PERFECT GOLDEN BLOOD

3章:Auオール revoirボワール - 10 -

 千万もの星が瞬く無窮むきゅうの夜空は晴れ渡っていて、静寂に包まれた寝室の窓から、銀色の月光が柔らかく射しこんでいた。
 深い眠りに就いていた小夜子は、ベッドが柔らかく沈みこむ気配に目を醒ました。
「お帰りなさい……」
 背中から抱きしめられ、夢見心地でほほえむ。
「ただいま、小夜子」
 華奢な首筋に顔をうずめて、ルイは深く息を吸いこんだ。柔らかな小夜子の匂い。眠っていたせいか、いつもより体温が暖かく、ふっくらしていて無防備に感じられた。
「くすぐったぁい」
 うなじを甘噛みされて、小夜子は忍び笑いを漏らした。寝ぼけているのか、親密な触れ方に危機感を覚えるでもなく、強張ったりもしない。楽しそうにくすくすと笑っている。
「ん……」
 肌を舐められて、小夜子はくぐもった声を漏らした。アルコールの匂いがする。寝起きでぼんやりしていた思考が、不意に晴れた。
 一体どうして、こんな時間に、ベッドの上で、ルイに圧し掛かられているのだろう?
「あのっ、ルイ?」
「ん?」
 ルイは小夜子を後ろから抱きしめ、白いうなじに唇を押し当て、啄むようにんだ。あえかな吐息をあげさせながら、場所をずらして吸いついていく。酔っていることもあるが、これが最後だと思うと、なかなかやめることができなかった。
「あ、あの……ルイ?」
 肩越しに振り向いた小夜子は、ルイの瞳を見て息をのんだ。薄闇のなかで虹彩の銀色は際立ち、神秘的な菫色を帯びている。月光の魔性をもらいうけて、彼の背に黒い翼が伸びあがった。
「っ……ルイ、その背中――」
 次の瞬間、ルイは文字通り部屋の壁際に飛びのいた。
 目を疑うような出来事だった。
 覆いかぶさっていたルイが、一瞬でドアの前に移動したのだ。
 小夜子は唖然となったが、蒼白な顔をしているルイを見て、不安が芽生えた。何か言葉をかけなければ、今すぐに、何か言葉を、何か――
「……ごめん」
 かろうじて聴き取れる、小さな囁きだった。
「教えてください。ルイは、何に怯えているのですか?」
 ルイの表情が強張った。小夜子は答えをじっと待ったが、沈黙に耐え切れず、唇を戦慄わななかせた。
「私、知りたいんです……ルイのこと。どうしていつも、背中を隠すんですか?」
「……本当に知りたい? さすがに僕を嫌悪すると思うよ」
 自信なさそうにいうルイを見て、小夜子の胸は締めつけられた。無敵のルイが、小夜子を相手に怯えているだなんて信じられない。
「私はもう、ルイがヴァンパイアだって知っているんですよ? これ以上に驚くことが、他にあると思いますか?」
「思うよ。僕は、君が思う以上に怪物なんだ」
 ルイは即答した。
「どういうこと?」
「いいたくない」
 決然とした口調で、それは明確な拒絶だった。
 小夜子が傷ついた顔をすると、ルイも苦しそうな表情になり、
「ごめん……いえないんだ」
「……」
 小夜子は俯いた。さっきはあんなに親密な距離で触れあっていたのに。今は、手を伸ばせば触れる距離にいても、お互いが遠い。
「……小夜子、夏休みが終わるね」
 のろのろと顔をあげる小夜子を見つめて、ルイは切なげにほほえんだ。
「君を家に帰してあげる」
 小夜子は顔を歪めた。
「……食屍鬼グールは駆逐した。もう、危険はないよ。安心してお帰り」
 少し前なら、ようやく家に帰れると泣いて喜んだだろう。けれど今は、胸を締めつけられる悲しみに襲われた。
「……どうして、そんなことをいうの」
「小夜子」
「わ、私は、ルイの傍にいたい!」
