異海の霊火

1章:異海 - 5 -

 それからの三日間、分厚い白豹しろてんと毛布にくるまれた愛海は、新生児のように丸まって、眠っては目を醒まし、目を醒ましては眠った。
 体調は不安定で、熱があがったと思えばさがって、一進一退の攻防を繰り返した。
 その間も船は中檣帆トップスルを張ったまま霧と氷雨のなかを進み、囚人船乗りたちは、船腹にこびりついた氷片をもりや木槌で削ぎ落としていた。
 ごりごり、がりがり……眠っている愛海の耳にも、独特の鈍い音が時折聴こえていた。
 船は大きく傾くこともあり、のちに酷い船酔いに見舞われるのだが、この時は頓着していなかった。高熱で衰弱したくびきからしばし解き放たれ、在りし日の記憶を漂い、時にはらちもない妄想を彷徨った。
 そして目が醒めるたびに、思念は磁石に吸い寄せられるが如く、極寒の混淆こんこう海域に引き戻された。
 四日目の朝になると、ようやくまともに起きあがることができた。
 様子を見にやってきたジンシンスは、上半身を起こしている愛海を見て、ほっとしたように表情を緩めた。
「お早う。調子はどうだ?」
 神々しい、美貌の海底人が愛海に笑みかける。
「おかげさまで、だいぶ良くなりました」
 赤面が生じるのを覚えながら、愛海も笑み返した。この数日間、彼は本当に良い看護人でいてくれた。出会って間もない異種族の青年に、愛海は全幅の信頼を寄せるようになっていた。
「そうか、顔色も明るんだようだな。何か食べるか?」
「……はい」
 薄い腹を押さえて、愛海は消え入りそうな声で頷いた。これまで汁しか口にしていなかったので、空腹で、今にも倒れてしまいそうだ。
「すぐに用意しよう」
 そういって彼は優しくほほえんだ。部屋をでていき、間もなく真鍮の盆を手に戻ってきた。
 盆には、湯気のたつ粥の入った器と、果物、それからプティングの入った小さな壺が乗っている。いい匂いがして、愛海の空腹をいたく刺激した。
「食べられる?」
 愛海は頷いて匙を受け取ると、震える手でどうにか粥をよそうとした。が、ポロッと手から落ちた。そのまま床に落ちるかと思われたが、ジンシンスは素晴らしい反射神経で空中でそれを掴んだ。
「ごめんなさいっ」
 愛海は自分の失態に顔が熱くなるのを感じた。
 恥じいるように答えた愛海を見て、ジンシンスの胸は痛んだ。この子供は痩せた躰の哀れな幼獣を思わせる。今すぐに腹いっぱい食べさせてやりたい衝動に駆られ、匙を持ち直した。
「手伝おう」
 匙に粥を小さく載せて、愛海の口元へ運んだ。愛海は瞳を大きく見開いて、真っ赤になっている。黒い瞳に照明がうつりこみ、星のようだとジンシンスは思った。
「あの、自分で食べられます」
「遠慮するな。美味しいぞ、ほら」
 なるべく優しく声をかけると、愛海はおずおずと口を開けた。粥を口に含んだ途端に、瞳を閉じて小さな呻き声をあげた。あどけない顔に浮かんだ、幸せそうな微笑に、ジンシンスの目は釘づけになった。ごく普通の温めた粥を、この上なく美味しそうに味わっている。
(かわいそうに……かつえているんだな)
 雛に餌を与えるように、ジンシンスは愛海が腹いっぱいになるまで匙を口に運んだ。
 粥を半分ほど食べて終えて、愛海は慎ましく手を膝に置いたが、視線はプティングの上を彷徨っている。ジンシンスはプティングの皿をとって、銀の匙ですくった。
「ほらどうぞ、王子様・・・
 愛海は驚いた表情を顔に浮かべ、おずおずとした笑みを唇に浮かべた。
「ありがとうございます」
 租借しながら、瞳で美味しいと訴える。
