PERFECT GOLDEN BLOOD

2章:美しい館ベル・サーラの住人たち - 7 -

 巨大な空間の側面には、豊かな色彩の絵画、中世から近代美術まで、あらゆる絵が壁にかけられていて、象牙ないしは真珠層のちりばめられた、古艶を放つ樫材の家具調度、精緻な等身大の彫像、青磁や東洋の屏風がそこかしこに配置されていた。
 まるで博物館だ。
 足元に敷かれた絨毯は、目にもあやな壮麗なるオリエンタル産。高い穹窿きゅうりゅう天井は瑠璃を細かく砕いた顔料で深青色に染められ、無数の、切り子面の多い無色の宝石を鏤められており、きらきらと星の瞬く夜空のように思えるほどである。
 部屋の中央には、骨董品でいっぱいの照明付装飾棚が列をなし、ヒッタイト、エジプト、ギリシャの考古遺物アーティファクトや、様々な美術品があつめられている。そのなかには、RAVENの鉱石ジオラマもあった。
 素人の小夜子から見ても、一つ一つが素晴らしい品であると判るものばかりだ。先ほどのやりとりで気が滅入っていようとも、この部屋に足を踏み入れては、賛嘆の念を禁じ得ない。
「こんなところで、何しているんだ」
 唐突に声をかけられて、小夜子は口から心臓が飛びだすかと思った。振り向くと、入り口にアラスターが立っていた。
「すみません、見てはいけませんでしたか?」
「いいや。駄目とはいってない」
 彼は小夜子の傍にやってきて、小夜子が眺めていたものを見た。
「この部屋の殆どは、ルイと千尋の趣味で集められたものなんだぜ。あいつらの蒐集癖は並じゃないからな」
 小夜子が感心したように頷くと、彼は更に続けた。
「この間、なんとかっていう個展にいったんだって?」
「はい、RAVENの……」
「そうそう、そんな名前。ルイが珍しくうきうきしながら出かけていったと思ったら、あんたとのデートだったんだな」
 小夜子が反応に困っている様子を、アラスターはじろりと見ている。だが、眼光の鋭さに気づいたように、悪い、と彼はつけくわえた。
「あいつ秘密主義でさ、教えてくれないんだよ。小夜子は、ルイのこと好きなのか?」
 真っ赤になる小夜子を見て、アラスターは天井を向いてげらげらと笑った。
「なんで赤くなるんだよ、初心うぶだなぁ」
 盛大に狼狽える小夜子を見て、彼は大きな手を小夜子の頭に乗せた。武骨な指が、思いのほか優しく髪を撫でる。
「あんたは、あんまり喋らないよな」
「すみません」
「なんで謝る? べらべら喋る奴より、よっぽどいいと思うぜ」
「……ありがとうございます」
「ああ。静かで大人しい、動物みたいだ」
 アラスターは小夜子をちらと見てから、棚に視線を落とした。あらゆる形状のカレイドスコープが並べられている。
「ここに陳列されているのは、ルイが集めたんだ。そう昔のことじゃない。アメリカで、カレイドスコープ・ルネッサンスっていうブームが起こって、ルイが蒐集したんだよ」
「カレイドスコープ……綺麗ですね。置物としても、芸術品みたい」
 小夜子は身を屈めて、真鍮の筒をもつ、望遠鏡風の万華鏡を覗きこんだ。彩なす光の世界が広がっている。
「俺にはよく判らんが、ルイは、先端部のオブジェクトにオイルを仕込んだカレイドスコープが好きらしい。ドライ系に比べて、無限の幾何学模様を生むからいいんだと」
 筒を覗きこんで、小夜子は賛嘆のため息を吐いた。
「宇宙みたい……」
「それはルイのお気に入りで、百三十八万円したらしいぜ」
 小夜子は目を丸くし、さっと身を起こした。
「百三十八万円!?」
「うけるだろ」
「お高いですね~……綺麗だけど」
「俺には理解不能だよ。あいつは、ルードウィヒ二世なのさ」
 アラスターは揶揄する口調でいった。狂王と呼ばれたルードウィヒ二世は芸術至上主義で知られている。彼の城内には複雑怪奇ともいえる人口美術が溢れていたのだが、小夜子は知るよしもない。ただ、会話の流れから空想を働かせて、ぼんやりとほほえんだ。
「あんたはルイと気があいそうだな」
 アラスターは面白がるように口角をもちあげた。
「だといいのですが……」
 小夜子は照れて視線を逸らそうとし、部屋の奥まった通路に目をやった。アラスターは小夜子の視線を辿り、ああ、と頷いた。
「書庫だよ。気になるか?」
「ええ……」
 小夜子は書棚に寄り、重厚な表紙の本を手にとった。
「ここにある本も、ルイさんが集めたんですか?」
 表紙に手で触れてみる。北欧神話集の分厚い本だ。アラスターは、思慮深い眼差しでいった。
「殆どはルイが集めたものだ。変身譚を意識せずにはいられないんだろうな」
 不思議そうに首を傾げる小夜子を見下ろして、アラスターは肩をすくめた。
「それは北欧神話集で、例えばオーディンの従者ワルキューレは白鳥に変身する。他の登場人物も、鳥、ロバ、石、色々だ」
「へぇ……こっちの本は?」
「それはオデュッセイアに登場するキルケの変身についてだ。その隣はエジプトの再生神話、オウィディウスの変身物語……そこにあるだけで、百以上の変身譚が並んでいる」
