ラージアンの君とキス

1章:ラージアンと私 - 1 -

 二〇一四年 六月一四日。東京、お台場。

 中学三年生の笹原夏樹ささはらなつきは、一つ年下の弟、祐樹ゆうきと共に、お台場のとあるイベント会場に遊びに来ていた。
 土曜日の午後ということもあり、フィギュア博の開催されている会場には、大勢の人が訪れている。中には、日本代表のユニフォームを着ている人もいた。FIFAワールドカップが開幕してから、どこへ行ってもサッカー一色だ。
 人の往来で賑わう中、ジーパンに青ストライプのシャツという、ありきたりな恰好をした夏樹は、完全に埋没していた。
 隣を歩く、白地Tシャツ姿の祐樹も同様である。しかし容姿を見ると、女の夏樹よりも男の祐樹の方が、人目を引くかわいい顔をしている。
 夏樹はそばかすの浮いた自分の顔が、あまり好きではなかった。笑うと線みたいに、細くなる糸目も嫌いだ。祐樹みたいな、ぱっちり二重の瞳を羨ましいと、常日頃から思っているくらいだ。

 ――あれ、祐樹どこ行った?

 隣を歩いていたはずの祐樹が見当たらない。左右を見たけれど、人の多さに探す気は一瞬で失せた。
 ここへ来て、三時間は経った。
 足は疲れたし、もう飽きた。勝手に休憩していよう……。
 会場の外にあるベンチに座ると、気持ちのいい風が吹いて、くせっ毛の黒髪、ショートヘアを揺らした。髪を押さえながらスマートフォンをいじり「休憩しているよ」と簡単にメールを打つ。

 ――お腹空いたなぁ……。

 軽く昼食は摂ったが、もう直ぐ午後四時になる。早くご飯を食べに行きたい。
 今日は家族四人でお台場に遊びにきていて、両親達は今頃どこかで、リビングに置く予定の新しいソファーを物色しているはずだ。
 ソファーに興味のない夏樹は、弟の祐樹が興味を示したフィギュア博の方に同行することにしたのだ。
 あと一時間もすれば、皆で合流して、美味しいものを食べに行く予定だ。とても楽しみである。
 ぼんやりと、雲間から陽光の射す神秘的な空を見上げた。
 人ゴミは嫌いだし苦手だけれど、お台場の海を臨める風景は好きだ。
 写真を撮ろうと携帯を空に向けて、思わずパチパチと瞬いてしまった。

 ――何か、変なものが見えたような……。

 雲の向こうに、巨大な飛行機の輪郭を見た気がした。

「夏樹」

 じっと空を眺めていたら、背中に声をかけられて、飛び上がらんばかりに驚いた。

「ヨシ兄!」

「いよぉ。あれ、祐樹は?」

「はぐれちゃって。たぶん、まだ中にいる」

 イベントスタッフの恰好をしたヨシ兄、近所に住む高三の従妹を、座ったまま見上げた。夏樹と祐樹に、フィギュア博の入場チケットをタダで譲ってくれたのは、このヨシ兄だ。

「夏樹は休憩?」

「うん、疲れちゃった」

「何か飲む?」

「わーい、お茶がいい」

 座ったまま動こうともしない夏樹の頭を、大きな手がぽんぽんと撫でてくれる。
 ヨシ兄は、いつも優しい。
 自動販売機へ向かう後ろ姿を見ていると、会場から祐樹が出てきた。誰かを探すように、キョロキョロしている。手を振って合図すると、笑顔で手を振り返してくれた。

「お帰りー」

「あれ、ヨシ兄だ」

「うん。一緒にいけば、きっとジュース買ってもらえるよ」

「まじで?」

 祐樹は勢いよくヨシ兄の背中を追いかけた。風みたいに早い。
 ぼんやり空を眺めていると、楽しそうに笑い合いながら二人が戻ってきた。祐樹は既にコーラを飲んでいる。ヨシ兄は「ほら」と夏樹にお茶を渡してくれた。

「ありが……っ!?」

 お礼を言おうとしたら、突然、身体がふわっと浮いた――。
 受け取り損ねたペットボトルまでもが、地面に衝突せずに、宙に浮いている。
 慌てて手足をバタバタと掻いたけれど、どうにもならない。見えない力で吸い上げられるみたいに、身体が勝手に上へと昇っていく。

「何――っ!?」

 叫んでいるのは、夏樹だけではない。

「っだよ、これ!?」
「おぉっ!?」

 同じように、空へと吸い上げられていく祐樹とヨシ兄も、手足を宙でばたつかせて声を上げていた。
 他にも、周囲にいた人達が、それぞれ驚愕の悲鳴を上げながら、同じように上へ上へと吸い上げられている。
 まるでこの辺りだけ、いきなり無重力になったみたいだ。

 ――何なの……っ!?

 一瞬、何かのアトラクションかと思ったけれど、仕掛けが全然判らない。
 十数人もの人間が、ワイヤーもないのに、空に向かって身体ごと吸い上げられていく。
 こんな訳の判らない事態が起きているのに、空に浮き上がる夏樹達以外の人間、会場にいる大勢の人達は、こちらを微塵も視界に入れていなかった。何事も起きていないように、笑いながら歩いている。訳が判らない……。

「助けてぇ――っ!!」

 夏樹と同じように、宙に浮いた女性が、半狂乱で悲鳴を上げている。無理もない。どんどん地上から遠ざかっていく。あまりの高さに、夏樹もくらくらしてきた。

「夏樹!」

 祐樹は腕を目一杯伸ばして、夏樹の手を掴もうとした。夏樹も咄嗟に手を伸ばす。
 指先をかすめたと思ったら、フォンッ……と軽い電子音が聞こえて、急に重力を感じた。