PERFECT GOLDEN BLOOD

4章:黄金律の血 - 7 -

 全てが終った時、その光景は目を疑うもので、塔の上半分が綺麗になくなっていた。壁はぼろぼろに崩れ落ち、絶叫する六十度の荒波を毛羽たせる冷たい海風が、殷々轟々いんいんごうごうと吹き荒れている。
 旧神は海深くに沈みこみ、今はもう黒い瘴気を立ち昇らせるばかり。錯雑した神秘も女王の姿もどこにもない。
 ルイは小夜子を振り向いて、首を傾げた。銀色の双眸は薄紫にかがやき、頭部には凛々しい二本の角が突きでて、背には折りたたまれた大きな黒い翼……まさしく悪魔だ。
 それでも彼は、ルイだった。異形の姿をしていても、小夜子は不思議と怖くなった。
 しかし、変わりはてたルイが小夜子の方に近づいていくのを見て、Vたちは全身に緊張を漲らせた。
「アンブローズ、小夜子をつれて逃げろ」
 アラスターが鋭くいった。アンブローズが小夜子に近づこうとすると、ルイは唸り声を発し、Vたちを睨みつけた。銀色の瞳は異妖に輝き、彼らを仲間だと認識していないようだった。
 小夜子のせいだ。小夜子への庇護本能が、ルイをこうまで荒立たせているのだ。
「大丈夫ですから、皆動かないでください」
 小夜子はいった。アラスターは厳しい視線を向けてきた。
 何してる、早く逃げろ――切羽詰まった表情で、声にはださず、目だけでそう叫んでいる。
 小夜子はかぶりを振った。彼が小夜子に危害を加えるとは、どうしても思えなかった。全身全霊をけて、小夜子を助けてくれたのだ。
「うっ」
 踏みだした脚首に刺すような痛みが走り、小夜子は表情をしかめた。するとルイは素早く動いて、小夜子の前に膝をついて屈みこんだ。黒い翼を動かして、小夜子を包みこもうとする。
「小夜子!」
 アラスターが鋭い声を発した。ルイは唸り声をあげて彼を睨みつけたが、小夜子がルイの肩に手を置くと、仰ぐようにして視線を戻した。
「大丈夫だから、心配しないで……ルイは私を助けてくれたんです。怖がることはありません」
 小夜子はルイを見つめたままいった。恐る恐る手を伸ばして、頬を撫でてみる。ルイは目を閉じて、心地良さそうに唇から吐息を零した。
(……うん、私に敵意はないみたい)
 小夜子は確信した。小夜子の掌に頬を擦りつける姿は、危険極まりない猛獣に甘えられている錯覚を引き起こす。けぶるようなまつ毛がもちあがり、紫を帯びた銀色の双眸が小夜子をじっと見つめた。彼が、触れられたそうにしている気がして、恐る恐る髪に触れてみた。
「ありがとう、私を護ってくれて……すごく強いんですね」
 銀色の眼差しが、三日月のように細くなる。
 アラスターが心配そうに小夜子の方へ近づいた時、ルイが唸り声を発した。翼で小夜子を庇い、視界から隠そうとする。
「ルイ」
 小夜子は優しく呼びかけた。
 ルイの肩がぴくりと動いた。再び視線を小夜子に戻し、薄紫を帯びた銀色の瞳で、じっと見つめてきた。かと思えば長身を屈め、首すじに鼻をすりつける仕草をした。
「ルイ?」
 吐息が触れてくすぐったい。彼は無言のまま、小夜子の肩に頭を乗せた。もっと撫でてくれというように。比類のない超常の力をふるっていた悪魔が、従順に、愛情を示す仕草に、小夜子は胸を打たれた。手を伸ばして凛々しい角を優しく撫でる。
 美しい悪魔は心地よさそうにため息をつくと、顔をあげて、小夜子の唇に触れるだけのキスをした。暴力とは対極にある、羽が触れるような優しいキスだった。
 唇が離れて、小夜子が柔らかな吐息をこぼすと、彼は幸せそうにほほえんだ。銀色の瞳を満足そうに細めて、小夜子の手に自分の手を重ねる。そっと瞼を閉じた。
 ああ、ルイに戻るのだ。
 彼の体は銀色の光に覆われ、背の翼が消え、凛々しい角が消え、人形ひとがたに戻った。上半身は裸で、彫像のような胸や腹をさらしている。
「ルイ?」
 ルイは黙りこんでいる。表情からは彼が何を考えているのか判らなかった。
