異海の霊火

1章:異海 - 3 -

「あの、さっき男の方が、死刑囚を乗せた討伐船といっていたのは、どういう……?」
 愛海が恐る恐る訊ねると、ジンシンスは答えるのを少し躊躇った。しかし、すぐに瞳に決意の光を灯した。
「悪いが、あまりいい話じゃない。子供に話すのは少々気がひけるが、全部話すぞ」
「お願いします」
 愛海も覚悟を決めて、姿勢をただした。
「この船は大陸から三千海里離れた混淆こんこう海域を、少なくとも五〇〇日間漂流している。港に引き返したくても、今は不可能だ」
 愛海は神妙な顔で頷いた。漂流という不吉な言葉が耳に残ったが、ともかく最後まで話を聞こうと心胆を整える。
仕事・・を終えて混淆こんこう海域を脱したら、霧も晴れて順風満帆で寄港できるだろう。悪いが、それまではつきあってもらうぞ」
「あの、コンコウ海域って何ですか?」
 ジンシンスは驚いた顔になった。
「知らないのか?」
 愛海は当惑した顔で頸をふった。はてしなく嫌な予感がする。それはジンシンスも同じようで、奇妙な顔つきになった。
「お前は大陸出身だろう? さっきのすごい訛り・・は、北部出身じゃないのか?」
「いえ、大陸というか、日本という島国なのですが」
「ニホン?」
「はい。日本の首都、東京出身です」
「知らないな……島ってどこだ? 大陸の植民地か?」
 愛海は首を振った。不安のあまり身体が震えてくるのを感じた。
 彼は心配そうな顔つきになり、寝台に腰かけて愛海の手を優しく握りしめた。
 愛海の心臓が高鳴る。
 大きな手は、ひんやりと心地よく、男性的で美しい。長く骨ばった指に、青玉と黄金細工の指輪がはめられている。そういえば首にも、同じ青玉と黄金細工の豪奢な首飾りをつけている。
「そんなに不安そうな顔をするな。俺は海底人だ。海洋には通暁つうぎょうしている。ニホンという島国も、調べられるかもしれない」
 彼は愛海を脅かさぬよう、ゆっくりと手を伸ばして、髪に触れた。ごわごわして手触りはよくないだろうに、愛おしげに愛着をもって撫でるので、愛海は状況も忘れて赤くなった。
「……ありがとうございます。あの、ジンシンスさんの出身はどちらなのですか?」
「アイオタトラ海底王国だよ。といっても、マナミは知らないだろう」
「はい、すみません。知らないです」
 愛海は首を振った。
「謝ることはない。俺たちは人間と殆ど交流しないから、大陸の人間も、海底王国を迷信のたぐいだと思っているくらいだ。しかし、どこから説明したものか……」
 ジンシンスは呻くように呟いた。
 愛海もまったく同感で、何から質問すればいいかも判らなかった。
 途方に暮れた沈黙を破ったは、彼の方が先だった。
「……よし、最初から説明しよう。突拍子もない話に聞こえるかもしれないが、まぁ、聞いてくれ」
「お願いします」
 愛海が神妙に頷くと、ジンシンスはくすっと笑った。
「マナミは礼儀正しいんだな」
「え?」
「控えめで、大人しい小動物みたいだ。ここにいる連中より、よっぽど紳士・・でいい」
「いえ、そんな……」
 微妙な気持ちで謙遜する愛海を、ジンシンスは数秒ほど好ましそうな眼差しで見つめてから口を開いた。
「今からおよそ四年前、突然、大洋に旧神が顕れた。旧神は次元の扉を開き、様々なものを呼びこむと同時に、商船や旅船を消失させるのだが……この話も知らないか?」
 愛海は今度も頸を振った。
「知りません」
「そうか……それで、各国の指導者は旧神を倒そうと、次から次へと討伐船を送りこんだが、全員死んだ」
「えっ……」
「嵐、餓え、病気、次元の彼方に消えたり、或いは次元から顕れた魔物に襲われたりと、理由は様々だ。そのうち目にする機会があるかもしれないが、旧神のに精神を侵されて、自死する者も多い」
 蒼白になる愛海を見て、ジンシンスは悪いと侘びた。
