異海の霊火

1章:異海 - 2 -

 愛海は、意識を取り戻したとき、すぐには状況を把握できなかった。
 薄暗い視界のなか、見知らぬ景が通り過ぎていく。けれども歩いている感覚はなく、全身がだるくて、芯から冷え切っている。
 木材と湿った帆布はんぷ瀝青れきせい蜜蝋みつろう鯨油げいゆの匂い……それから、柑橘のいりまじった、甘くて新鮮な海の匂いがする。いい匂い。何の匂いだろう?
 顔をあげると、神秘的な碧い瞳と遭った。
 薄闇のなか、光彩を放つ碧い双眸が際立って見える。
 なんて美しい瞳だろう――海のように碧い虹彩に、銀色の斑点が浮かんでいる。ここまで明るい瞳は見たことがない。
 どうやら自分は、彼に抱きかかえられているらしい。
「……ぁ」
 喋ろうとしたが、掠れた声がでた。
 次の瞬間、驚くべきことに自分を抱きかかえている男性から、仄碧い霊光があふれでた。
「****?」
 落ち着いた低い美声である。しかし、何をいわれたのか判らなかった。
 壮麗な光彩に気をとられていた愛海は、彼の顔をあらためて見つめた時、その超俗した美貌に息をのんだ。
 繊細で巧緻に整った顔立ちのなか、碧い瞳を縁取る、青い墨と睫毛。真珠の粉をまぶしたような青みがかった肌は、見る角度によってきらめきが変わる。
 まばゆく輝く青い頭髪は腰まであり、それも純粋な青色ではなく、青銀や薄青、明るい碧と、いくつもの海水青色かいすいせいしょくがいりまじって、光の加減で色合いが美妙に変化する。
(え? 何? どうなっているの?)
 自分はなぜ、半裸の男に抱きあげられているのだろう?
 そう、彼の上半身は裸だ。まじないめいた青い墨が顔やがっしりした肩、たくましい腕に入っている。しかも、時折動いている・・・・・
「****」
「すみません、言葉が……きゃあっ」
 丸い舷窓げんそうの向こうがぴかっと光って、思わず身を強張らせた。
「*****」
 彼はなにか慰めの言葉を囁くと、愛海をぎゅっと抱き寄せて、恐らく海栗うにのように爆発しているであろう短髪にキスをした。
 男性にそんな風に触れられたことのない愛海は、一瞬すべてを忘れて、未知の恍惚感に浸された。
 ――自分は夢を見ているのだろうか?
 この不思議なひとは、まさしく夢のなかに見る神の御姿のように、俗界離れしている。
 第一、夢でなければ説明がつかない。
 公園の沿道を歩いていたはずなのに、丸く並んだ舷窓げんそうの向こうに、涯際がいさいもない海が広がっているのだ。
 そのとき、愛海の脳裏に、巨大な竜巻に飲みこまれた記憶が鋭く蘇った。
(――どういうこと? どうして私、生きているの? このひとが助けてくれたの?)
 凄まじい嵐に見舞われて、躰が宙に浮きあがり、かと思えば極寒の海へ落ちたのだ。無事でいられるはずがない。
 答えを求めて青年の顔を仰ぎ見たが、彼は前だけを見据えて、迷いのない足取りで歩いていく。
(どこに向かっているのだろう?)
 己の視界がこれほど高いのは、彼がとても長身だからだろう。もしかしたら、ニメートル近くあるのかもしれない。長い手足にしなやかな筋肉をまとっている。
 不意に、力強い腕と大きな手に抱きかかえられていることを意識して、愛海は顔が熱くなるのを感じた。往年の赤面症が発火しないよう、素数をかぞえながら、心を鎮めようとする。
 そんな乙女心など知るよしもなく、彼は無表情のままに、目的地と思わしき清潔な部屋に入った。
 どこからか小型のポンプが低い唸り声を発していて、かすかに薄荷はっかの匂いがする。
 ここは医務室だ。
 優しい蜂蜜色の壁紙が貼られており、正面の細長い窓から、漆黒が覗いている。
 壁に丸鏡がかけられていて、その隣に名札と真鍮の把手のついた、木製の引きだしが並んでいる。それから硝子戸のついた大きな薬品棚が二つあり、各種の液体、軟膏、粉類の入ったフラスコや瓶や硝子容器がきっちり並んでいる。
 これらのあらゆる調度が壁に螺子で固定されているのは、船の傾きでめちゃくちゃにならぬ為の配慮だろう。
 愛海は、ゆっくりと慎重な手つきで寝台におろされた。隙間風を防げるように、天井から錦紗の垂れ布がさがっている。
「ありがとうございます」
「******」
 謝意が通じたのか、ジンシンスが薄く微笑する。碧い瞳でじっと愛海を見おろし、儀式めいた仕草で両手を組んだ。
「***、*********……」
 言葉を紡ぐのにあわせて、青い光が揺らめく。光は愛海の周囲を漂い、やがて愛海のなかに吸いこまれた。
「ぅわっ、何?」
「俺の言葉が判るか?」
 愛海は驚きに目を丸くした。
 彼の発した言葉は、英語とも違う、聞いたことのない異国の響きであるのに、なぜかその意味を理解できる。
「……判ります」
 自分が発した言葉もまた、日本語とは異なる言語だった。
「名前は?」
「愛海です」
「マナミ?」
「はぃ……」
 寒くて歯がかちかちとなりそうになる。それを見た青年は、神秘としかいいようのない力で、暖かな風で愛海を包みこんだ。
「うわぁ、温かい……すごい……乾いている」
 髪も服も、一瞬で乾いてしまった。
 しかし乾いたところで肌寒いことに変わりはない。こんなにも寒いのに、彼は上半身裸で平気なのだろうか?
