異海の霊火

1章:異海 - 6 -

 医務室で休んでいた愛海は、間もなく不規則で緩やかな船の揺れに、酔いはじめた。
 朦朧と寝こんでいたときは気にする余裕もなかったが、意識がある状態で横になっていると、ゆら~りゆら~りと揺れて気分が悪くなってくる。
 酔いはなかなか治まらず、限界を迎える度に洗面所までいって嘔吐する羽目に陥った。少し気分が回復すると部屋に戻るのだが、すぐにまた気持ち悪くなって、洗面所に逆戻りしてしまう。
 もう今朝食べたものは全て吐いてしまった。たちまち胃のなかは空っぽになったが、それでも船酔いするたびにえづいて胃液を吐くのは、殆ど拷問のような苦痛だった。
 そのうち医務室と洗面所をいちいち往復するのも面倒になり、中間距離に位置する、船尾甲板の手すりにもたれて休んでいた。
(はぁ――……船酔いがこんなに辛いとは……)
 どうして命を救われてしまったのか、こんな船に乗ってしまったのかと、罰当たりなことを考えてしまう。
 げっそりしている愛海の耳に、談笑する男の声が聴こえてきた。
 びくっとして愛海が医務室に戻ろうとすると、二人の船員と鉢あわせてしまった。
 一人は長身巨躯の厳つい角刈りで、血のように紅い目をしている。もう一人は薬の常習犯みたいな青い御面相で、灰色のざんばら髪を肩に散らしている。
 ふたりとも、額に烙鉄やきがねで押された死刑囚の烙印があった。
 一瞬ぎくりとした愛海だが、彼らがとうの籠を持っているのを見て、目を瞬いた。どうやら、船の洗濯物を回収しているらしい。
「小僧がいるぞぅ」
 灰色のざんばら髪の男がいった。
「もう動けるのか?」
 続いて角刈りの男が、赤い目でぎろっと愛海を見た。
「はい、お世話になっています……」
 愛海がおっかなびっくり会釈をすると、
「じゃあ働け」
「え?」
 戸惑った声をあげる愛海を見て、角刈りの男は真顔で続けた。
「船に乗ったからには、子供だって戦力だ。動けるなら、働けよ」
 愛海は冷水を顔に浴びた気分で、咄嗟に返事ができなかった。
「……ぁ、はい。すみません」
 会釈をして、ぎこちない所作で医務室に戻ろうとした。すると男も足首に気がついた様子で、眉をひそめた。
「怪我をしているのか」
「使えるのかぁ、この小僧?」
 相方が、間延びした口調でいった。
「厨房はどうだ。芋剥きなら座ったままできるだろう」
「そりゃいい。修繕もやらせよう、針仕事は嫌いなんだよぉ」
 ふたりが好き勝手に話す様を、愛海がびくびくしながら見ていると、角刈りの男は、ぎろっと赤い目で愛海を睨みつけた。
「お前、包丁は使えるか?」
 愛海はかろうじて首を縦に振った。本当は殆ど触ったことないのだが、使えないとはいえない雰囲気だった。
「なら厨房にいけ」
「あの、ジンシンスさんに医務室にいるようにいわれたのですが」
「阿呆、ジンシンスさんじゃねぇよ。船長といえ」
「あ、はい、すみません……」
「はい、じゃなくて“アイアイサー”だろうが。お前みたいな小僧でも、船に乗った以上は船乗りなんだから」
「アイアイサー」
 愛海がぎこちなく返事すると、角刈りの男は呆れたように睥睨へいげいした。すると、ざんばら髪の男も小馬鹿にした目つきで、愚痴をこぼした。
「しまらねぇつらだなぁ……船長もどうかしてるぜ。怪我してる小僧なんか甘やかしてどうすんだぁ? 女ならまだしもよぉ」
 愛海はびくびくしながら肩を縮こめるしかない。角刈りの男は厭な笑いを浮かべた。
「いつまでも医務室で休めると思うなよ。大部屋にきたら俺らと一緒だ。せいぜい、襲われないように気をつけるんだな」
「ったく、お前のそれ、ほんと病気だな。こんな小僧に、誰が手をだすんだぁ?」
 ざんばら髪の男が呆れたようにいうと、角刈りの男は、興を削がれた様子で鼻を鳴らした。
「おい、マナミといったか? 厨房へいって仕事しろよ」
 愛海は頷いたが、ぱしっと頭を叩かれた。後頭部を手で押さえる愛海を、男は赤い目で睥睨へいげいし、
「“アイアイサー”」
 一瞬、何を求められているのか、愛海には判らなかった。なぜ叩かれたのか判らず、ぽかんとしてしまう。返事を求められているのだと閃くなり、ぎこちなく口を開いた。
「ぁ、アイアイサー……」
 男たちに見下されて、愛海はすっかり怯えていた。この先、船でうまくやっていける自信が、木っ端微塵に吹き飛んでいた。
「お前たち、ここで何をしている」
 落ち着いた低い美声が、天使長然と廊下に響いた。
 ぱっと愛海が振り向くと、怖い顔をしたジンシンスが近づいてくるところだった。
 その姿は王者然としていて迫力があり、愛海を含めて全員が、緊張した様子で姿勢を正した。
「何でもありません、船長」
「この子に絡んでいたんじゃあるまいな?」
「いえ、滅相もありません」
 船員が代わる代わる答えると、ジンシンスは答えを求めるように愛海を見た。
