異海の霊火

1章:異海 - 1 -

「逃げろォッ! 終末の疫獣リヴァイアサンだァッ!!」
 船員が恐怖の絶叫をあげて、甲板を右往左往するなか、ジンシンスは口惜くやしげに前方を見据えていた。
 旧神に接触するまたとない機会だというのに、旧神の出現により、アイオタトラ王国の秘宝“ふたつ貴石”のひとつが、皇帝プダトゥリオご自慢の戦艦と共に次元の彼方に消えてしまったのだ。
 これでは旧神を次元の彼方に送ることはできない。
 やはり、傲慢な人間の皇帝がなんといおうと、憂い深き海の賢王がなんといおうとも、“ふたつ貴石”はジンシンスが持っておくべきだった。
 だが、過ぎたことを悔いても仕方がない。
 機会はまだある。
 “ふたつ貴石”の片方はジンシンスが持っているのだ。この不思議な貴石は互いに引きあう力が働くから、次元に消えた片割れの貴石も、いずれ見つかるだろう。
 気を取り直したジンシンスは、戦慄している甲板を振り向いた。
 古い大陸の言葉で“さわやかな風”を意味するトゥール・リーフ号は、神の嚇怒かくどなるおそろしい疾風はやてに翻弄されて、今にも転覆しそうな有様だ。
「帆を畳め! 縦帆は残せよ、早く旧神から離れるんだ」
 指示をだしながら甲板を突っきっていく、そのとき、かすかな声が海から聴こえた。

“助けて……”

 信じがたい思いで、ジンシンスは海面に目を凝らした。
 ――誰かが助けを求めている。
 青い双眸がかがやきを増す。幾重もの青の起伏を見せる海水青色かいすいせいしょくの長髪に霊気が満ち満ちて、肌を彩る紋様を煌めかせた。
 超常の千里眼で海を視透すと、沈みゆく小さな影が視えた。意識を集中させて、その正体を見極めようとしたが――