 疑問に思った次の瞬間、はっとなった。きっと愛海を助けるためにこのような薄着になっているのだと思い至り、申し訳なさがこみあげた。
「ごめんなさい、ご迷惑をおかけして」
「マナミ?」
 男は首を傾げてから、愛海の顔を覗きこんだ。
「……瞳のなかに、夜が広がっているみたいだな」
「えっ」
 あまりにも熱心にじっと見つめられて、愛海はそっと視線をそらした。
「……ぁの、貴方は、一体……?」
「俺はジンシンス。見ての通り海底人だ」
 不得要領に頷く愛海を見て、碧眼がふっと和む。その表情がどきっとするほど魅力的で、優しくて、愛海は今度こそ往年の赤面症が顕れるのを感じた。
「おい、どうした? 顔が真っ赤だぞ」
 案の定、ジンシンスに指摘された。しかしからかうようなものではなく、こちらを案じているようだった。
「すみません、すぐに顔が赤くなるのです。どうか気にしないでください」
「熱病か?」
「いえ、違います。赤くなる体質なんですぅ」
 両手に赤面を沈めると、大きな手に、手首を掴まれてはずされてしまう。愛海はさらに紅くなって視線を泳がせるが、ジンシンスは手を離してくれない。
「ふむ……お前、年は幾つだ?」
 赤面を鎮めるのに気をとられていた愛海は、質問を聞いていなかった。ごまかすように小首を傾げると、その仕草が幼く見えたのか、ジンシンスは優しい手つきで愛海の短い髪を撫でた。
「ぇっ」
「年だよ。年齢。判るか? ……人間・・だと、とおくらいか?」
 愛海は、髪を撫でられている衝撃が強すぎて、否定するのを忘れてしまった。
 沈黙を肯定と解釈したジンシンスのなかで、愛海が幼い子供に位置づけられた瞬間である。
「それにしても随分と痩せているな。どれくらい漂流していたんだ?」
「……すみません、自分でもよく判らなくて……」
 一体何がどうして極寒の海に落ちて、こうして無事でいられるのか、まるで判らない。
「暴風に煽られて……あっという間に海に落ちて、溺れて、それから記憶があやふやで……ジンシンスさんが助けてくれたのですか?」
「そうだ。危ないところだったぞ、俺でなければ気がつかなかっただろう」
「ありがとうございます。おかげで助かりました」
 うん、とジンシンスは頷いた後、ぱっと扉の方を振り向いた。愛海も彼の視線を追いかけて扉を見、ぎょっとなった。
 こちらを物珍しげに眺めている男たちが、五、六人顔を並べている。ジンシンスのような青い肌の人間は一人もおらず、白や黒、日焼けした褐色の肌をしている。長身巨躯のいかにも無頼漢といった風情で、顔はおびただしい髭に覆われており、しかも膝のあたりまである深靴ふかぐつを履いて、毛皮のついた防寒服で一回り膨れて見えるから、まさしく熊みたいだ。
「ついてねぇなぁ、坊主・・。よりによって、こんな海のど真ん中に喚ばれる・・・・なんてよぉ……」
 船乗りのひとりが、底意地の悪いにやにやした目つきでいった。
(ぼうず? ……坊主!?)
 愛海は衝撃のあまり返事を忘れた。
 しかし、男に間違われたのも無理はないとすぐに思い至った。
 というのも、愛海は今、殆ど坊主頭に近いくらい髪が短いのだ。
 縮れ毛を気に病む愛海は、髪を丸刈りにするとくせ毛が改善される……という嘘か本当か判らぬ情報をネットで見かけて、藁にもすがる思いで試してみたのだ。不登校の引きこもりで、級友に顔をあわせることもないからと、一週間前に髪を切ったばかりだった。
 服装も、だぼっとしたジーパンにパーカー、ダッフルコートで男みたいな恰好をしている。コートを脱いだとしても、体型から女と判らないかもしれない。胸の膨らみは涙がでそうなほどささやかだし、補正のないスポーツブラを着用しているので、ほぼまな板状態だ。
(でも……訂正した方がいい……?)
「あの、この船に女性はいますか?」
 愛海がおずおずと訊ねると、無頼漢たちは、そろって下品な笑いをこぼした。
「阿呆か、小僧・・死刑囚・・・を乗せた討伐船・・・だぞ。女を乗せるわけがなかろう」
 愛海は真っ青になった。
「よせ、ここには近づくな。お前たち、後甲板にいって暴風時用斜けた帆を見てこい。もう少しまともに船を前進させろ」
 ジンシンスは低く、威嚇するようにいい放った。
 そのように傲然ごうぜんとした態度で罵倒されないかと愛海は心配になったが、男たちは反駁はんばくもせず、それどころかアイサーと返事をして解散してしまった。
 静かになると、ジンシンスは愛海を見下ろした。緊張感に愛海の躰が強張る。
 決して可憐とはいえない上目遣いだが、頼りげなく見えたのか、ジンシンスは男どもに向けた視線とは打って変わって、優しい微笑を浮かべた。
「大丈夫だ、俺がついている」
「……ありがとうございます」
 愛海はぎこちなく礼をいった。
 無数の疑問符が脳裏を飛び交っていた。先ほどの男は、死刑囚といった? 討伐船? この船には女性が一人も乗っていないのだろうか?
(……女だと思われない方がいいかもしれない)
 自意識過剰といわれようが、女だと明かすことに身の危険を覚えてしまう。
 どうやらジンシンスは、男たちを統括する立場にあるらしく、今のところ親切にしてくれるが、用心に越したことはない。
 若干の後ろめたさを覚えながら、愛海は、己の性別の誤解をひとまず放置することに決めた。