PERFECT GOLDEN BLOOD

2章:美しい館ベル・サーラの住人たち - 10 -

 空が白み始める頃、廊下から聞こえてくる複数の足音で、小夜子は目を醒ました。
 ドアが開いた時、鼓動が弾んだ。ルイは誰かと一緒にいるようだ。
「――畜生、このジャケット気に入っていたのに、台無しだぜ。限定品でもう手に入らないのに」
 不服げなアラスターの声。
「諦めて処分しなよ」
 と、ルイ。
「久々のNYだってのに……食屍鬼グールに齧られた死体に目の色を輝かせる奴なんざ、ヴィエルくらいのものだよな」
「まぁ、彼の場合は、どんな死体でも喜んで金をだすからね」
 呆れたような声でルイがいった。なにやら物騒な会話をしている……というか、今夜はNYにいっていたのだろうか。
「……右腕、左腕、右脚と続いて今度は左脚だ。何が目的なんだ?」
 怪訝そうにアラスターがいった。
「象徴的だね……ウルティマスの予言通り、燔祭はんさいかもしれない。強壮なる女王の魔術には、相応の対価が必要だ」
 頻繁に耳にするウルティマスとは、ルイの上司のことだ。アラスターにとっても上司なのだろうか? 今夜二人は、どのような仕事をしてきたのだろう?
「秘儀の供物か。なら、頭部に心臓と続くのか? ……ともかく今夜はよくやった……おい、平気か?」
 不意にアラスターが案じるような声を発した。
「ん、問題ない」
「ゆっくり休め」
「ああ、お前も」
 疲れたようにルイが答えて、扉はしまった。廊下の照明が灯り、武器を外していると思わしき、金属の音が続いた。
 小夜子が寝たふりをしていると、足音が躊躇うように控えめになり、忍び倚るようにベッドの傍へやってきた。
 小夜子は 全身が心臓になったように緊張したが、ルイはそれ以上近づくことはせず、ただじっと小夜子の旋毛つむじを見下ろすように立っていた。
 彼は戦ってきたのだろうか。怪我をしているのだろうか。あれこれ想像するうちに、小夜子は完全に覚醒した。起きあがるタイミングをうかがっているうちに、ルイは静かに踵を返し、部屋をでていってしまった。
 部屋に完全な静謐さが戻ると、小夜子は目をあけて、ベッドから起きあがった。扉に目をやり、思わずため息がこぼれ落ちた。
(……いつまで、ここにいられるのかな)
 最近は寝ても醒めても、ルイのことばかり考えてしまう。仕事は順調なのだろうか? 化け物退治が解決したら、少なくとも夏休みが終わるまでには、ここをでていかねばならない。
 既に手遅れな気もするが、これ以上彼の傍にいたら、好きという気持ちが大きくなりすぎて、別れられなくなりそうだった。
(もう、帰った方がいいのかな……)
 もう何週間も家に帰っていないような気がする。差し迫った危険があるのだとしても、彼が小夜子を守らなければいけない理由なんてないのだ。怖いことがあっても、これまでだって一人で乗り切ってきた。
(もう嫌、この煮え切らない状況……もう限界。ルイさんにいおう。荷物をまとめて、でていくって)
 決意を固めると、小夜子はそっと瞳を閉じた。
 起きたらいうつもりでいたが、目が醒めた時には、ルイはもうどこかへでかけてしまっていた。
 拍子抜けしつつキッチンへ入ると、珈琲サーバの電源をつけた。陶器のマグカップにぽたぽたと落ち、いい香りが辺りに漂う。軟禁生活は相変わらずだが、なかなか優雅な囚われ生活である。
 空腹を感じて冷蔵庫をあけると、なかにツナと卵のサンドイッチがあった。取りだそうとして、ふと銀色のパックが目に入った。中身はプロテインだとルイはいっていたが、どうしてラベルが貼ってないのだろう? 市販ではないのだろうか?
 試しに一つ手にとり、キャップをひねって、パックの口を鼻に近づけてみる。嗅ぎなれない、妙な匂いがする……が、プロテインなら栄養は高いだろう、と小夜子は軽い気持ちで唇をつけて一口ふくみ、盛大に顔をしかめた。
(んっ!?)
 血のような、鉄錆の味がする。
 慌ててパックを口から離し、水道の蛇口をひねってコップに注いだ。口をすすいで、がらがらと喉を鳴らしてうがいをし、口直しにポカリスエットを飲んだ。
 恐る恐る、パックの中身をシンクに流すと、真っ赤な液体が流れ落ちた。
「やだっ」
 小夜子はパックを手放した。シンクに流れる鮮血を凝視しながら、震える手で口を覆う。トマトジュースにはとても見えない。
「何、これ……」
 ぞぞぞっと全身の毛がいっぺんに総毛立つのを感じた。
 どうして、冷蔵庫に血液の入ったパックが保管されているのだろう?