「大丈夫か?」
 愛海がこくりと頷くと、ジンシンスは探るような視線をふたたび男たちに戻した。
「マナミに不愉快な思いをさせたら、お前らを鮫の餌にしてやるからな。判ったら、さっさと仕事に戻れ」
「アイアイサー!」
 そそくさと男たちが消えたあと、ジンシンスは愛海を振り向いた。足元に屈みこんで、愛海の躰を抱きあげようとしたので、愛海は慌てて身を捩った。
「平気です……船長」
 ジンシンスは奇妙な顔つきになった。
「……足が腫れているだろう。歩くんじゃない」
「すみません。あ……っ」
 問答無用で抱きあげられてしまい、愛海は視線を泳がせた。手をどこに置けばいいか判らない。この船で一番えらい人に世話を焼かせているのだと改めて思い知らされ、いたたまれなかった。
 医務室に戻ると、ジンシンスは慣れた手つきで、愛海が寝台に落ち着くのを助けてくれた。クッションを背もたれにして、愛海がジンシンスを見つめると、彼は寝台に腰かけて長い脚を組んだ。
「夕餉をどうするか訊こうと思って、様子を見にきたんだ。医務室にいないから探したぞ」
「すみません。船酔いが辛くて……」
 愛海がげっそりした顔でいうと、ジンシンスはきょとんとした顔つきになった。
「ん? 船に乗ったことはないのか?」
「ありません」
 手漕ぎのボートに乗った経験ならあるが、人工池だし、このように波の揺れもなかった。
「そうか……気づかなくて悪かった。船酔いするような繊細な者を久しく見ていないから、失念していたようだ」
「いえ、こちらこそ……ご迷惑をおかけしてすみません」
「謝ることはない」
「……あの、僕、厨房を手伝っても良いでしょうか?」
 正気か? という目で見られた。
「そんな死にそうな顔をして何をいっているんだ? だめに決まっているだろう。怪我をしているんだぞ」
「でも、手伝うようにいわれました」
「さっきの連中にか?」
「そうなんですが……そのぅ、僕も仕事をしたいと思いまして」
 告げ口をしているような居心地の悪さを噛み締めながら、愛海は歯切れ悪くいった。
「その脚では無理だ」
 愛海がしゅんとなると、ジンシンスは苦笑をこぼした。
「マナミは真面目だな。心意気は認めるが、今は脚を治すことに専念しろ」
「……」
 彼に庇われている限り、あのふたりのように、愛海を疎ましく思う者は今後も現れるだろう。当面は同じ船で共同生活を送らないといけないのだから、なるべく波風を立てずにうまくやっていきたい。
「無理をするな。お前はここの連中が怖いのだろう?」
 愛海は逡巡し、小さく頷いた。
「……少し。ごめんなさい」
「いや、怯えて当然だ。困ったことがあれば、何でも俺にいえ。力になるから」
 おどかさぬよう、ゆっくり腕がのばされる。髪を撫でられ、おずおずと顔をあげると、青い双眸が優しく細められた。
 愛海は顔が赤面するのを感じながら、口を開いた。
「……怖いけど、船に乗った以上は、僕も何か手伝いたいんです。お役にたてるか判らないけど」
「お前は、意外と気骨があるんだな。だが今は、体力の回復に集中することだ」
 感心した風にいわれて、保身からいったに過ぎない愛海は、奇妙な居心地の悪さを覚えた。
 視線を伏せる愛海を、落ちこんでいると思ったのか、ジンシンスはため息をついた。
「判った……脚がもう少し良くなったら、厨房を手伝うといい。調理長には俺から話しておこう」
「ありがとうございます!」
 ぱっと愛海の顔が輝いた。
 莞爾かんじと笑むいとけない子供に、ジンシンスは凛とした気概を感じていた。称賛めいた感情を覚えながら、黒髪を撫でてやる。
 ……ちょっと見ないくらいの短髪で海栗うにのようにつんつんしているので、彼は、その触感が面白くて頻繁に触れてしまう己を自覚していた。
「……治ってからだぞ? 今、脚を変に動かしたら悪化してしまうからな」
 愛海は素直に頷いた。
「はい……アイアイサー」
 過保護をくすぐったく思いながら、愛海が船乗り流に返事すると、ジンシンスは魅力的な笑みを浮かべた。
「小さな船乗りだな」
 照れて紅くなる愛海を見て、ジンシンスは海のように碧い瞳を細めた。おもむろに手を伸ばすと、赤くなった頬を摘まんだ。
「すぐに紅くなって、かわいいやつだな、お前は」
 愛海はさらに紅くなって視線を伏せると、手を組んでもじもじした。
「さて、腹は空いているか?」
「いえ……」
 愛海は力なく頸を横に振った。食事と聞くだけで気持ちが悪くなる。無限嘔吐に苛まれるのはもう御免だった。
「かわいそうに、船酔いが辛いんだな。しかし多少は腹に燃料を入れた方がいい」
 愛海が渋々といった風に頷くと、ジンシンスはどきっとするほど魅力的な笑みを浮かべた。
「いい子だ。食事をもってくるから、待っていろ」
「あの、皆さんは、どこで食事されているのですか?」
 わざわざ運んでこなくても、愛海が移動した方が早くないだろうか?
