奇跡のように美しい人

4章:聖杯 - 7 -

 時計塔。六十二階。
 ふと眼を開けると、いつの間にか陽は傾いていた。
 昏れなずむ空から、西日が部屋に射しこんでいる。
 読書をしているうちに、いつの間にか眠ってしまったらしい。隣には、眼を瞑るレインジールがいる。
 眠るレインジールは美しかった。
 少し身体を傾け、長い白銀の髪を肘掛に散らしている。けぶるような睫毛は、神秘的な陰翳を顔に落としていて、まるで眼を閉じている陶人形のようだ。

「好きだよ」

 そっと囁くと、力なく腹部の上に置かれていた腕が動いて、佳蓮の腰に回された。

「……もう一度いってください」

「起きてたの?」

「告白は、私が起きている時にお願いします」

「起きてたんでしょ?」

 瞼を開けたレインジールは、佳蓮を見つめて瞳を細めた。

「佳蓮。いって?」

 大きな掌に、優しく頬を撫でられた。

「……好きだよ」

 揺れそうになる視線をこらえて、青い瞳を見つめてった。
 身体を起こしたレインジールは、宝物に触れるように佳蓮をだきしめ、頭に頬ずりをした。さらさらと零れる銀糸に茜が煌めいて、星あかりのようだ。

「くすぐったいよ――」

 銀糸の髪をよけようとした手が、陽に透けていることに気がついて、佳蓮は口を噤んだ。最近では、一日のうちに何度もこうして輪郭が霞む。

「……佳蓮?」

 訝しむレインジールの瞳から、透けた手をそっと隠した。
 昔は、年を取らないことが命を棄てた罰だと思っていた。
 何も判っていなかった。
 本当の苦しみは、これから始まるのだ。
 心を捧げる愛しい人は佳蓮のせいで倒れ、佳蓮は永遠の時の中を、哀しみを抱いたまま彷徨わなければならない。

「お傍にいます」

 哀しみをすくいあげるように、レインジールは背中に隠した佳蓮の手を解いて、優しく両手で包み込んだ。
 穏やかな青い瞳に、泣きそうな顔をした佳蓮が映っている。
 胸の中に優しく引き込まれ、慰めるように髪を梳かれていると、懐かしい既視感に襲われた。

“羽澄様。私を見てください”

 耳に反響こだまする、不安そうな幼い声。
 能面のように感情の抜け落ちた顔を、青い瞳に映して、必死に心を汲み取ろうとする少年――在りし日のレインジール。

“羽澄様、手をお放しください。痕が残ります。羽澄様!”

 左手で、右手首を強く握りしめる佳蓮の手を、小さな手が必死に剥がそうとしていた。

“もうおやめください、このようなこと”

 赤い爪痕を見て、泣きそうな顔で癒してくれた。天使のように美しく、優しい少年。物いわぬ佳蓮の隣で、穏やかに、優しく声をかけていた。

“今造らせている紅茶庭園は、楡の美しい庭園で……”

 瞳に光を灯す佳蓮を見て、心から安堵したように微笑むのだ。

“お帰りなさい、羽澄様……”

 時が経っても、変わらずに佳蓮の傍にいた。

“佳蓮、佳蓮。私の女神様。大丈夫ですよ、貴方はちゃんとここにいます”

 優しい呼びかけ。離れゆく魂を引き留めるように、大切そうに、愛おしそうに……
 彼は、感情の抜け落ちた佳蓮に呼びかけ、何度も、何度も、心を繋ぎ留めてくれた。

「……私の、意識がない時……レインは……?」

 辛かった?
 そう訊こうとして、躊躇った。そんなの当たり前だ。手首を引っ掻いて――自傷行為を繰り返す姿を見せられて、どれほど不安だったろう? 怖かったろう?

「貴方のお傍にいます。いつも、いついつまでも」

「……」

 俯く佳蓮の頭を、レインジールは包み込んだ。

「心を彷徨わせている間に、貴方は、哀しい記憶を零すこともありました」

“私ね、いじめられていたの……”

 涙声が、耳朶に蘇った。紛れもない佳蓮の声だ。頭の芯が鈍く軋んだ。

「私……毎日辛くて、周り中が敵に見えて……どうして私ばかり、こんな目に合わないといけないんだろうって、ずっと恨んでた……」

 唇を戦慄わななかせる佳蓮の頭を、レインジールはそっと胸に引き寄せた。

「……その時も、貴方の傍にいてさしあげたかった」

 温もりに包まれながら、佳蓮は瞳を閉じた。頬に涙が伝う。瞳を開けると、万感の想いを込めて、佳蓮はレインジールを見つめた。

「レインの見ている私は、虚構なの。本当の私は綺麗じゃないし、女神でもない。汚物を見るような眼で、人から見られていたんだよ」

「私の大切な佳蓮は、脆くて儚い、けれど気高く美しい、誰よりもかわいい女性です。他の誰かの言葉に、傷つかないでください」

「私にとって、レインほど綺麗な人はいないよ。優しくて、強くて、その姿も、どれをとっても、世界で一番綺麗なのは、レインの方なんだよ!」

 蒼い瞳を覗きこんで、佳蓮は泣きながらいった。レインジールは眩しそうに瞳を細めた。

「……天に感謝しなければ。貴方に出会えて、良かった。佳蓮が私の容姿を、好いてくださって良かった」

 天使のようにほほえむレインジールは、奇跡のように美しかった。
 神々しい美貌を仰いで想う。終わりがくることを知りながら、どんな気持ちで、十年間を過ごしてきたのだろう。どんな想いで、佳蓮の傍にいてくれたのだろう。

「……ありがとう。私を見つけてくれて、本当にありがとう」

「お礼をいうのは、私の方です。貴方の傍にいられて、これほど幸せなことはありません」

 瞳を潤ませるレインジールの頬に、佳蓮はそっとキスをした。