異海の霊火

1章:異海 - 4 -

 愛海は、てのない波間を漂っていた。
 目の前にはばくとした大海原が拡がっている。押し寄せる波の音……全身が痺れるような倦怠感に抗い、なんとか助けを求めようとする。しかし、もがく手足はままならず、唇からも呻きともつかぬため息が漏れただけだった。
 誰かの手が伸びてきて、愛海の額にひんやりした掌を押し当てた。
 その瞬間、模糊もことしていた意識は、いくらか明瞭になった。瞼の向こうに、柔らかな光を感じる。たゆたう波間の揺れも収まり、背中のしたに感じるのは、ふかふかとした柔らかな感触だ。
「……目が醒めた?」
 穏やかで、気品を感じさせる深みのある声が聴こえた。
「気分はどうだ?」
 愛海は、重いまぶたをどうにかもちあげようとした。視界に明りがちらつき、瞬きをすると、ぼんやりとした人影は焦点を結んだ。
 美妙なる海水青色かいすいせいしょくの髪をした男が前屈みになり、愛海の顔を覗きこんでいた。
「えっ?」
 愛海がびくつくと、彼も少し驚いたように身を離した。
「大丈夫か?」
 海のように明るい、碧い双眸が気遣わしげに愛海を見ている。
 ジンシンスを認めた瞬間、愛海の脳裏に、昨夜の記憶が鋭く蘇った。
(夢じゃないの?)
 感情が麻痺しているみたいに、不思議なほど心臓は落ち着いているが、この状況が絶望的であることは理解していた。
 ――昨日、図書館からの帰り道に正体不明の渦に巻きこまれて、海に堕ちたのだ。
 千尋ちひろの海底に沈んでいくところを、ジンシンスの船に拾われたものの、日本に帰るのは絶望的で、寄港の目途も立っておらず、謎の怪物と対決するために危険な海域を漂流していて、船員は全員男、しかも重罪の死刑囚ばかり――これ以上に最悪な状況があるだろうか?
「どうした、どこか痛いのか?」
 気遣わしげに訊ねられ、愛海は目を二度瞬きをした。ぎこちなく頸を振る。
「そうか」
 ジンシンスは温かみのある微笑を浮かべた。
 超俗した美貌に、神秘的な薄青の仄燦ほのきらめく肌、澄み透った碧い瞳の輝きといい、彼は海の精霊みたいだ。
 そして今判明したことだが、昨日は愛海を助けるために薄着だったわけでなく、平時から薄着らしい。真冬のような寒さのなか、上半身は裸である。
 昨日と違う点は、肩に装飾的な防具を着用しており、きらめく水晶が宙に浮いている(理屈は不明だが、本当に宙に浮いている)。あとは昨日と同じで、紺地の細身の下衣に、装飾的な帯を巻きつけ、短剣や細身の剣をいている。美しい見栄えだが、革も金具も使いこんだ風合いがあり、装飾品というより現実的な武器に見える。
「よく眠れたか?」
 そっと髪を撫でられ、彼に魅入っていた愛海は我に返って、視線を彷徨わせた。
 仄かに漂う薄荷はっかの匂い。波の音……窓の向こうは曇り空で、淡い真鍮色の陽光が、医務室を照らしている。
 天井から吊るされた錦紗の垂れ布は、寝台のわきに束ねられていて、傍机には、水の入ったフラスコ瓶が置いてある。
 壁に具えつけられた古風な衣装掛けに、愛海の着ていた濃紺のダッフルコートがかけられている。
 急に自分が見知らぬ寝台に仰臥ぎょうがしていることが気恥ずかしくなり、起きあがろうと試みたが、実際には殆ど動けなかった。
(あれ?)
 ありったけの力を振り絞って、肘をついて起きあがろうとしたが、力が入らない。全力で泳いだあとのような、凄まじい倦怠感に見舞われている。
「無理をするな。熱があるんだから、ほら」
 ジンシンスの手を借りて、愛海はクッションにもたれ、差しだされた真鍮の杯を両手で持つことができた。
「ぁ……」
 お礼をいおうとしたら、第一声が掠れていて、水を飲みほしてから咳払いをして声を整えた。
「ありがとうございます」
 きちんと礼をいったつもりだが、実際には、酷く頼りない声だった。
「これも飲んで。解熱効果のある薬茶だ」
 愛海は頷いた。なんだか思考がふわふわしていて、いわれるがままに、今度は白鑞しろめの杯を受け取った。
「砂糖を入れてあるから、そんなに苦くないぞ」
 まるで子供にいい聞かせるような口調だ。愛海が飲み終えると、よく頑張った、というように愛海の髪に触れる。あまりにも慎重で優しい手つきなので、愛海は状況も忘れて赤くなった。
「顔が赤いな」
 受け取った杯をサイドテーブルに置きながら、ジンシンスが事実を述べた。
「すみません、赤面症なんです」
「熱があるせいだろう」
 愛海はいつもの癖で否定しかけたが、今は確かに熱があるのだと納得した。
「ほら、横になれ。氷嚢ひょうのうを置いてやる」
 彼は医療棚から器具を取りだすと、愛海の枕元に台座を設置し、袋状のゴムに、魔法としかいいようのない力で、氷と水を入れた。
「すごい、手品みたい」
 愛海が呟くと、ジンシンスはくすっと笑った。口金で水袋を留めながら、
「手品ではない。魔術だ」
 支柱に氷の入った袋をぶらさげて、角度を調節しながら、慎重に愛海の額に乗せてくれた。
 初めて目にした古風な器具は、素晴らしかった。ひんやりとした心地良さが、額から頭全体に広がり、苦しみを癒してくれる。
「ありがとうございます。とても気持ちいいです」
「そうか」
「……あの、嵐はもうおさまったのですか?」
「ああ、もう大丈夫だ。しばらくはなぎだろう」
「船は壊れていませんか?」
 ジンシンスは口角をもちあげてみせた。
「問題ない。旧時代の骨董船だが、あれこれ手を加えてあるからな。嵐にやられたりしないさ」
「そうですか……」
 そこで会話が途切れた。
 そっとジンシンスを盗み見ると、神秘的な青い瞳と遭った。彼も愛海を観察していたようだ。慌てて視線を逸らしながら、彼について考えてみた。
 アイオタトラ海底王国というのは、もしかしたら、地球にあるのだろうか?