「そんなに!」
「なかには大金をはたいて仕入れた、稀覯書きこうしょもある。そこの本も三百万ドルしたものだ」
 小夜子はアラスターを見た。それから、再び視線を棚に戻し、狼が人間を食い殺そうとしている表紙の本を、慎重な手つきで取った。中は細かな字体の英語で書かれている。
「特に狼人間の逸話は多い。昔から人気なんだ。古くはベネディクト会修道士であったボニファティウスが、異郷の地ザクセンで狼信仰が民衆のなかにあったことも認めている」
「なんだか、怖いですね」
「昔は日本にも狼信仰があったぞ。そのせいで、絶滅しかけたこともある。この手の話は、世界中のどこにでもある。狼憑きの話ならヘロドトスやプラトンの作品にもでてくるしな」
「そうなんですね。アラスターさんは、とても博識なんですね。日本語もお上手だし」
 アラスターは肩をすくめた。
「時間は腐るほどあるからなぁ。嫌でも博識になるのさ」
 小夜子が曖昧に笑うと、アラスターはおどけて襲いかかる仕草をした。
「知っているか? 千尋は鴉に変身できるんだぜ」
「ふふ」
 もちろん、冗談だと思って小夜子は笑った。
「よくいうだろ? 魔女は猫や鴉に変身できるんだ。あいつは狐、鼠、蝶にも変身する」
「千尋さんなら、綺麗な鴉に変身するのでしょうね。黒猫もかわいいな。それとも、黒い蝶かな?」 
「いい線いってるぜ。それじゃ、ルイは何に変身すると思う?」
 アラスターは悪戯っぽく含み笑う。青碧の瞳にじっと見つめられ、小夜子は言葉に詰まった。なぜか、視線を反らすことができない。と、部屋の温度が一気にさがり、緊張をはらんだ冷気がたちこめた。
「何をしているの?」
 いつの間にか、扉にルイが立っていた。目の虹彩が、不思議な銀色に輝いている。小夜子はぎくりとし、反射的に胸の前で手を組んだ。
「ただの雑談だよ。そうカッカするな」
 アラスターは気安い口調でいった。
 ルイは無言のまま小夜子の傍へやってくると、うかがうような眼差しで見つめてくる小夜子を見て、ほほえんだ。肩を抱きよせ、アラスターを睨みつけながら、小夜子の頭のてっぺんにキスを落とす。
「いちいち威嚇するなよ、何もしてねぇよ」
「ルイさん……」
 小夜子は赤くなった。胸に手を置いて離れようとするが、肩を抱くルイの力はますます強くなり、絶対に離さないというように小夜子を胸に抱き寄せる。
 その様子を見て、アラスターはにやにやした。
「あんたに何かしたら、ルイに殺されそうだな」
 アラスターはあらたまったようにほほえむと、唐突に背を向けた。
「お邪魔虫は退散してやるよ。じゃあな」
 そういって手を閃かせながら、扉の方へ歩いていく。ルイの腕の力が少し弱まり、小夜子はさりげなく身体を離した。銀色の瞳が、追いかけるように小夜子を捕らえる。
「お、お帰りなさい……どこへいってたんですか?」
「新宿」
「今日は新宿なんですね」
「うん」
 ルイは一歩を踏みだし、開いた距離を詰めた。小夜子はびくっとし、肩が棚にあたって陳列されている小物が音を立てた。
 彼は小夜子の両側に手をつき、鉄制の棚を掴んだ。その両肩で照明を遮り、小夜子の顔に影が落ちる。彼の肌から漂う、えもいわれぬ魅力的な香りに、小夜子は陶酔的な眩暈を覚えた。
「楽しかった?」
「え?」
「今日は何をしていたの?」
 探るような眼差しに見つめられて、小夜子はどきどきしながら唇を開いた。
「え、と……皆さんに会いました」
「どうだった?」
 ルイは身を起こして、面白がるようにいった。空気が少し軽くなり、小夜子は肩の力を抜いた。苦笑気味に、
「アンブローズさんには嫌われているみたい」
「ああ、彼は人間不信なだけだから、気にしないで」
「ヴィエルさんは……よく判りませんでした。何か、研究しているみたいで」
「うん、めったに地下からあがってこない引きこもりだけど、いい奴だよ」
「地下室があったんですね」
「うん。最初は館内に研究室を作ろうとしたんだけど、アンブローズが嫌がったんだ。それで、巨大な地下帝国を作ったわけ」
「地下帝国……? アンブローズさんとヴィエルさんは、仲が悪いのですか?」
「いや、価値観の違いというか……アンブローズは伝統を尊重するタイプだけど、ヴィエルは新しがり屋だから、内装でもめてね」
「ふぅん……私は、すごく素敵なお屋敷だと思いますよ」
 地下帝国とやらは不明だが、本館は非のうちどころがないほど、瀟洒な住まいだ。
「ん、小夜子が気に入ってくれて嬉しいよ」
 さらっと前髪を撫でられ、小夜子は朱くなりながら顔を背けた。
「そういえば、ジョルジュさんから、ここの人で日光が苦手な体質の方がいると聞いたんですが」
 ルイは頷いた。
「皆苦手だよ。この家、斜光に徹底しているでしょう?」
「それは、はい。ルイさんも苦手なんですか?」
「僕はそうでもないかな……」
 不意にルイが黙りこみ、小夜子をじっと見つめてくる。銀色の虹彩が、いつもより色濃く見えるのは気のせいだろうか?