「詳細は省こう。俺の故郷では、旧神は信仰の対象なんだ。だから旧神が顕れても静観していたのだが、人間どもは海に押し寄せ、好き勝手に爆雷や大砲を放ち、海を汚しまくる。静観に堪えきれず、俺は海底王国の代表として人間の王と交渉した。旧神を異界へ送り還すから、これ以上討伐船をよこすなと約束させたんだ。ここまではいいか?」
「ええと……旧神とは、どのような存在なのですか?」
「原初の神の一柱ひとはしらといわれている。異次元に通ずる存在で、この世界にあるものないもの、無差別に喚びだしている。建物、生物、形状もしゅも様々だ。恐らくマナミも、旧神に喚ばれたのだと俺は思う」
「え……」
 呼吸の浅くなる愛海を見て、ジンシンスはため息をついた。
「……旧神については謎が多い。なぜ顕れたのか、なぜ異次元を繋げるのか、意思疎通はできないから、推論するしかない。酷なことをいうが、マナミがもし全く別の次元から顕れたのだとしたら、戻る手段はないと思った方がいい」
「そんな……」
「俺は海の続くかぎりはどこへでもいけるが、次元を越えることはできないんだ。旧神なら可能かもしれないが、我々の意思を汲み取ってくれるような存在ではないんだ」
 愛海は口を手で覆い、唇を噛み締めた。もうこれ以上は無理――聴きたくない――瞳に力をこめて、首をゆっくり左右に振る。
 ジンシンスの瞳に憐れみの光が宿るのが判った。
「……参ったな」
 独り言のように呟いて、中途半端に手を伸ばした。愛海を慰めたいような仕草に見えたが、触れていいものか、躊躇っている様子だった。
「わた……僕は、黒い渦に飲みこまれました。くることができたのだから、帰ることもできないでしょうか?」
 藁にもすがる思いで、愛海は訊ねた。
「それを検証できたらいいが、極めて絶望的としかいいようがないな。旧神に近づくだけでも命がけだ。人間は特にだが、旧神の声に精神を侵されやすいんだ」
「どういうことですか?」
「旧神は、相手に自分を外敵と思わせないよう、意識化に働きかけてくる。だから人間は山と武器を積んでいながら、いざ旧神を前にすると無抵抗に近づいていってしまう」
「そんな……」
「海底人は人間ほどやわ・・じゃないが、それでも命がけだ。俺にできることは、一刻も早くこの世界から接続を断つことだ。実のところ、それさえも成功するかは五分といったところなんだが」
「……」
 愛海は項垂れた。
「すまない、こんな話しかできなくて……」
 かろうじて残った自制心で、愛海は頸をふった。説明を聞く限り、愛海がここにいるのは、ジンシンスのせいではない。彼の話が本当なら、人智を超えた旧神にる天災なのだから。
「……接続を断つというのは、どうやるのですか?」
「“ふたつ貴石”を使うのだが、そのうちの一つが今、行方不明でな」
「え……」
神代かみよの古来より海底王国に伝わる秘宝で、そのうちのひとつを、父王の指示で人間にあずけたんだ。俺の乗るこの船と、人間の戦艦で共に混淆こんこう海域を目指し、旧神に接触するはずだった。ところが戦艦が行方知れずときた」
 それは絶望的なのでは……愛海の顔を見て、ジンシンスは重々しく頷いた。
「おそらく旧神の出現によって、異次元に飛ばされたのだろう」
「じゃあ、二度と戻ってこないんじゃ……」
「いや。“ふたつ貴石”は引力が働くんだ。片方はまだ俺が持っている。混淆こんこう海域で待っていれば、戻ってくるはずだ」
 ジンシンスは首飾りの中央から垂れさがる、黄金の碇を指でつまむと、ロケットペンダントのように左右に開いて見せた。
 なかに、艶やかな黒真珠が入っている。彼はそれを指でつまんで掌に乗せると、愛海に見せてくれた。
「“ふたつ貴石”のひとつ、黒貴石だ。マナミの瞳と同じだな」
 愛でるような眼差しで見つめられて、愛海は赤くなる。
「もうひとつの白貴石とあわせて使うと、地上を洗うほどの大津波を起こせる。それだけの衝撃があれば、海底から隆起しているがごとく旧神も、宙へ浮かすことができるだろう」
 愛海は黙りこんだ。そろそろ思考回路が故障しそうだ。この艶やかな石がふたつあると、大津波を起こせる? 一体どうやって? 魔法で?