 人間が挑める海底深度には限界がある。幾千尋いくちひろに人類未踏の地があっても、不思議ではない。
 人生何が起こるか判らない。突如大洋に巨大な怪物が顕れることだって、あるかもしれない。
 ――あるわけがない。
 どう楽観的に考えても、ジンシンスのいう旧神は、地球外の存在だ。
 となると愛海は、映画や小説みたいに、地球とは全く別の世界に脚を踏み入れてしまったのだろうか?
 そんなことが本当に起こりえるのだろうか?
 よりによって、愛海の身に?
 考えていると胃がじっとりと重くなり、目を開けているにも関わらず、視界が真っ暗になっていくように感じられた。
「しばらくは、ここで治療に専念するといい。歩けるようになったら、船のなかを案内しよう」
 彼の言葉に、ふたたび視界に光が射した。
「ご親切に、ありがとうございます」
 その時、扉をノックする音がした。ジンシンスが返事をすると、医者のシドが入ってきた。今朝も紳士然とした隙のない恰好をしている。
 彼は、寝台に仰臥ぎょうがする愛海とジンシンスを見て、ちょっと意外そうな顔をした。しかしすぐに近づいてきて、
「お早う、気分はどうかね?」
 優しい笑みで挨拶を口にした。
「お早うございます。ちょっと、だるくて……」
「ふむ」
 シドは医者の眼差しで、愛海の顔を観察した。
「今解熱剤を飲ませたところだ」
 ジンシンスがいうと、シドは何か愉快なことでもあるのか、口角をもちあげた。
「どれ、足をみせてごらん。横になったままでいいから」
 いわれた通りに愛海が脚をシーツからだすと、彼は慣れた手つきで湿布を交換してくれた。それから水と錠剤を渡された。
「これを飲んで。予防薬だよ、海の病気にかからないようにね」
 ジンシンスが身を起こすのを助けてくれた。
「ありがとうございます」
 愛海が飲み干すと、シドは真鍮の器を受け取った。
「今日は安静にしていることだ。私は他の患者を見てくるよ」
 そういって医者が扉を開くと、無数の男たちが顔を並べてこちらを見ていて、愛海はぎくりとなった。
「ひっ」
 思わず肩を縮こめる。ジンシンスは扉に向かって怒鳴った。
「おい! お前たち、ここへくるんじゃない。仕事をしろ!」
 船員がぱっとかき消えると、医者は肉の薄い肩をすくめてみせた。
「やれやれ。しばらくマナミは医務室をでない方が良さそうだね。後でまた様子を見にくるよ」
「はい……」
 扉が閉まると、再び平穏が戻ってきたが、心臓はまだどきどきしていた。愛海が怒鳴られたわけではないのだが、他の人は船の仕事をこなしているのだと思うと、自分だけ休んでいることに後ろめたさを覚えてしまう……
「どうした?」
 ジンシンスは気遣わしげに愛海を見つめると、頭を撫でた。出会ってからの短時間で、定着しつつある仕草だ。
「すみません……ご迷惑をおかけして」
 愛海は赤くなりながら、ぺこっとお辞儀をした。
「別に迷惑じゃない」
「本当にありがとうございます」
 愛海は淡い笑みを浮かべて、精一杯のお礼を口にした。
 この状況に愛海は心底困っているが、戸惑っているという点では、ジンシンスも同じだった。
 幼子というには大人びた頼りげない風情に、ジンシンスの胸は妙にざわつく。愛海をいとけない少年だと思っている彼にとって、それはとても後ろめたく思えた。
(おいおい……俺はいつの間に耽美主義に目覚めたんだ? 男しかいないからか?)
 笑止千万。馬鹿げた考えを意思の力で振り払った。この哀れな少年には、救いの手が必要なのだ。よこしまな念など挟む余地もない。
 この時、妙だと思いながらジンシンスが愛海を少年と思いこんだのには、理由がある。
 少年と見まごう平らな胸とズボンを履いていることも理由の一つだが、何といっても、女性が短髪でいることが彼の常識からは考えられなかったからである。
 同族は特にそうだが、大陸でも修道女ですら肩で揃える程度で、うなじがでるほどの単髪は、男の召使がする髪型なのだ。女性では先ずありえなかった。
 よって、彼はにわかに沸いた疑問をねじ伏せ、愛海は少年だと決着する。この先入観は、以後、ジンシンスのなかに根強く残ることになるのだった。