 何のてらいもない無垢な微笑が、媚態で迫る女たちよりも遥かに魅力的に見えたため、ジンシンスは内心で驚いた。この時点で、彼のなかで愛海は、哀れな子供から庇護すべき対象に変わっていた。
 ジンシンスはおもむろに手を伸ばし、愛海の髪を撫でた。油と藻屑でごわついた髪の毛が指に触れる。その手を見てジンシンスはつぶやいた。
「……少し綺麗にしないとな」
「ごめんなさい」
 愛海は羞恥の極みで赤面している。
「仕方ないさ。混淆こんこう海域を漂流したあと、そのままずっと寝こんでいたのだから」
 しゅんとなる愛海を見て、ジンシンスはほほえんだ。
「お前は育ちがいいんだな。ここの連中ときたら、ひとがせっかく湯と石鹸を用意してやっても、風呂に入りたがらないんだ」
「なぜですか?」
「さあな。拷問かなにかと勘違いしているのだろう。烏滸おこの沙汰だよ」
 是が非でも風呂に入りたい愛海は、不得要領に頸を傾げた。ジンシンスは黒髪をぽんぽんと撫でると、
「それじゃ着替えを持ってくるから、少し待っていてくれ」
「はい」
 ひとりになると愛海は、苦労して起きあがり、壁に固定された真鍮の縁の鏡を覗きこんで絶句した。
 髪はほつれて鳥の巣のような有様で、頬は幽霊のように蒼白いし、唇は乾燥していておまけに蒼紫色である。病人を通り越して屍人みたいだ。
(うわ……私ったら、こんなに酷い顔をしていたの?)
 この姿をジンシンスに見られたのかと思うと、無償に泣きたくなってくる。指で髪を梳かそうとするが、のりではりついたかのように通らない。
「ばりばりじゃん……」
 暗澹あんたんと落ちこんでいると、銅製の盥と籐籠を持って、ジンシンスが戻ってきた。
「よし、手伝ってやるから、服を脱いで盥のなかに座れ」
「えっ!?」
 愛海はびっくり仰天した。
「わっ……僕、一人で入れます!」
「遠慮するな。その脚じゃ難しいだろう?」
「いえ、そんな! お気遣いなくっ! 気をつけて入りますからっ」
 その慌てっぷりがツボに入ったのか、ジンシンスは声にだして笑った。
「マナミは本当に礼儀正しいな」
 えらいぞと頭を無でられ、愛海は困ってしまう。
「すみません、どうしても一人で入りたいんです。お願いします」
 愛海の必死な様子を見て、ジンシンスは思案げな表情になった。
「……そうか。じゃあ、服を着たままでいいから盥に入れ」
「はい?」
「ほら、入れ」
「はぃ……?」
 愛海は不思議に思いながら、ジンシンスの手を借りて盥のなかにおさまった。
「今から清浄の術をかけるが、暴れるなよ。ほんの数秒、全身が水の膜に覆われるが、すぐに終わる。判ったか?」
「……はい」
「よし。目を閉じて息をとめていろ」
 愛海はいわれた通りにした。
 つぎの瞬間、つま先から良い匂いのする温水に包まれ、頭のてっぺんまで湯に埋もれた。彼の忠告がなければ、きっと混乱に陥っていただろう。ぎゅっと目を閉じて息を詰めていると、数秒ほどで湯から顔がでた。
「目を開けていいぞ」
「……」
 たった今、大量の温水に包まれていたはずだが、跡形もなく消えている。
 そして、確かに服から髪から全身綺麗になったが、ずぶ濡れである。どう乾かすのだろうと思っていたら、彼の掌から仄青い燐光が溢れでると共に、愛海の全身を温かな風が包みこみ、たちまち濡れて肌に貼りついた不快感から解放してくれた。
「すごい、乾いた……」
 目を丸くして身体をぺたぺたと触っていると、ジンシンスはくすっと笑った。
「驚いたか?」
「どうやったんですか?」
