奇跡のように美しい人

4章:聖杯 - 5 -

 時計塔へ戻ると、誰もが顔に喜色を浮かべて首を垂れた。
 人とすれ違う度にほほえみを浮かべながら、佳蓮は六十二階の私室に向かった。
 部屋はきちんと整えられており、蘭のよい香りがした。
 時計塔を飛び出したあの日から、窓から望む絶景も、部屋の様子も、少しも変わっていない。
 浴槽には、湯気の立つ湯が張られていた。召使が気を利かせてくれたようだ。早速、使わせてもらうことにする。
 硝子瓶を傾けて、とろりとした香油を湯船にたらすと、雫がぽつぽつと湯に弾けて、白い波紋を描いた。
 異国の甘い花の香りが立ち昇る。暖かな湯気に溶け込んで、全身を癒してくれる。
 湯に身体を沈めたまま、瞳を閉じた。
 久しぶりの贅沢。旅の疲れを癒されながら、心は引き絞られるような苦しみを訴えていた。
 ほんの数時間前、二人で街を歩いたことを、遠い昔のように感じる。とうとう帰ってきてしまった――

 時計塔での暮らしが、再び始まった。
 残りの日数をかぞえて佳蓮が気落ちする一方、レインジールは落ち着いたもので、穏やかな笑みを絶やさなかった。
 今も、ほほえみを浮かべて、優雅な手つきで紅茶を煎れている。

「……どうして、そんな平然としていられるの?」

 つい、責めるような口調で訊ねると、レインジールはポットを卓に置き、佳蓮の手を取って首を傾けた。

「貴方の傍にいられるのです。これほど幸せなことはありません」

「もうすぐ終わるけどね」

 困ったようなほほえみを見て、佳蓮は視線を逸らした。掴まれた手を振り払うと、宥めるように頭を撫でられ、余計に腹が立った。

「私のこと好き?」

「はい」

「こんなに性格が悪いのに、よく好きになれるね」

「貴方は、かわいいひとです」

「嘘。この顔が好きなんでしょ? 女神人気も凄いしね」

 そっけない口調で応じる佳蓮を見て、レインジールは何もいわず、眼を細めた。まるで、年下の女の子に対して、しょうがないなぁ、と愛でるような眼差しだ。
 頬が熱くなる。至らない我が身に羞恥が込み上げ、佳蓮は俯いた。自分がどうしようもないほど、子供に思えた。

「レインのそういう何もかも判ってます、って顔、大嫌い――」

 一瞬、何が起きたのか判らなかった。
 肩を押されて、身体はあっけなく後ろに倒れた。寝椅子に沈みこみ、顔の左右に囲い込むように手をつかれた。
 見惚れるほど綺麗な顔。垂れ下がる銀糸の髪に、世界を遮断された。
 蒼い瞳に、佳蓮が映りこんでいる。
 端正な顔が降りてきて、佳蓮はようやく我に返った。顔を背けると、耳朶をかたどるように唇が触れてくる。

「……貴方の唇から、嫌いだなんて、冗談でも聞きたくありません」

 かすれた声で囁かれて、佳蓮の鼓動は撥ねた。掌に頬を包まれて、正面を向かされる。
 瞳の奥に熱を灯し、影を落とす美貌はたとえようのないほど艶めいていた。押しのけようとした腕を掴まれ、そのまま唇を塞がれた。

「ん」

 やんわりと唇を食まれて、ちゅ、と濡れた音が立つ。閉じた唇のあわいを舌でつつかれて、佳蓮はふるえた。被さるように唇を押し当てるレインジールの胸を叩く。

「……すみません。とまれない」

 身もだえる両腕をきつく掴まれて、再び唇を奪われる。舌を挿し入れられ、口内を舐められた。

「――んッ」

 脳髄が痺れて、思考がままならない。
 泉を貪るように、何度も舌を吸われた。心臓が壊れてしまいそうなほど。

「佳蓮、貴方を愛している」

 眼を瞠る佳蓮を見て、想いの強さを抑え込むように、レインジールはほほえんだ。

「残された日を、大切に過ごしたい……瞼の奥に、佳蓮の笑顔を焼きつけておきたい。いつでもこの瞬間を、取り出せるように」

 想いの籠った告白に、胸の奥がツキンと震えた。潤みかける視界を、瞬きすることでやり過ごした。彼が望むのなら、彼の前では、できる限り笑顔でいたい。そう思った。
 思ったけれど――
 人前では気丈に振る舞っていても、別れの時を佳蓮は強く恐れていた。
 資料館へ足を運ぶのは以前からの日課であったが、最近は、解決の糸口を探すために通っている。
 知識の宝庫に救いを求めても、答えは見つからない。
 無為に時は過ぎていく。
 陽に透ける手を空に翳しては、一人で泣いた。
 その日もどうしようもないほど気が落ち込み、誰もいない木陰に隠れて泣いていた。
 そっと肩を叩かれ、レインジールかと怯えたが、そこにいたのはリグレットだった。

「……貴方は、そんな風に泣くのですね」

「レインにはいわないで!」

 咄嗟に叫ぶと、リグレットは小さく頷いた。涙を流す佳蓮を痛ましそうに見つめて、そっと肩を抱き寄せる。その手に慰めしか感じられず、佳蓮は大人しく身を任せた。

「どうして、私は聖杯を満たせないの……どうして……」

「何もかも承知した上で、長官は契約を結んだのです」

「レインを失うなら、契約なんてしたくなかったッ」

 優しく頭を撫でられて、佳蓮はリグレットにしがみついた。新たに盛り上がった涙が、紺地の制服に染み込む。
 辛い。
 想いの行き場がどこにもなくて、胸が張り裂けそうなほど苦しい。
 一度は棄てた命を、レインジールが救いあげてくれた。彼の傍で羽を休め、少しずつ傷を癒していった。彼がいてくれたから、佳蓮は絶望の淵から戻ってこれたのだ。

「ッ……ふ……」

「貴方は、本当に長官が大切なんですね……」

 それなのに、あんなにも清らかな人が、佳蓮の代わりに死ななければならないなんて!

「あぁ……レイン、ごめん……ごめんなさい……ッ」

 涯てしない悔悟から抜け出せない。呪わしいことに、この苦しみは、かつて佳蓮が家族に与えたものなのだ。
 やり直せるのなら、もう一度、あの夜に戻りたい。矛盾に満ちた過去と未来をねがい、佳蓮は涙を流した。