんです。私が少しも変わらないせいかもしれないけど」

「彼の気持ちを知っていて、その結論なのですか?」

 言葉に詰まる佳蓮を見て、リグレットは仕方なさそうな顔をした。

「なかなか長官も報われませんね。全身全霊を傾けて恋をしているのに」

「恋じゃありません」

 間髪入れずに応える佳蓮を見て、リグレットは器用に片眉を上げてみせた。

「他に何があると? 恋を知り、生命いのちの躍動が生じたからこそ、あの人は幾つもの不滅の魔術を編み出したのです」

 星詠機関を率いる若き天才魔導師は、この数年で、人工霊気の生成術を恐るべき精度にまで高めていた。
 不屈の精神と、佳蓮の負担を減らしたいという恋心が、彼を突き動かしたのだ。
 沈黙する佳蓮をどう思ったのか、リグレットは更に続ける。

「彼は貴方の為に、魂を懸けて奇蹟を起こした。七年間、変わらずに貴方を想い続けている一途な男ですよ」

「私が望んだことではありません」

 揺れそうになる心をよろい、固い声で告げると、リグレットは口を閉ざした。

「……もう、いきますね」

 沈黙に非難めいた匂いを嗅ぎ取り、佳蓮は逃げるように背を向けた。

「未熟なのは貴方も同じですね」

 背中にかけられた言葉が、心に突き刺さる。
 佳蓮は、歩みを止めずに無言を貫いた。後ろめたい苦さを味わいながら、何もいい返せない自分を恥じた。