 ……しかし実際、彼の摩訶不思議な力で、このように言葉を理解し、濡れた愛海を瞬時に乾かしてもくれた。異海の海底人とは、そのような神秘を操れるのかもしれない。
 ジンシンスは碇のペンダントに黒貴石をしまうと、気遣わしげに愛海を見た。
「疲れただろう。腹は空いているか?」
 愛海は力なく頸をふった。ここへくる前は夕方だったが、食欲は消え失せていた。
 と、そこへ医者と思わしき初老の男が部屋に入ってきた。白い前掛けに血がついているのを見て、愛海の顔が緊張に強張る。
「そんな格好で入ってくるな」
 ジンシンスが呆れたようにいうと、医者は今気がついたという様子で、前掛けをはずした。良い身なりをしている。すべすべと髭のない白い肌をしており、灰銀髪はきちんと整えられている。黒革の深靴ふかぐつに金釦の並んだチョッキ、紫色のネッカチーフを襟にさして、青い梳毛そもうの仕立てに身を包んでいる。船乗りというより、腕利きの法律家のような風体だ。
「これは失礼、治療をしていたものでね。そちらの子供は目が醒めたようですね」
「マナミだ。お前、ニホンのトーキョーって知っているか?」
「いいえ。何ですか、それは?」
「マナミの出身地らしい。俺も聞いたことがなくてな。もしかしたらマナミは、旧神に喚ばれて異次元からきたのかもしれない」
「おやおや……」
 医者は片眼鏡を指で押しあげ、愛海を見つめた。
 白蝋はくろうめいた顔は年齢不詳で、五十といわれればそうだし、叡智を宿した瞳からはさらに年嵩としかさにも見える。
 血のついた前掛けにはぎょっとさせられたが、医者の存在たるや偉大で、愛海に深い安堵をもたらした。
「脚頸を痛めているんだ。診てやってくれ」
 彼の言葉に、医者は、おや? という顔をした。愛海自身も今気がついたように脚を見た。右脚の靴はどこかへいってしまっている。靴下をはいている状態でも、腫れていることは一目瞭然だった。
「脱がせますよ」
 医者は断ってから、丁寧に靴下を脱がせた。慎重な手つきだったが、じんとした痛みがはしり、愛海は思わず顔をしかめた。
「失礼。腫れているが、骨は折れていないようだ。捻挫だろう。脚を動かさなければ、十日くらいで完治すると思うよ」
「はい……」
「ずいぶんと華奢な骨格だな……ずっと痛みを我慢していたのか?」
 ジンシンスに頭を撫でられ、愛海は恥ずかしそうに俯いた。
「いえ、動かさなければ痛みがないので、気がつきませんでした。ここまで運んで頂いて、ありがとうございます」
 おずおずと礼を口にすると、ジンシンスは優しくほほえんだ。
「この子に、何か眠れる飲み物を用意してやってくれ」
 ジンシンスの言葉に、医者はまたしてもちょっと意外そうな顔つきになった。
「判りました。入眠剤代わりに暖かい飲み物を用意しましょう」
 そういうと彼は、早速準備にとりかかった。薬缶を沸かして、真鍮の容器、酒瓶、それから阿片チンキ等の瓶の入った箱を机に置いた。間もなく湯が沸くと器にいれて、彼の知る絶妙な配分で瓶の中身を数滴垂らしてよくかき混ぜた。
「飲みなさい。気が楽になるから」
 渡された器を、愛海は恐る恐る受け取った。
「ありがとうございます」
