奇跡のように美しい人

4章:聖杯 - 9 -

 空が堕ちた。

 受け入れがたい現実に、心は深淵に落ちていく。世界が真っ暗になって、何も見えない。
 いや――
 上も下も、瞬く無数の星……星幽アストラル界だ。
 プリズムの交錯する世界。異なる光の波長で色が生まれるように、重力と時から解放された、無限回廊。
 あらゆる時間、世界が見える。
 試しに手を伸ばしてみると、光の紗に指先が触れた。オーロラのように、神秘的に揺らめいている。今なら、あらゆる次元、時に干渉できるだろう。
 人の身では計り知れぬ、この世の摂理が判る。姿は佳蓮のままだが、全く別の存在に昇格しようとしている。
 宇宙を俯瞰ふかんし、世界の岐路に立っている。
 この先に踏み入れば、もう只人ただびとには戻れないだろう。
 宇宙の秩序を乱すかもしれない。だけど今を逃しては、佳蓮を、レインジールを救えない。
 これは、奇跡を起こす機会チャンスだ。佳蓮は銀河に手を伸ばした。

 遠い十二月。
 雪の降る東京。金曜日の黄昏。とある建設現場。
 冷たい鉄筋の上に立ち、暗闇の瀑布に眼を凝らす少女を見つけて、佳蓮は舞い降りた。
 宙に浮いたまま、もう一人の佳蓮を見つめる。
 制服姿の佳蓮は、あの世を覗いたような顔をしている。冷えた頬に手を伸ばすと、よく似た顔が、恐怖に頬を引き攣らせた。

「落ちたら駄目だよ」

「え……」

 危うい足場の上で、怯えるもう一人の佳蓮を抱き寄せる。本能的な動作で、彼女は平衡バランスを取った。
 冷えた身体を抱き寄せて、額を押し当てる。この先に起こりうる未来の断片を、思念で伝える。母の泣き崩れる姿、放心する父、ふさぎ込んでしまう妹……暗澹あんたんたる光景を垣間見て、佳蓮は縋りつくような瞳で、佳蓮を見た。

「お願い。どうか堪えて。家族がね、めちゃくちゃになっちゃうの」

 静かに告げる佳蓮を見て、もう一人の佳蓮は口元を歪ませた。苦しげに細められた瞳に、涙が盛り上がる。

「ッ、私――」

「判るよ。よく判る」

 星明かりに透ける腕で、頭を優しく撫でると、佳蓮は掌に顔を沈めた。

「ごめんなさい……」

「今度は大丈夫。きっともう、死にたいとは思わないから」

 もう一人の自分を慰めると、俯けた顔を恐る恐るあげた。

「……私、生きてる?」

 呆けたように呟く佳蓮を見て、佳蓮は笑った。

「生きてるよ。明日も明後日も生きてる」

 ゆく時の流れは絶えずして、もとの時にあらず。苦しみや哀しみを生んでは消え、時に甘露の日和ひよりをもたらす。
 オルガノの言葉の通り、苦楽を煎じつめたものこそ人生だ。
 きた道を指で示すと、佳蓮はつられたように後ろを振り向いた。

「風邪引かないうちに、お家に帰りな。暖かくして、寝るといいよ」

 再び少女が振り向いた時、幻燈のように佳蓮は消えていた。

「えっ」

 残された佳蓮は――
 視線を彷徨わせ、恐々と鋼鉄の上から後じさった。確かな地面を足裏に感じて、死地から生還を果たしたような心地がした。
 今のは、なんだったのだろう?
 佳蓮と同じ顔をしていた。あの世から、思い留めにやってきたのだろうか?
 心臓が早鐘を打っている。生きている。強烈な実感が込み上げた。
 靴を履いて、コートを羽織る。階段を降りようとして、最後にもう一度、空を仰いだ。

「ありがとう……」

 白い息と一緒に呟く。
 さっきまで絶望しかなかった胸に、小さな明かりが灯っている。暗闇の彼方に輝く街明かりに気がついた。あの場所へ帰るのだ。
 頬を濡らしながら、握りしめた遺書を、びりびりと切り裂いた。

(帰ろう……)

 何もできないと決めつけていた。
 だけど、もう一人の自分が、明けない夜はないと教えてくれた。挫折は人生の終わりじゃない、と。
 真っ直ぐに進めなくてもいい。転ぶこともあるのだと受け入れよう。
 今度こそ屋上に背を向けると、暗い足元を確かめるように、佳蓮は降りていった。

 その様子を――
 遥かな次元から眺めて、佳蓮はほほえんだ。
 すくいあげた命は、星の数ほどある未来の一片ひとひら、新たな希望の萌芽ほうがだ。同時に、佳蓮の贖罪は成された。深い業から解脱したのだ。

 プリズムの世界。次元がオーロラのように混じりあい、揺れる。

 屋上から飛び降りる運命に干渉したことにより、アディールで過ごした時間は宙に浮くように、次元のわだちから切り離された。
 星幽界の浄化作用だ。パラレル因子の淘汰が始まろうとしている。
 どのように修復するか逡巡したが、やめた。
 平衡世界の制御は神の領域だ。ただ、佳蓮としての意識があるうちに、想いの因子を残しておきたかった。
 朧に揺れる次元の一つに意識を繋げる。
 群青の夜を落下して、レインジールの待つ天文宮に降りてゆく。
 瞼を開くと、驚愕に眼を見開く幼いレインジールと眼が合った。佳蓮は両手を伸ばして、彼のもとへと舞い降りた。

