奇跡のように美しい人

4章:聖杯 - 8 -

 窓の外は雨。稲妻が夜空を震わせている。
 外は凍えるような寒さだが、温度調節のされた塔の中は暖かい。
 懐かしい音色に誘われて、佳蓮はうっすら眼を開けた。床に本が落ちている。寝椅子で読書をしているうちに、いつの間にか眠ってしまったようだ。
 起きようか迷ったが、心地良い眠りへの誘いに身を任せ、再び瞳を閉じた。金属の円盤を針がなぞり、美しく憂愁メランコリックな旋律が流れている……

 ――優しい夢をみた。

 まばゆい光。
 輝く夏の雲。
 木漏れ日に爽籟そうらいが揺らめいている。
 ハーブ園に立つ佳蓮の髪は、白いものが大分交じっていて、隣には、同じように時を重ねたレインジールがいた。
 二人で手を繋いで、煙の立ち昇る家屋を目指して、小路をのんびりと歩いていく。王都に住む子供達の近況を、笑いながら喋ったりして……
 空いた手には、藤の籠。中には、香りの良い摘みたてのハーブが入っている。帰ったら、紅茶を煎れるのだ。
 昏れなずむ美しい夕陽に照らされ、二人の輪郭は黄金に縁どられている。同じ時を重ねて寄り添う姿は、奇跡のように美しかった。

(あぁ……幸せ……)

 眼が醒めると、掌に温もりを感じた。
 ぼんやり視線を泳がせると、すぐにレインジールと眼があった。青い瞳は、三日月のように細くなる。

「いい夢を見ちゃった」

「どんな?」

「……ないしょ」

 横になったまま、ほほえむ佳蓮を見て、レインジールは眼を細めた。包んだ手を持ち上げて、大切そうに唇で触れる。くすぐったくて、佳蓮は忍び笑いを漏らした。

「ねぇ、想像してみて。手を繋いで、一緒に歩いているところ」

「いいですね。晴れた日に、紅茶庭園にいきましょうか?」

 レインジールの言葉に、佳蓮は澄みきった青空を思い浮かべた。
 うららかな午後……さんと降り注ぐ陽の下、木漏れ日の踊る、石敷きの路を歩いていく。うず高い雲の向こうには、優美な飛竜。
 飴色のティーキャディーボックスを持って、二人きり、水辺で茶会を愉しもう。
 芝生の上に麻布を敷いて、のんびり寝転がろう。
 手を繋いで、梢の囀りに耳を澄ませながら微睡むのだ。天国のような至福に満たされて……
 穏やかな情景は、幸福感をもたらし、同時にたとえようのない切なさをもたらした。
 隣を仰げば、青い瞳が潤んでいる。水晶のようだと思いながら、佳蓮は光に透けた己の手を凝視した。耳朶の奥で、砂時計の最後の一粒が、静かに落ちる音を聞いた。

「佳蓮――」

 形の良い唇に人差し指を押し当てて、続く言葉を遮った。さようならは聞きたくない。

「好きだよ、レイン」

 レインジールはふと表情を消した。瞳に狂おしい光を浮かべて、じっと佳蓮を見下ろす。

「愛しています。この身が消えても、私は永遠に佳蓮のしもべです」

 端正な顔がゆっくり降りてくる。触れるだけの優しいキスは、佳蓮の心を嵐のように揺さぶった。彼が最後に記憶する姿が、笑顔であるように、笑っていたいのに、視界が潤んでいく。

「泣かないで、佳蓮。寂しい時は、さっきのように、楽しい時間を想像してください」

「ん……」

「想像は無限の創造です。貴方はどんなものにもなれるし、どこにだっていけるんですよ」

「……何を見ても、聞いても、レインを思い出しちゃうんだろうな」

 胸を引き絞られながら、佳蓮は笑みを繕った。ぽろぽろと涙が零れる。次から次へと。

「寂しいよ、寂しいよぅッ……レイン、夢の中でもいいから、あ、会いに、きてね」

 透けた手でレインジールの頬を撫でると、愛おしそうに頬ずりをした。恭しく掌に触れて、そっと唇を押し当てる。

「……佳蓮、一つだけ約束してください」

「何?」

「どうか自分を責めないで。貴方の輝きに私は魂を救われたのに、貴方はいつまで経っても自分の輝きには気付こうとしない。私は、それがたまらなく嫌なのです」

「こっちの台詞だよ。レインは自分の魅力にちっとも気付いていないんだから……」

 レインジールは眼を潤ませて微笑んだ。

「あぁ……貴方と出会ってからの十年間は、流星のように眩く、燃え盛るような青春の日々でした」

「私もだよ」

 毎朝、毎晩。夜空に瞬く星のように、優しく見守り、微笑んでくれた。

「どうか、悔やまないでくださいね。私は佳蓮が想うより、罪深く、欲深いのです」

 レインジールは、そっと佳蓮の両手を包み込んだ。左手に刻まれた流星痕が金色に輝き始める。

「レイン!」

 佳蓮は咄嗟に手を振り解こうとしたが、レインジールは許さなかった。拘束する力をいっそう強める。

「や、やだ。やめて」

「貴方を苦しめることが辛いのに、惜しんでくれることに、喜びも感じてしまう……」

 十年前に交わした聖杯契約が、履行されようとしている。
 双翼の流星痕は金色の光彩を放ち、琺瑯ほうろうのような繊手を焦がしながら、羽ばたいた。美しくも禍々しい現象に、佳蓮は声にならない悲鳴を上げた。

「ねぇ、離してッ」

 泣きながら懇願する佳蓮を見て、レインジールは優しく微笑んだ。

「幸せです。貴方に恋をして、素晴らしい時間をたくさんもらいました」

 満たされない聖杯の代わりに、レインジールは命を燃焼しようとしているのだ。全身を金色に包まれて、額に珠のような汗を結びながら、呻き声一つあげない。

「こんなの、嫌だよ……ッ……レインッ!」

「さようなら、愛しい貴方……大丈夫、眼が醒めても貴方は――」

「レインがいないよ」

 首を振る佳蓮の頬を、金色に燃える手でレインジールは触れた。

「……いつまでも、佳蓮の幸せをねがっています」

 耳元で囁かれる掠れた声は、甘く切なくて、穏やかな風のように心地よかった。

「やだ、待ってッ」

 金色の粒子が空気に散った。弾けるような閃光の後には、何も残らなかった。

「レイン――ッ」

 たった今、眼の前にいたのに。レインジールは、どこにもいなかった。