 銀色の瞳に、狂おしげな光がよぎった。ルイは拳を固く握りしめ、必死に何かに耐えているように見えた。
「僕もそうしたいけれど、無理なんだ。一緒にはいられない」
「どうして?」
「僕たちは、種が違う。命の長さ、風俗習慣、価値観、帰還の観念――何から何まで違うんだ」
「そんなこと、初めから判っていたじゃありませんかっ」
 小夜子はかっとなっていった。
「いや、何も判っていなかった。小夜子に出会って、浮かれるあまり目が眩んでいた。僕の本然……世界を把握できていなかったんだ」
「だからっ……なんで今さら、そんなことをいうの! ここまで連れてきて、こんなに夢中にさせておいて……どうしてっ……?」
 小夜子は腹が立って仕方がなかった。涙に濡れた目で、ルイを睨みつけた。
「……ごめん」
 ルイは抑揚のない声で呟くと、ゆっくり近づいてきた。ベッドに腰かけ、小夜子の額にそっと掌を押し当てた。はっと閃くものがあり、小夜子はおののくように距離をとった。
「消すの? 私の記憶」
 無言の肯定に、小夜子は顔を歪めた。感情が千々に乱れて、喉の奥から熱い塊がせりあがってきた。
「嫌だよっ!」
「……ごめんね。食屍鬼グールは駆逐したはずだけど、万が一ってこともあるから……無意識の恐怖が引き寄せないよう、記憶はない方が安全なんだ」
「守るって、いったくせにっ……」
「守るよ。だから、君を手放してあげるんだ」
「そんなの間違ってるっ」
 泣きじゃくる小夜子の頭を、ルイは撫でた。
「愛しているよ、小夜子……一緒にいたいけれど、このままだと、僕はいつか君を傷つけてしまう。そうでなくとも、君はいつかねがうはずだよ。陽の光の貴さを。家族の温もりを。平和な日常を。暗がりの生活に嫌気がさして、老いの嘆きに苦しむだろう」
「決めつけないでください! どうしていい切れるんですか?」
「……この目で見てきたから。人間は刹那的で、脆く儚い。僕らとは相容れない種族なんだ」
「そんな風に線引きをしないで! 種が違う? そんなことは始めから判っています! それでも一緒にいたいんです」
 自己主張の薄い小夜子が、これほど一生所懸訴えるのは初めてだった。
「僕だって――」
 ルイは言葉をきり、小夜子の腕を掴んだ。暖かな吐息が小夜子にかかる。ルイが身を寄せてくると、その体が放つ熱が感じ取れそうな気がした。
 拒む間もなく、彼の唇が口の端をかすめた。下唇の中央に牙が触れる。
「ん……っ」
 もがこうとするが、引き締まった身体へ抱き寄せられるだけだった。ルイが唇をこじあけてキスを深めてくる。
 情熱的なキスに小夜子は衝撃を受けた。息が続かなくて苦しい。くぐもった声を漏らすと、唐突にルイは唇を離し、荒い息をついた。小夜子の唇に指をすべらせ、じっと見つめてくる。その瞳は銀色に輝き、切望の色が浮かんでいた。
「君を離さないと……」
 ルイは腕を緩めたものの、小夜子から手を離すことができないようだった。呻くように小夜子の名を呟き、再び頭をさげた。
「ゃ、待って、」
 またキスされてしまう――恐れた通り、静止の言葉は唇にのみこまれた。
「んっ、ふ……っ」
 なすすべもなく、口づけに応える小夜子を力強い腕が抱きしめた。片方の手で腰をぐっと引き寄せ、掌が背中を撫であげる。ぞくっとした震えが走り、小夜子は小さく喘いだ。
 ルイは唸り声をあげたかと思うと、自分を抑えこもうとするように、小夜子をきつく抱きしめた。
「愛しているよ、小夜子。だけどやっぱり、君を手放すことが、君のために僕ができる唯一のことだと思う」