 Vたちを振り返ると、言葉よりも雄弁な感謝の眼差しで小夜子を見つめていた。千尋に至っては、涙ぐんですらいた。彼らが気を遣って離れていくのを見て、小夜子は躊躇いつつ、ルイに視線を戻した。
「ルイ? 大丈夫?」
 どうして返事をしてくれないのだろう? 不安になって、俯いている彼の顔をのぞきこもうとした。足首に体重が乗った瞬間、鋭い痛みが走り、思わず顔をしかめた。
「小夜子」
 ルイは目を瞠って、すぐに両腕で小夜子を支えた。彼は額から血を流し、シャツは破れ、満身創痍だったが、小夜子を抱く腕は力強かった。
「ごめん……こんな目にあわせて」
 その声は打ちのめされた者のように、掠れていた。小夜子は首を振った。
「私は大丈夫です。ルイさんは? あのひとはもういない?」
「僕も平気。女王はウルティマスが追い払った。旧神も封じたし、ひとまず片付いたよ」
「本当? もう大丈夫?」
「うん……」
 小夜子は緊張が緩んだ途端に、視界が潤んでいくのを感じた。
「……良かったぁ」
「君が無事で良かった。ごめん、僕のせいで怖い思いをさせて……僕が……っ」
 ルイの声は震えていた。小夜子も涙ぐみながら、ルイの背に腕をまわし、ぎゅっと抱きしめた。
「謝らないで。私を助けてくれたじゃありませんか。もう一人のルイだって、少しも怖くありませんでしたよ。全身で私を守ってくれて、怖い敵を薙ぎ払っちゃうんですもの。はっきりいって、惚れました」
 泣くまいとし、小夜子は早口でいった。だが、どうやっても涙が溢れてきた。
 ルイは沈黙し、ややして、おかしそうに肩を揺りあげた。
「あいつが喜んでいるよ」
 小夜子はルイを見つめながら、月光に煌く乱れた髪を撫でてやった。銀色の瞳が細められ、きらきらと光がこぼれた。彼のなかに、もう一人のルイが住んでいるのを意識しながら、小夜子はほほえんだ。どちらからともなく顔を寄せて、そっと唇を重ねた。
 腰を抱く腕に力がこめられる。後頭部を掌が丸く包みこみ、口づけが深くなっていく。それはルイの意志だろうか? あるいは、もう一人のルイだろうか?
 判らないけれど、小夜子は少しも怖くなかった。彼の全身から、小夜子を大切に扱おうとする意志が感じられるから。こんなに優しい悪魔は、世界中を探したって見つかりやしないだろう。
「……僕は間違っていたよ。小夜子の幸せを願って、最良の道を選んだはずなのに。影から見守る騎士のように、君を永遠に見守っていけると思いこんでいたんだ」
 小夜子はかぶりをふり、
「いつも、心のどこかでルイを探していたんです。私は何を探しているんだろうって……ずっと」
 はらはらと涙をこぼれ落ちた。
 ルイに出会う為に、この世に生まれてきたのだ。苦痛に耐え忍び、孤独のなか生きてきた。全て、ルイに出会うためだったのだ。
「何世紀も生きてきたくせに、僕は気が利かないな。好きな子を、泣かせてばかりいる」
 涙に濡れた目元を指でぬぐわれ、小夜子は顔をあげた。
「お詫びにダッツのミント・アイスクリームを買ってくるよ」
 小夜子の好きなアイスだ。
「覚えててくれたんですか?」
 小夜子は泣き笑いを浮かべた。
「君のことならなんだって覚えているよ、小夜子」
 端正な顔に浮かぶ誠実さに、小夜子の胸は甘く震えた。思わずルイの手を両手でとり、想いをこめて握りしめる。
 もう大丈夫。危険は去ったのだ――そう思った矢先、ルイの様子が一変した。
「ルイッ!?」
 彼はくの字に身体を折り曲げ、暴れる力を抑えつけるように頭を地面にこすりつけている。
「う、ぐっ」
 小夜子は身を屈め、ルイの背中を撫でさすった。ルイは苦しげに喉をおさえ、歯を食いしばって、何か必死に耐えている様子だった。生え際には無数の汗の玉が浮かび、瞳孔は縦長に変形し、銀色の虹彩に、薄紫の線が放射状に走っている。
「ルイ、大丈夫!? ……千尋さんっ!」
 小夜子が助けを求めて振り向いた時、 Vたちはもう駆け戻ってきていた。
「ちきしょう、血の渇きだ」
 傍に膝をついたアラスターが、厳しい表情でいった。