(これがプロテイン? ルイさんって――……)
 ふと思い浮かんだ発想を打ち消すように、かぶりを振った。
 本人に訊けばはっきりする。パックの蓋をしめて、付着した血を拭い、部屋をでた。
 と、バイオリオンの優しい旋律が聴こえてきた。もしかしたらルイかもしれない。
 広間の方から聴こえてくる。薄く扉が開いていたので、近づいてみた。隙間からなかを覗くと、アンブローズが座っていて、弓に松脂まつやにを塗っているところだった。彼はぱっと顔をあげて、小夜子を見た。
 目が遭った途端に、小夜子は呻きたい衝動に駆られた。これまでちっとも姿を見かけなかったのに、どうしてこんな時に限って見つけてしまうのだろう。
「血の匂いがしますね」
 小夜子はぎくりとして、動けなくなった。アンブローズは楽器を置いて席を立つと、優雅な足取りで、硬直する小夜子の前にやってきた。
「……あの」
「貴方がいなければ……嘆かわしいことです。貴い王の身体に、人間の血を入れるなど……」
「え?」
「王は、小夜子のために危険を冒そうとしている。貴方には想像もつかないでしょう。欺瞞ぎまん奸計かんけいに満ち、殺戮と略奪に満ちた、畜生にも劣る人間を、影ながら守らねばならぬ我らの苦痛など」
 訳が判らず、小夜子は困惑したようにアンブローズを見つめた。彼のいっていることは意味不明だが、酷く不機嫌で、憤っているようだ。あの優しい音色を演奏していた同じ人物とは、とても思えない。
「王にも困ったものです。あの時、殺しておけば良かったものを」
 訝しげな小夜子の顔を、アンブローズは蔑みの目で見下ろし、冷酷な笑みを口元に刻んだ。
「貴方は何も判っていない。ルイと初めて出会ったのは、食事をした夜ではありませんよ。十七歳の誕生日に、食屍鬼グールに襲われたところを、ルイに助けられたのです」
 小夜子の脳裡を、なにかが過った。
「誕生日……?」
「ウルティマスは、小夜子が王の魂の伴侶だと予言しましたが、ルイは納得していませんでした。あの晩、彼は、守るためではなく消すために、小夜子に会いにいったのです」
「うそ……」
「嘘かどうか、本人に訊いてみたらいかがです?」
 おののき、戸惑っている小夜子を眺めて、アンブローズは満足そうに笑った。
「ついでに、その中身もルイに訊いてみるといいですよ」
 パックを凝視する小夜子を見て、アンブルローズは冷たく嗤った。
「貴方の考えている通りですよ」
 疑心を読まれて、小夜子は言葉を失った。背筋がぞっと冷えて、踵を返して逃げだそうとすると、ありえないことに、目の前にアンブローズがいた。
「きゃあっ!」
 アンブローズは壁に小夜子を押しつけ、顔の両側に手をついた。慄く小夜子をたっぷり十秒無言で睥睨してから、にやりと長い牙をのぞかせる。
「怖いのでしょう?」
 小夜子は唇を噛みしめて、必死に恐怖を堪えたが、男が顔を近づけてくると、首をすくめた。今すぐ逃げだしたいが、壁を背に追い詰められているから、それも叶わない。
「……いい匂いがする。貴方を見た時から、いい匂いがすると思っていました。私が、心底怖くてたまらないっていう匂いです。そうでしょう?」
「や、やめてください」
「何を?」
 小夜子は降参して、項垂れた。何をどうやっても、小夜子が目の前の男に勝つことは不可能だ。
「……ごめんなさい……怖い」
 か細い声で訴えると、アンブローズは冷笑を浮かべた。
「そう思うのなら、ここからでていくことです。貴方に見合った平穏な日常に戻り、ここで見聞きしたことは、金輪際忘れなさい」
 その時、柱時計が音を立てて鳴った。小夜子は渾身の力で彼を突き飛ばし、一目散に部屋まで走った。
 なかに入ると、扉に鍵をかけて、ソファーにどさっと座った。荒い呼吸を整えながら、散らかった思考を整理しようと試みた。
 どうして、今まで判らなかったのだろう?
 この世にあらざる類稀たぐいまれな美貌。稀有けうな銀色の瞳。超俗した雰囲気。謎だらけの住人。お城みたいな邸。日の出と共に閉まるシャッター。肌に触れた牙。指に滲んだ血を吸われたこと。血液パック……
 断片的な記憶が激しく明滅して、警鐘を鳴らしている。導きだされる答えは、一つしかないように思えた。
 ルイは。
 否、彼等は。
 ここの住人は、吸血鬼ヴァンパイアなのだろうか?