 そういって躰を少し離した。ルイの瞳から涙が溢れだす。透き通って、煌めいている。万感のこもった眼差しに、小夜子の魂は揺さぶられた。こんな別れは間違っている――そう思うのに、彼を説得することが、安心させてあげられないことが、酷く惨めだった。
 沈黙を破るようにアラームが鳴り、シャッターが下り始めた。
 どうしたことか、ルイは窓辺に立ち、おりてくるシャッターを手で押さえた。そのまま直上にもちあげる。射しめた陽の煌めきを見て、はっと小夜子は目を瞠った。
「ルイ?」
 彼が消えてしまうのではないか――恐怖して、彼に向かって手を伸ばした。
 清らかな朝陽がルイを照らす。
 彼は消えたりしなかった。黄金色に縁取られた輪郭が、真珠の粉をはたいたように輝きだした。
「ルイ、きらきらしてる……」
 小夜子は、呆けたように呟いた。
 ヴァンパイアは陽を浴びると、灰になってしまうのかと危惧したが、このように神々しい姿になるとは思わなかった。
「僕は、Vのなかでも特殊なんだ。ウルティマスと女王の肉体の交歓により産まれた子供だから。黄昏の種族だけど、陽は脅威じゃない。だけどこんな風に目立ってしまうから、陽射しのしたを小夜子と並んで歩けないんだよ」
「ウルティマスと女王の子……」
 小夜子は茫然と呟いた。神秘霊妙なる存在だとは思っていたが、神の産んだ子供いう発想はなかった。第一、女王とウルティマスは姉弟のはずだ。
「そう、女王が自らの腹で僕を出産した。神の酔狂もたまったものじゃないよ、おかげで僕は生まれた時から、悪魔の破壊衝動を抑制する苦労を強いられているんだから」
 ルイは自分を冷たく嗤っていった。小夜子は曖昧に頷いた。なかなか理解が追いつかないが、辻褄はあうように思えた。天使のようなルイに、時に悪魔のような影が射すのは、両親の特性を引き継いでいるからなのだろうか?
 神の摂理では問題ないのかもしれないが、ルイは近親婚の子供ということになる。
 形の良い指がのばされ、小夜子の頬に触れた。
「一緒にはいられないんだ」
 種が違う――彼はヴァンパイアで、小夜子は人間。現実を突きつけられ、小夜子は項垂れた。
「さようなら、小夜子……“目を閉じて”」
 瞼のうえに掌が覆われ、小夜子は悲鳴をあげようとした。けれど、躰の自由を縛られ、声がでない。催眠にかかったように思考がぼやけていく。
「いや……忘れたくない……っ」
 烈しく否定したつもりだが、弱々しい声にしかならなかった。
「ブレスレットは必ず身に着けていて。強力な魔除けになるから」
 ルイは優しい手つきで、大粒の黒ダイヤがついた腕環を、そっと撫でた。
「僕のことは忘れても、この腕環を外してはいけないよ」
「やめて、ルイ……」
 不意に押し寄せる、走馬燈のような記憶が小夜子の胸を詰まらせた。
 彼と出会い、美しい館ベル・サーラで過ごした夏の思いでは、小夜子の一生の宝物になるはずだった。いつか別れの日がやってくるとしても、こんな風に、記憶ごと奪われてしまうなんて思ってもみなかった。
「ルイ、ルイ、お願い……」
 身を引き裂かれるような哀切の歔欷きょきが、小夜子の両目から涙をいっそう溢れさせた。
 震えながら伸ばされる手を、ルイはそっと握りしめた。腕のなかで、愛おしい少女が泣いている。想いに応えられないことが、胸が張り裂けてしまいそうなほど辛かった。
 喉にせりあがってきた熱い塊をのみ下し、やっとの思いで唇を開いた。
「お休み、小夜子。いつも君を見ているよ。君が僕を忘れてしまっても……Au revoir」
 美しい銀色の眼差し。目を閉じてはだめ。忘れたくない――強く思うのに、抗いようがない睡魔に襲われて、小夜子は意識を手放した。