奇跡のように美しい人

4章:聖杯 - 4 -

 時計塔へ帰る時がきた。
 穏やかで、満ちたりた自給自足の生活を惜しみつつ、佳蓮はレインジールの手をとった。
 これまで知らなかったが、オルガノの屋敷の地下には、高価な魔導転送盤があり、王都アディールにも通じているという。ここへ辿りついた長い道のりが嘘のように、一瞬で王都アディールへ戻れるのだ。脱力する佳蓮を見て、オルガノは愉快そうに笑っていた。
 時計塔に直行することもできたが、街中の聖堂に繋ぎ、少し散策してから帰ることにした。楽しいことをすれば、聖杯も満ちるかもしれない、そう提案したのは佳蓮だ。
 都会っ子風に変装をして、レインジールと手を繋いで街に繰り出した。帽子を目深に被る佳蓮に、周囲は気付いた様子はない。

「こんな風に、歩けるなんてね」

 笑顔の佳蓮を見て、レインジールも微笑んだ。彼も星詠機関の制服ではなく、軽装に着替えている。

「せっかくですから、旧市街を歩いてみましょう。きっと佳蓮は気にいると思いますよ」

 そういって、レインジールは佳蓮の肩を抱き寄せた。これまでとは違う、恋人の距離に胸が高鳴る。
 ふと聖杯のことを考えて、胸に刺すような痛みが走ったが、今は捻じ伏せた。楽しい気分に水を差したくなかった。
 アディールの城下町は、芸術の街でもある。
 一〇年、一〇〇年前の建物も十分に現役。古い分、天上高があり、窓や壁に施された見事なレリーフが美しい。
 小さな路地の青空に、鮮やかな緑がよく映えている。
 茂みが路地をまたぎ、わかれた幹が煉瓦塀に沿って這い登る仄暗い闇の中に、騎馬のまま通り抜けることのできそうな門が、ぽっかりと口を開けていた。

「あそこ、いってみよう」

 小路を見つけると、覗きたくなる性分なのだ。眼を輝かせる佳蓮を見て、レインジールは優しく微笑んだ。

「奥に、古い旅館がありますよ」

「そうなんだ」

 不揃いな石畳の上を、暖かな風が吹き抜けていった。
 トンネルの先に、趣のある旅館が姿を見せた。白い光に満ちた中庭があり、生い茂る蔓のところどころに、散り遅れた藤の花が残っている。

「今度、泊ってみたいな」

「そうしましょう」

 小さな約束が嬉しくて、佳蓮はほほえんだ。
 ただ手を繋いで歩くだけで、こんなにも気分が高揚するとは知らなかった。
 とても幸せ。
 変装していても、佳蓮を見て振り返る者は少なくなかったが、佳蓮の瞳にはレインジールしか映らなかった。
 すれ違う若者が、佳蓮を見て口笛を吹くと、レインジールは不愉快そうに眉をひそめた。

「きゃっ」

 暗がりに引きずりこまれ、嫉妬に燃える青い瞳を見つめて、佳蓮は息を呑んだ。
 端正な顔が降りてくる。従順に瞳を閉じると、たちまち唇が燃え上がった。甘い口づけに心も身体も蕩けてゆく。

「……はぁ……貴方が、もっと平凡な女性であれば良かったのに」

「平凡なんだけどね」

 おどけて答えたが、内心では嬉しかった。レインジールなら、佳蓮がどこにいても、どんな姿をしていても、きっと見つけてくれる気がする。

「誰もが貴方を見る……判っていても、腹立たしい。塔に閉じこめてしまえたらいいのに」

 熱っぽい瞳で見つめられて、佳蓮は視線を少し伏せた。心臓がおかしいほど暴れている。

「閉じ込めていいよ、レインなら……」

 そっと顔を上げると、青い瞳に狂おしい色が浮かんだ。

「貴方という人は、そんなことをいって」

「……」

 綺麗な顔が、ゆっくり降りてくる。

「……赤い唇を見ていると、キスしたくて堪らなくなる」

「ッ」

 耳朶にささやかれて、佳蓮は再び俯いた。首から上に熱が昇る。きっと、顔は真っ赤になっているだろう。

「佳蓮。こちらを向いて」

 首を振ることしかできない。何もいえずにいると、顎に指をかけられた。そっと、上向かされる。
 満ちる青――
 唇を塞がれて、甘く貪られた。
 いつまでもこうしていたい。二人は同じことを思った。
 今は、お互いのことしか瞳に入らない。どんな素敵な景色よりも、貴方を見ていたい。
 この一瞬が、永遠であればいいのに……
 ねがっていても、陽は傾いてゆく。
 茜が射し、やがて街は黄金色に染まった。
 遥かな五つ塔の尖塔は、陽を反射して煌めいている。
 美しい光景だ。
 聖教区に続く、どこまでも真っ直ぐなマロニエの並木道。
 遥か遠くからやってきた風が、草木の爽やかな香りを運んでくる。寄り添うように可憐に咲くクロッカスの花が、たえなる美しさをかもしていた。
 美しい光景なのに、終わりゆく一日を意識して佳蓮の心は沈んだ。

「帰りたくないな……」

 ぽつりと零すと、レインジールは佳蓮の顔を覗き込んだ。

「また遊びにきましょう」

「うん……」

「佳蓮。そんな顔をしないでください」

 抱きしめられて、佳蓮もしがみついた。少しも離れたくなかった。
 幸せで。幸せで。幸せ過ぎて、この幸せが、もうすぐ消えてしまうなんて――
 考えた途端に、胸に鋭い痛みが走った。苦しくて息ができない。

「佳蓮」

 両頬を包まれて、潤んだ視界が持ち上がる。涙に濡れた眦に、レインジールは唇で触れた。

「貴方に、永遠の愛を捧げます。私の全ては佳蓮のもの。どうか、心の片隅に住むことを許してください」

「……なんで、どうすれば聖杯を満たせるの」

「必ず満たせる時がきます」

「今じゃないと駄目だよ……じゃないと、レインが、レインが……」

「佳蓮」

「置いていかないで……耐えられないよ、私も連れていってよ……」

 すすり泣く佳蓮を、レインジールは強く抱きしめた。

「私は、佳蓮を悲しませてばかりですね……貴方が笑ってくれるのなら、何でもするのに」

「どこにもいかないで。傍にいて、他には何もいらないからッ!」

 震える声で縋ると、レインジールの瞳から雫が零れた。
 この胸の苦しみは、彼も同じなのだ。佳蓮を想い、置いていくことを哀しみ、とても心配している。

(あぁ、レインッ!)

 言葉ではいい尽くせないほど、哀しかった。
 懸命に自分を落ち着かせ、喚き散らしたい衝動を必死に堪えて、迸りそうになる悲鳴を呑み込んだ。

「……好き。レインが大好き。ずっと、ずっと好き」

 背伸びをして唇にキスをすると、レインジールは強い力で佳蓮を抱きしめた。

 こんなに想っているのに。どうして、聖杯を満たせないのだろう――