奇跡のように美しい人

4章:聖杯 - 8 -

 一二月二二日。
 窓の外は雨。(かぎ)()きに(はし)稲妻(いなずま)が、夜空を震わせている。
 外は凍えるような寒さだが、空調の効いた塔内は、心地よい暖かさに満ちていた。
 懐かしい音色に誘われ、佳蓮はうっすら(ひとみ)を開ける。
 床に本が落ちている。寝椅子(シェーズ)で読書をしているうちに、いつの間にか眠ってしまったらしい。
 近頃は、すぐ眠くなる。
 起きあがろうか迷ったが、心地良い眠りの余韻に身を委ね、再び(ひとみ)を閉じた。金属の円盤を針がなぞり、美しく、どこか憂愁(メランコリック)を帯びた旋律が流れている……

 ――優しい夢を、見た。

 まばゆい光。
 薔薇色の夕べに、爽籟(そうらい)が揺らめく。
 ハーブ園に立つ佳蓮の髪は、白いものが随分と混じっていた。隣には、同じだけの時を重ねたレインジールがいる。
 二人で手を繋ぎ、煙の立ち昇る屋敷を目指して、()(みち)をのんびりと歩いていく。皇都に住む子供達の近況を、笑いながら語りあい……
 空いた手には、(とう)の籠。香りの良い摘みたてのハーブが入っている。帰ったら、紅茶を淹れるのだ。
 昏れなずむ美しい夕陽に照らされ、二人の輪郭は黄金に縁取られている。同じ時を重ね、寄り添って歩く姿は、奇蹟のように美しかった。
(あぁ……幸せ……)
 目を醒ましても、薔薇色の雲に覆われた、美しい人生の広がりを眺めている余韻に(ひた)されていた。
 ぼんやりと視線を巡らせると、すぐにレインジールと目が()った。
「いい夢を見ちゃった」
 氷晶(ひょうしょう)(ひとみ)が、優しい三日月のように細くなる。
「どんな夢ですか?」
「……ないしょ」
 横になったまま微笑する佳蓮を見て、レインジールも穏やかに笑った。佳蓮の手を取り、大切そうに唇で触れる。
 くすぐったくて、佳蓮は忍び笑いを漏らした。
「ねぇ……想像してみて。手を繋いで、一緒に歩いているところ」
「いいですね。晴れた日に、紅茶庭園に行きましょうか」
 その言葉に、佳蓮は澄みきった青空を思い浮かべる。
 (うず)高い雲の向こうには、優美な飛竜。
 うららかな……(さん)と陽が降り注ぐ午後。
 木漏れ日の踊る石畳を散歩しよう。飴色の茶葉の匣(ティーキャディー)を持って、二人きり、水辺で茶会を愉しもう。
 青とした芝生に麻布を敷き、のんびりと寝転がる。
 手を繋ぎ、(こずえ)(さえず)りに耳を澄ませながら微睡(まどろ)む……天国のような至福に満たされて。
 牧歌のような幻想は、幸福感をもたらし、同時にたとえようのない切なさをもたらした。
 隣を仰ぐと、青い(ひとみ)が潤んでいる。玻璃(はり)のようだと思いながら、佳蓮は光に()ける己の手を見つめた。
 耳朶(じだ)の奥で、砂時計の最後の一粒が、静かに落ちる音がした。
「佳蓮――」
 人差し指を、形の良い唇に押し当て、言葉を(さえぎ)る。さようならは、聞きたくなかった。
「好きだよ、レイン」
 レインジールは一瞬、表情を消した。瞳に狂おしい光を宿し、じっと佳蓮を見おろす。
「愛しています。この身が消えても、私は永遠に佳蓮の(しもべ)です」
 端正な顔がゆっくり近づいて、唇が触れる。無垢(むく)なキスは、佳蓮の心を嵐のように揺さぶった。
 彼が最後に記憶する姿が、笑顔であるように、笑っていたいのに、視界が滲んでいく。
「泣かないで。寂しい時は……さっきのように、楽しい時間を想像してください」
「……うん」
「想像は、無限の創造です。貴方は、どんなものにもなれるし、どこへでも行けるのですから」
「……何を見ても、聞いても、レインを思いだしちゃうんだろうな」
 胸を引き裂かれる思いで、佳蓮は笑みを(つくろ)った。ぽろぽろと、涙が、止めどなく(こぼ)れ落ちる。
「寂しいよ、寂しいよぅッ……レイン、夢のなかでもいいから、あ、会いに、来てね」
 ()けた手で白い頬を撫でると、レインジールは愛おしげに頬ずりをした。恭しく掌に触れて、そっと唇を押し当てる。
「……一つだけ、約束してください」
「なに?」
「どうか、自分を責めないで。私は、貴方の輝きに救われたのです。なのに、貴方は自分の輝きを信じようとしない……それが、たまらなく嫌なのです」
「……それ、私の台詞だよ。レインこそ、自分の魅力にちっとも気づいていないんだから……」
 レインジールは(ひとみ)を潤ませ、ほほえんだ。
「あぁ……貴方と過ごした一〇年は、流星のように(まばゆ)く、燃え盛るような青春の日々でした」
「私も……」
 毎朝、毎晩。(まばゆ)い太陽のように、夜空に(またた)く星のように、優しく照らし、ほほえんでくれた。
「どうか、悔やまないで。私は、佳蓮が想うより……ずっと罪深く、欲深いのです」
 レインジールは、そっと佳蓮の両手を包みこんだ。左手に刻まれた流星(こん)が、金色に輝き始める。
「レイン……っ」
 佳蓮は咄嗟に手を振り解こうとしたが、レインジールは許さなかった。指が、さらに強く絡め取られる。
「やだ……やめて……っ」
「貴方を苦しませることが辛いのに……惜しんでくれることに、喜びも感じてしまう……」
 一〇年前に交わされた星杯(せいはい)契約が、履行されようとしている。
 双翼(そうよく)の流星(こん)が金色の光を放ち、琺瑯(ほうろう)のような繊手(せんしゅ)を灼きながら羽ばたく。美しくも禍々(まがまが)しい光景に、佳蓮は声にならない悲鳴をあげた。
「離してッ!」
 泣きながら懇願する佳蓮を見て、レインジールは優しくほほえんだ。
「幸せでした。貴方に恋をして……素晴らしい時間を、たくさんもらいました」
 満たされない星杯(せいはい)の代わりに、命を燃焼しようとしているのだ。全身を金色に包まれ、額に珠のような汗を結びながら、呻き声一つ漏らさない。
「こんなの、嫌だよッ……レイン!」
「さようなら、愛しい貴方……大丈夫、きっと、貴方の時間は進んでいきます」
「レインがいないよ……っ」
 首を振る佳蓮の頬を、金色に燃える手でレインジールは触れた。
「……いつまでも、佳蓮の幸せを願っています」
 耳元で囁かれる(かす)れた声は、甘く、切なく、穏やかな風のようだった。
「やだやだ、待ってッ」
 金色の粒子が宙に散った。無数の命の火花。微細な(きら)めきが、空気に溶けていく。
「レインッ‼」
 たった今、目の前にいたのに。抱きしめてくれていたのに。レインジールは、どこにもいなかった。