 仄かに酒精の匂いがする。お湯割りの阿片ラム溶液は、ほんのりと甘く、飲んだ瞬間から喉が熱くなり、躰のうちからぽかぽかと温まるのを感じた。
「それを飲んだら、眠るといい。船員を近づけないようしておくから」
 きょとんとする愛海を見て、ジンシンスは言葉を躊躇った。
「その……怖がらせる気はないんだが、船員は皆、囚人なんだ」
「しゅうじん?」
「ああ。重罰の死刑囚ばかりだ」
 ぎょっとする愛海を見て、ジンシンスは再び腰を落ち着けて、目を見つめた。
「四年前はいざしらず、今では混淆こんこう海域と聞けば、海賊もお宝を捨てて逃げだすといわれているくらいだからな。志願する船乗りはいないんだ」
 愛海は蒼白になった。
「……それじゃあ、この船にいる人たちは、無理やり船に乗せられたんですか?」
「私は望んで乗ったがね」
 医者の言葉に、愛海は目を瞬いた。ジンシンスの顔を見ると、彼は言葉を探しながら口を開いた。
「……国は深刻な人手不足を、捕虜や懲罰兵、第一級犯罪者たちで補うことにしたんだ。額に烙印のある者は死刑囚だ」
 思わず愛海は、ジンシンスの額をじっと見つめた。額に紋様はないが、彼の肩や腕には神秘的な光を放つ紋様がある。
 意味深長な眼差しを受けとめて、ジンシンスはくすりと微笑した。
「俺は違う」
「すみません……」
 次に愛海は医者を見て、ぎくりと強張った。額に黒い烙印がある。すると医者までもが悪戯めいた光を目に灯した。
「私は死刑囚だが、君に危害を加えるつもりはないから、安心しなさい」
 柔和な笑みを見る限りは、とても重罰を犯した人には見えない。愛海の願望かもしれないが、なぜ死刑囚の烙印を押されているのか不思議なくらい、穏やかで誠実な人に見えた。
「最近は人を殺していないのだよ。そんなことをしなくても、ここの連中は勝手に死んでいくからね。私にとっては、解剖被検体に困らない、実にいい職場だ」
「おい、黙れ」
 ジンシンスが恐ろしく低い声で静止した。
 医者に対する、穏やかで誠実という印象は、目の錯覚だったかもしれない。
「……お世話になります」
 ぎこちなく愛海が会釈をすると、男ふたりは小さく笑った。
 ジンシンスは席を立つと、
「ゆっくり眠るといい。朝になったら様子を見にくるから」
 そういって彼は身を屈めると、ひんやりとしたくちびるを愛海の額につけた。
「いい夢を。お休み」
 びっくりするくらい優しい表情でいった。
 愛海は真っ赤になってしまい、とても言葉を返せなかった。シドも意外なものを見る目でジンシンスを見ている。さっきから薄々感じていたが、もはや気のせいではなく、愛海は、どういうわけか、この超俗した美貌のひとに甘やかされている。
 呆然としている間に、扉は静かにしめられた。
 部屋にひとりきりになっても、愛海の心臓はしばらく暴れていたが、次第に落ち着いて、壁にかけられた八角時計のカチコチという一定の音が響くほど静まり返った。
 怒涛の展開をどうにか整理しようと試みたが、意識はすぐに曖昧模糊あいまいもこに溶けた。
 疲労困憊こんぱいにあいまいって、温かい飲み物と穏やかな波による、揺籃ようらんの眠りに誘われたのだった。