「わぁ、懐かしい。小さいレインだ」

「女神さま……」

 変わらぬ第一声に、佳蓮はほほえんだ。

「レインのおかげで聖杯を満たせたよ。本当にありがとう」

 小さな身体を抱きしめると、レインジールは激しく狼狽した。腕の中で慌てふためく様を見下ろし、胸を暖かくさせながら、秀でた額に唇を落とした。真っ赤になる少年を見つめて、優しく笑みかける。

「あ、あのっ」

 琺瑯ほうろうのように小さな白い手をとり、傷一つない甲に唇を落とした。

「流星痕をありがとう」

 腰を屈めて、額を押し当てると、記憶の一部を流し込んだ。時の大海原に溶けた、愛しい日々の想い出たち。

「……佳蓮?」

 困惑気味に訊ねる少年に、愛しさが込み上げる。薔薇色に染まる頬を両手で挟みこみ、鼻の頭にキスを落とした。

「好き。いつまでも、ずっと。大好き、レイン」

「お待ちください、どこへ?」

 離れようとする佳蓮を、小さな手が引き留めた。

「……ごめんね」

 不安そうな顔をしているレインジールの頬を、佳蓮は両手で包み込んだ。

「もういかないと」

 星幽界に干渉してしまった以上、間もなく上位次元に融合するだろう。

「どこへ? お会いしたばかりですのに」

「きっと、また会えるよ」

「今すぐ流星痕を刻めば――」

 形の良い唇に、佳蓮は指を押し当てた。後悔はすまいと思ったが、レインジールを前にすると哀切が胸に込みあげた。

「……ありがとうね。今の私に、痕はつかないの。気持ちだけ、もらっておく」

「では、どうすれば」

 レインジールは泣きそうな顔をした。

「私を忘れないで。レインの想いが私を繋いでくれる。そうすれば、いつか戻ってこれるかもしれない」

 魂はあらゆる世界を凌駕する。想いの因子は宇宙を越えて、いつの日か奇跡を起こすだろう。

「……戻ってきてくださいますか?」

「うん」

「ほ、本当ですね?」

「約束する。私を、覚えていてくれる?」

 微笑むと、ほろほろとレインは涙を零した。

「私は永遠に佳蓮のしもべです。忘れるはずがありませんッ」

 強い感情の発露に、次元の足場はさだまった。佳蓮が霊気を注げば、宙に浮く大陸は海面に足を降ろす。
 驚愕に眼を見開くレインジールを見つめて、佳蓮はほほえんだ。
 この世界は、きっと安定するだろう。佳蓮の知るアディールとは、似ていて異なる発展を遂げながら、きっと庭園喫茶の文化を謳歌するのだろう。

「また、レインと紅茶庭園にいきたいな。月夜のお茶会をしよう。覚えていてくれたら嬉しい」

「貴方を想い、紅茶庭園を創りましょう。いつまでも、私は、お待ちしていますッ」

「楽しみにしているね――」

 あぁ……星幽界に呼ばれている。
 引き留める声を聞きながら、佳蓮の魂は上昇した。流星のように無限の宇宙を飛び越えて、魂はより純粋な念へと昇華してゆく。
 次元が交錯する最中、消えゆく魂を見つけて、思わず近づいた。
 淡い、球状の光。佳蓮の魂だ。
 消えようとしている……この未来をなくして、レインジールに会うことはない。副作用を考えるよりも先に、直感的に手を差し伸べた。

“さぁ、星の雫をお飲み。どんな傷もたちどころに癒えるから。ただし、効果は永久的なものではないよ”

(何? ……蜂蜜?)

 想いの欠片を、消えゆく魂に分け与えた。光の球状は、人の輪郭をかたどり始める。

“星の雫だよ。哀しい魂……ねぇ、佳蓮。君はこれから、命を棄てたとがを贖あがなわないといけない”

(誰なの?)

 訝しげに訊ねられて、彗星のように閃いた。
 あの時声をかけてきたのは、佳蓮自身だ。
 いや――正確には上位次元アストラルに融合しかけている魂だ。

星幽アストラル界の意志だよ。君を試すものであり、導くもの。高位次元から交感できるのは、今だけだからよく聞いて”

(はぁ)

“聖杯を満たす者を、愛しなさい。その者は見返りを求めずに君を愛し、守るだろう”

(……)

“いいかい? 星の雫の効果が切れる前に、聖杯を満たすんだ。時がくれば判る。この円環を絶やさないで。そうすれば、レインにまた会えるんだよ”

 魂の輝きは、次元をも凌駕する。星幽界にだって干渉できるのだ。
 想いの因子が織りなす平衡世界、奇跡の円環。
 最初に佳蓮を見つけたのは、レインジールを見つけたのは、果たしてどちらが先だったのだろう?

 あの夜があったから、レインに出会えた。

 あの夜があったから、悲歎を乗り越えられた。

 あの夜があったから、今がある。

 命を棄てた日が、佳蓮の始まりだった。

 想いは時を越えて、いつかまた――宇宙を飛び越えて、レインジールを探しにいくのだ。

 宇宙にあまねく星々に意識が溶けてゆく……最後に残った一片の恋心が、優しい銀色の光へと手を伸ばした。