 ヴォォ……オオォォ……ヴオオォォォォォォ…………

 陰鬱な呻き声が海に響きわたった。耳栓をつけ遅れた船員が、苦痛の悲鳴をあげる。
「腕がぁっ」
 手首から先が消え失せて、その切断面から、血と粘液のまじった熱い蒸気が噴きあがる。
 海底人であるジンシンスの恐れるところではないが、旧神の声を聞いた大抵の人間は、四肢や内臓を欠損するのだ。
 ウワァッ――ワァッ――地獄の底抜け騒擾そうじょうのなか、
「耳を塞げ! 消失するぞッ」
 耳栓を装着した甲板長が吠えた。
「医者に診てもらえ。俺は海を見てくる・・・・。舵はこのままでいい」
 ジンシンスが身振りで伝えると、甲板長はぎょっとした顔で見返した。
「えぇ!? 無茶ですぜ、船長」
 慌てふためく巨躯の男を、ジンシンスは冷静に見つめ返した。
「すぐに戻る」
 青い海底人は、身一つで躊躇わずに海へ飛びこんだ。
 甲板長が船縁に駆け寄った時には、水飛沫しか見えなかった。
「なんてこった! おお、神よ」
 しゃがれ声で甲板長が天に向かって叫ぶ。
 神頼みもむべなるかな。
 終末の疫獣リヴァイアサンの出現で、海も空も此の世の終わりとばかりに荒れ狂うなか、荒波に飛びこむのは殆ど自殺行為でしかない――常人であれば。
 海底人であるジンシンスならば問題はなかった。
 半身半神である彼は、海を泳ぎながら変身した。その姿は人々が伝説の生き物にたとえる、海神わだつみに似ているかもしれない。
 人形ひとがたからは想像もつかぬ青い鱗に覆われた巨躯で、仄青くかがやたてがみや彗星のような尾は、金銀細工師が飾りたてたよりも燦爛さんらんとした装いをなしていた。
 この星の命の開闢かいびゃくを知る、神々しい海の賢者は、あらゆる海中生物を畏怖させ従える。翼にも似た優美なひれで、どのような海中生物よりも――皇帝ご自慢の最新鋭の戦艦よりも高速で泳げるのだ。
 いとも荘厳な青い霊火が海をはしる。
 邪悪な混淆こんこう海域の荒波をものともせず驀進ばくしんし、やがて沈みゆく小さな存在を見つけた。
(――子供?)
 命の火は、消え入る蝋燭のようにささやかだが、四肢も臓器も無事だ。ならば蘇生できる。
 小さな人間の子供を神妙なる防膜で覆い、そのまま水中を移動させ、船へと引き返した。
 甲板はまだ火を噴いていたが、その殆どは大雨に濡れて鎮火していた。嵐のせいで帆桁が破損したようで、船員たちが修復作業に追われている。
 人形ひとがたに戻ったジンシンスは、子供を抱きあげて宙へ浮きあがると、静かに船縁におろした。
「おい、しっかりしろ」
 頬を軽く叩きながら声をかける。さらに頭と肩をさすりながら霊気を流しこむと、子供は小さくうめき、瞼を震わせた。
「ぅ……」
 子供と目が遭ったとき、ジンシンスは小さな感動を覚えた。“ふたつ貴石”の黒を思わせる、艷やかな黒真珠のひとみだ。
 だが他の船員はそうは思わなかったようで、群がり集まり、黒い髪と目の子供を見るや、怒声と呪罵じゅばを浴びせかけた。
「なんだァ、不気味な餓鬼ぞよ」
「髪も目もまっ黒いぞ。こんな餓鬼を乗せたら、船が沈んじまう」
「“陥没頭”より薄気味悪ぃつらしていやがる! 海に放っちまおうぜ」
 かわいそうな子供はすっかり怯えてしまい、小さな躰をおこりを患っているみたいに震わせた。
「怖がらなくていい、もう大丈夫だ。助かったんだ」
 なるべく優しく聞こえるように声をかけたが、不安そうに視線を彷徨わせている。どうやら言葉を理解していないようだった。
 だが判らずに幸いしたかもしれない。今この場にいる連中の悪罵あくばなど、とても聞かせられたものではない。
「殺せ!」
「捨てちまえッ」
 気が高ぶった男たちは、狂ったみたいに叫び始めた。
「黙れ! 持ち場に戻れ!」
 ジンシンスが一喝すると、無頼漢どもはびくっとし、蜂の子を散らすように持ち場へ舞い戻っていった。
 と、抱きかかえている躰が弛緩したので、ジンシンスは子供の顔を覗きこんだ。
「おい、大丈夫か?」
 瞼は閉じられているが、呼吸はしている。どうやら意識が混濁しているようだ。
 ともかく安全な場所に連れていこうと思い、子供を抱きあげると、そのあまりの軽さにジンシンスは驚愕した。
(ろくに食べていないのか?)
 子供の全身に視線を走らせるが、人間の子供をあまり見たことがないので、年齢がよく判らなかった。性別も曖昧で、これほど短髪でなければ少女のようにも見える。
 顔は寒さで青白く、今にも儚く息絶えてしまいそうだ。震える繊弱せんじゃくな手に、胸をさすほどの哀憐を感じた。
(かわいそうに……この小さな子供は、棲み処をなくした難民かもしれない)
 繁殖率の低いジンシンスたち海底人にとって、子は宝だ。大切に庇護すべき存在であり、その概念は人間の子供に対しても同じように働いた――本人も意外なことに。
 ぐったりした子供を抱きかかえて医務室に向かう廊下の途中で、医者と鉢あわせた。
 痩身の男で、名前はシドという。そろそろ老境に入るはずだが、肌には艶があり、いまいち年齢不詳だ。ちまたでは次から次へと患者を殺し、保釈なしの終身刑六五〇年に処された殺人鬼だが、船上では現役の医者を務めている。
「まだ生きている。このまま医務室に運ぶ」
 ジンシンスがいうと、銀縁の片眼鏡の奥から、灰緑色の瞳が思案げに見つめ返してきた。
 よく見るとシドは血まみれだった。彼自身の血ではなく、患者の血だ(殺したわけではない)。白銀髪で、蝋人形のように青白い肌をしているので、前掛けにべったりついた血の色が、奇妙に際立って見える。
「そのまま死なせてやった方が幸せかもしれませんよ」
 医者は落ちついた声音でいった。
「なぜだ?」
「ここは混淆こんこう海域ですよ。命の補償はないでしょう。第一、我々・・のことはどう説明するおつもりですか?」
「隠しても仕方のないことだ。お前も、治療を終えたら医務室にきてくれ」
 シドはおやおや、という目でジンシンスを見た。
「この船の実態・・を知ったら、死にたくなるんじゃありませんかね」
「この子供が自死を選ぶなら仕方がないが、少なくとも今ではない。黙って仕事にかかれ」
 ジンシンスは冷ややかにいった。
「仰せの通りに、閣下」
 シドは慇懃いんぎんにお辞儀すると、流血おびただしい怪我人たちが呻吟しんぎんする、殆ど野戦病院と化した食堂に向かっていった。