奇跡のように美しい人

3章:決意 - 7 -

 北アルル大陸、最東の街。海辺に臨むルチカ。
 佳蓮がここへきたのは偶然だったが、後になってから、そういえばレインジールの工房で見た地図にあったと思い出した。
 確か、妖魔を牽制する目的の城塞都市で、彼の師匠が住んでいるはずだ。
 厳めしい街を想像していたが、水平線の彼方に漁火いさりびが揺れているような、穏やかな町だった。
 気が付けば、ここへきてから一年が経とうとしている。
 港町に一つしかないバーの二階と三階は宿になっており、佳蓮は二階の一部屋を借りている。
 一階は食堂兼居酒屋で、人と交流する客間のような場所になっていた。
 街のどこにいても、歩いて浜辺へいけるほど海が近く、夜は波の音を聞きながら眠りにつく。
 何もない街だが、教会の暮らしよりは肌に合っていた。
 バーの一階で佳蓮が寛いでいても、あまり騒がれないところも気に入っている。
 地元の銘柄をいろいろと揃えているようだが、別に酒を飲まなくても咎められない。人との交流を目的にする場所なのだ。時には、小さな子を交えて、家族ぐるみでやってくる客もいる。
 メニューも奇抜なものはなく、ごく家庭的な料理が多い。
 定番は、地元で取れた白身魚をからっと揚げて、檸檬汁とタルタルソースを添えた料理だ。それから、フィッシュ&チップス。冷えた麦酒に自家製の葡萄酒に蜂蜜酒。
 いずれも結構な量があり、皿から溢れ出さんばかりなのだが、美味で意外と食べれてしまう。
 昼間は比較的静かなのだが、夜も更けた頃になると、めかしこんだ熟年から、老年の紳士・淑女達が集まってくる。
 奥にあるボールルームで、ダンスやカードゲーム、クイズなどを愉しむのだ。
 年を経ても、貴婦人をエスコートする老紳士の姿は、見ていて好ましい。お洒落をする心意気、社交を愉しむ心を忘れないことが、若さの秘訣なのかもしれない。

 夜も更けた頃。
 バーの隅で、佳蓮はぼんやりしていた。軽快な音楽を聞きながら、在りし日の華やかな世界を思う。
 あの頃は、恐いものなんてなかった。
 老いから遠ざかっていられることを正義のように振りかざし、なぎの海のような時の中で、享楽的に生きていた。
 いつからだろう。
 永遠を楽しめなくなったのは……
 皺の寄った手を取り合い、ステップを踏む彼等は美しい。
 照明に照らされた彼等を、わだかまった闇の中から見つめているのは、佳蓮の方だ。
 月日を重ねて、今この瞬間を楽しんでいる彼等が妬ましかった。
 あんな風に生きてみたい。大切な人達と、同じ時間を生きていきたい。
 それなのに、佳蓮は年を重ねることができない。
 出会った時は十歳だったレインジールも、今では十八歳だ。
 七つも開いていた年齢差は、いつの間にか逆転してしまった。子供だと思っていた少年は、佳蓮よりも遥かに大人になってしまった。
 憧憬の眼差しは、熱の籠った視線に変わった。この先、どう変化していくのだろう?
 そう遠くない未来に、娘か孫を見るそれに変わるのだろうか。
 気分が悪い。
 さっきまで穏やかな気持ちでいられたのに、もう暗澹あんたんと沈んでいる。
 とどのつまり、これが佳蓮の本質なのだ。
 他人の人生を俯瞰ふかんして、自分を憐れまずにはいられない。どれだけ環境が変わっても、自傷をやめられない。
 何もかも虚しくなり、そっと店を出た。
 幾らも歩かぬうちに、天空からぽつぽつと雫が垂れてきた。
 たちまつぶてのような雨に変わり、佳蓮の全身を濡らした。
 宿に引き返そうか迷ったが、やめた。
 視界に収まる範囲に、人影は誰もいない。
 家々の窓から漏れる暖かな光は、今の佳蓮には縁遠いものだ。一人きりで、どこにも行き場がない。

「うあぁ――ッ」

 雨の中、大声で喚きながら岬を目指した。もうどうなっても良かった。

「どうして、私なのぉッ」

 叩きつけるような雨の礫が、顔面を容赦なく叩く。全身ずぶ濡れになりながら、叫び続けた。

「なんでよぉッ」

 切実な声は、嵐にかき消された。

「教えてよ、誰か! ねぇッ……レイン」

 声が嗄れても、ひゅうひゅうと喉を鳴らして、歩き続けた。もう少しだ。あと少しで、崖の先端に辿りつく。いつの日か歩いた鉄筋の冷たさを思い出しながら、一歩、また一歩と濡れた大地を踏みしめた。
 あの絶壁から飛び降りたら、どうなるのだろう? 今度こそ死ねるのだろうか?

(もう、何も考えたくない)

 意識が霞む。倒れる瞬間、懐かしい声を聞いた気がした。