人食い森のネネとルル

1章:底なし沼の珍事と共生のはじまり - 12 -

 いつものように、戸締りをしっかり確かめて、家中の明かりを落とした。

「獣臭い……」

 消灯した後も、ルルはぶつぶつ言っている。
 床に藁を敷いて、その上に猪の毛皮をかけた寝床に文句があるらしい。人がせっかく用意してやったのに……。

「煩いな。文句あるなら、自分で寝床作りな」

「そうする……。外にお風呂も作ってあげる」

「余計なことすんな」

「作るからね!」

「シィ……、静かに」

 夜は闇に潜む者達の世界だ。明かりを消して、音を立てずに、息を潜めなければいけない。だというのに、ルルはまだぶつぶつ言っている。
 煩いなと思うが、不思議と嫌な気はしない。
 ネネは胸の内の感情に気づいて、くすりと小さく笑った。どうやら、これから始まるルルとの共生生活を、ほんの少し楽しみに感じているらしい……。









 その日は、朝から一段と暗く、冷え込んでいた。
 屋根の上に登って森を見渡すと、遠くの方から白い霧が流れてくるのが見えた。死の息吹だ――。
「今日は外へ出れないね。畑を守らないと」

 隣でルルが不思議そうに首を傾げている。
 今はもう、時代錯誤な衣装は着ていない。その代わり、宮廷貴族みたいな黒い別珍のジュストコールを着ている。豪華な金糸のブレード刺繍、白いアスコットタイに、やたら高級そうなラピスラズリのタイリングを留めて、そのまま夜会にでも行けそうなスタイルだ。
 人の趣味にケチはつけたくないが、泣く子も黙る「人食い森」では、かなり浮いている。

「あの白い霧のせい?」

「うん。あれに捕まると、生者は魂を抜かれる……。時々流れてくるんだ。見かけたら、高い所に避難するしかない。ここにいれば平気だよ。二階から上には流れてこないから」

「ふぅん……、何かを探しているみたいだね」

 霧は、まるで意志を持っているように、木々の合間を縫って流れている。生者を探しては、白い息吹でからめ捕るのだ……。

 ウァ――……ッ!

 森の奥から、悲鳴が聞こえてきた。不運な遭難者か、あるいは森を荒す密猟者か――。
 いずれにせよ、霧に捕まったが最後、命はない。

「ん、こっちへくる。急ごう」

 ネネは器用に窓から中へ入ると、階段を下りて外へと飛び出した。
 あの死の息吹の正体は、全てを凍りつかせる冷気だ。生けるものの体温を数秒で奪い尽くす。家畜を飼育できないのも、あの神出鬼没な霧のせいなのだ。
 作物の眠る畑に火石リンタイトを十分に数仕込む。椎茸栽培のクヌギの木には毛皮をかけた上から、火石を乗せて重石にした。
 白い霧は、もうすぐそこまで流れてきている。慌てて中へ入ろうとしたら、視界を黒いなにかがよぎった。
 ウァンッ!
 聞き覚えのある獣の咆哮に、足を止める。

「黒いの!」

 狼に似た獣が、茂みから姿を現した。
 艶やかな黒い毛並、アメシストの瞳に三つに分かれた尻尾。魔性の類だと思うのだが、正体はよく判らない。時折、ネネの前に姿を見せる、気まぐれな森の獣だ。

「なぁに、それ?」

 ルルが警戒するように、ネネの前に立ちはだかった。しかし説明している暇はない、黒い獣のすぐ後ろに、白い霧が迫っていた。

「中に入って! 早く!」

 裏口の扉を開けると、ルルは迷わず飛び込んだ。黒い獣は三角の耳をピンと立て、迷った素振りをみせたが、「おいで!」ともう一度叫ぶと直ぐに飛び込んできた。

「三階に上がるよ」

 石造りの階段を二人と一匹でぐるぐると登って行く。
 三階の窓から外を覗くと、霧は早くも辺り一帯を覆っていた。危ないところだった……。

「ねぇ、それ何?」

 ルルは黒い獣を見て、眉をしかめている。

「ああ……、黒いの、って呼んでる。森に住んでるみたい。時々くるんだ」

「ふぅん」

 ルルの不遜な返事が気に入らないのか、黒い獣は「ウゥゥ……ッ」と威嚇した。