「……ルイさん、近い、近いからっ」
 このままではキスされそうな気がして、小夜子は慌てていった。
「そう?」
 ルイが体を起こしたので、小夜子はチャンスとばかりに彼の腕をかいくぐって逃げた。
「私、部屋に戻りますから!」
「小夜子」
 思わず立ち止まって振り向くと、ルイは同じ場所にいて、小夜子をじっと見つめていた。
「……なんですか? ルイさん」
「ううん、なんでもない。あとでね」
 美しい笑みを向けられ、小夜子は朱くなった。会釈をして展示室をでると、火照った顔を両手でおさえながら、速足で廊下を歩いた。
(ああ、もう。ルイさんといると心臓がもたないよ)
 次に彼に会う時に、どんな顔をすればいいのだろう。そんなことを思っていると、曲がり角で千尋に鉢あわせた。
「あら、小夜子」
「千尋さん!」
 びっくりして立ち止まる小夜子を見て、千尋はにっこりした。紅色の着物にフリルのついた白い前掛けをして、靴は白いロッキン・ホース。原宿あたりを歩いていそうな和装ゴスの美少女は、手に持っているクラフト袋を持ちあげてみせた。
「ちょうど良かった、探していたのよ。これを渡そうと思って」
 はい、と手渡された包みを見て、小夜子は首を傾げた。甘くておいしそうな匂いがする。
「フィナンシェはお好き? さっき焼いたから、お裾分けに持ってきたの」
 小夜子は瞳を輝かせた。
「わぁ、嬉しい! 千尋さんの手作りですか?」
「そうよ。良かったら食べてちょうだい」
 喜色満面の小夜子を見て、千尋も嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます! いただきます」
 良かったらお茶でも……と、この流れで誘えたらいいのだが、はにかみ屋な小夜子には難しかった。その心を察したように、千尋はにっこりした。
「良かったら今度、お茶しましょうね。ルイの監禁も終わったようだし」
 千尋は、悪戯っぽく片目をつむってみせた。小夜子は朱くなって俯いた。ルイのいきすぎた過保護を知られているのだと思うと、なんともいえぬ居心地の悪さを覚えるが、お茶に誘われたのは嬉しい。
「うふふ、それじゃあまたね、小夜子」
 千尋は小夜子の手をとってぎゅっと握りしめたあと、くるっと踵を返して階段を降りていった。彼女の動作の一つ一つが、機敏で優美な猫を思わせる。
 彼女を見送ったあと、小夜子は部屋に戻った。紅茶を淹れて、フィナンシェを皿に盛りつけてPC前に座る。パソコンの前に座って課題を始めようとすると、ルイのことが脳裡に浮かんで心が乱れたが、ブランデーの香る仄甘いフィナンシェに癒された。
(すっごく美味しい……っ)
 しっとりと柔らかく、香ばしくて、さりげない甘さが、上品なお酒の香りと共に、口いっぱいに広がっていく。
 恍惚を味わいながら、個性的な住人たちに想いを馳せた。
 アンブローズは苦手だが、千尋とは仲良くできそうだ。お茶にも誘ってくれた。ヴィエルとアラスターはよく判らないけれど、嫌われてはいない。どちらかといえば、好意的な態度を示してくれている。
 そしてルイは……彼の言動には、うまく説明がつけられない。考え始めるとたちまちルイのことで頭がいっぱいになり、課題どころではなくなった。
 完全に恋煩いである。今は課題に集中しよう、と小夜子は意識してルイのことを思考のそとへ追いやった。