「魔術だよ。俺は海の眷属だから、水にまつわる大抵のことはできる」
「すごーい……」
 この船の斬新な排泄設備の仕組みの謎が、少しだけ判った気がする。愛海の常識とは異なる洗浄室や水洗トイレが、船には完備されているのだ。
 尊敬と感激の目で仰ぎ見ると、ジンシンスはほほえんだ。
「総じて人間は魔術を恐れるものだが、お前はちっとも怖がらないな」
「恐れるだなんて。僕にとっては憧れです。素敵な魔術も、ジンシンスさんも」
 愛海はただ正直に感想を述べたのだが、彼が面映ゆそうな表情を浮かべたので、ふいに気恥ずかしくなった。いいわけしたくなるのを、拳を固く握りしめることで堪える。
 幸い、ジンシンスが次の行動に移ってくれたので、気まずさは一瞬で済んだ。
「ほら、着替えだ。寝間着はこっち」
 愛海は頷きながら、清潔なリネンの香りのするシャツ、ズボンとベスト、それから厚手の麻の寝間着を受け取った。どちらも男性の衣装であることに安堵する。
「あの、寝間着に着替えてもいいですか?」
「もちろん」
 愛海は内心で喜んだ。ゆったりした縫製とはいえ、硬いジーパンで寝転がることに辟易していたのだ。
「すみません、見られていると着替え辛くて……」
 ジンシンスはちょっと不思議そうな顔をしたが、すぐに頷いた。
「判った。部屋の外にいるから、着替えたら声をかけてくれ」
「はい、すみません」
 一人になると、愛海はびっこをひきながら、長椅子までたどりついた。スポーツブラのうえから麻布を巻いて締めつける。まな板をさらに絶壁にしてから、寝間着に着替えた。
 着心地は良いが、愛海の躰にはだいぶ大きい。袖を折り返して、何度か裾をまくらなくてはいけなかった。
 脱いだ服を畳んで抱えると、再び寝台に戻ろうと足を踏みだし、うっかり捻挫した方の足に体重をかけてしまった。
「……痛っ」
 この数日で足の腫れは悪化しており、じっとしている分には平気だが、少しでも動かそうものなら激痛が走る。
「大丈夫か?」
 ずきずきする脚を撫でていると、外からジンシンスの声がした。
「はい、着替え終わりました」
 ジンシンスがなかに入ってきた。
「“痛っ”て聞こえたが……」
「すみません。大丈夫です」
「無理するな。手伝おう」
 愛海はジンシンスの手を借りて寝台に戻り、上半身を起こした姿勢に落ち着いた。
「かなり大きいようだな」
 折り返した袖をじっと見つめて、ジンシンスがいった。
「はい。でも、着心地は良いです。ありがとうございます」
「そうか。良かったな」
「はい……何から何まですみません。すっかりお世話になってしまって」
「いいんだ。これからも、お前の面倒は俺が見よう」
 愛海は驚いた顔をした。
 ジンシンス自身も自然と口をついた台詞に、頭の片隅で驚きを覚えながらも、撤回する気は起きなかった。
「……少し休むといい。また様子を見にくる」
 そういってジンシンスは愛海の額にくちづけて、またしても愛海を赤面させた。
 彼が医務室をでていったあとも、愛海は額を手で押さえたまま、呆然としていた。
 ……一体彼は愛海を幾つだと思っているのだろう?
 彼からしてみれば、愛海は寄る辺ない幼児も同然なのだろうが、それにしても過保護に感じる。決して嫌ではなのだが、気恥ずかしいのだ。とても。向こうは子供に接しているつもりでも、愛海はいちいち意識して赤面してしまうから。
「……しっかりしなくちゃ。彼に会うたびにこれじゃ、身がもたないよ……」
 呻くように呟いたあと、愛海は寝台に横になって、素数をかぞえ始めた。