「食堂もあるが、混雑していてうるさいし、まともな食器を提供しないから厭なんだ」
「そうですか……ジンシンスさんは、もうお食事されたのですか?」
「いや、俺は人間のように、頻繁に食事をする必要はないんだ」
「そうなんですか? お腹は空かないのですか?」
「海にいる限りは問題ない。いつでも燃料補給できるから。嗜好品として酒と紅茶は好きだけどね」
「へぇ~……!」
「だがマナミはきちんと摂取しないとな。食べ盛りだろうに、そんなにやせ細って。ちょっと甲板を歩いたら、風に吹き飛ばされてしまいそうだ。運んでくるから待っていろ」
「お手数をおかけします……」
 実際、風に煽られて混淆こんこう海域に堕ちたことを思うと、ジンシンスの言葉は笑えなかった。
 彼はいつでも素早い。医務室をでていったと思ったら、すぐに盆を持って戻ってきた。
「今夜は生姜粥だ」
 今は何も食べられないと思ったが、さっぱりとした味つけで、あっさり愛海の喉を通過していった。塩漬けのオリーブの実と、乾燥果物も少し食べて落ち着くと、口をすすいで寝支度を整えた。
 再び寝台に戻ったところで、ジンシンスが訊ねた。
「さて、今夜も医務室で休むか? しかし、船酔いするなら近くに洗い場がある方がいいよな?」
「実は、大部屋で休むようにいわれたのですが」
 またしても、正気か? と、いう顔でジンシンスは愛海を見た。
「その脚でハンモックに乗れるのか? 大所帯だし、足の踏み場もないぞ」
 うっ、と愛海は怯んだ。
「頑張ります」
「頑張らなくていい」
 反射的に断じたものの、ジンシンスはどう言葉を続けるか迷った。大所帯も厭だろうが、ジンシンスと同部屋も厭かもしれない。
(しかし、粗野な男どもに交じって雑魚寝するのは言語道断。なんとしても阻止しなければ)
 思考を巡らせながら彼は、滅多にしない真似をした。魅力的に見えるであろう微笑を浮かべ、女を口説くときみたいに、優しく囁くという真似を。
「船長室の隣に衣装部屋があるから、好きに使うといい。窓はないが、個室で中からかんぬきをかけられるぞ。それに、寝台を運び入れてやる。きっと居心地良くなるだろう」
「でも……」
 返事を躊躇う愛海の頭を、ジンシンスはそっと撫でた。清浄の魔術をかけてもらっても、ごわごわした髪質は相変わらずだが、彼は愛着をもってたびたび撫でてくれる。
「遠慮をするな。回復したら、俺のちょっとした雑用なんかも任せたい。その部屋は好きに使っていいから」
「それじゃあ、お言葉に甘えて……ありがとうございます」
 愛海が、感謝と尊敬の眼差しで仰ぎ見ると、ジンシンスは安堵したようにほほえんだ。
「よし、では運んでやろう」
 またしても抱えあげられそうになり、愛海は慌てた。
「自分で歩けます」
「なら手を貸そう」
 差しだされた手を、愛海はおずおずと握る。ジンシンスは軽く手を引っ張ると、躰が浮きあがり、勢いあまって胸のなかに飛びこんでしまった。
「すみませんっ」
 慌てて離れようとするが、ちょうど波に揺られて地面が傾いたために、後ろにひっくり返りそうになった。
「わぁっ!」
 すかさずジンシンスが腕を引っ張り、胸のなかに抱き寄せた。身長差があるので、胸というより、胴に引っついている感じだ。
「大丈夫か?」
「は、はいっ」
 彼にしがみついていることを意識したとたん、愛海は顔が紅くなるのを感じた。目の前にある見事な腹筋に手をつくと、しっとりした肌の感触が掌に伝わってきて、さらに鼓動が早くなる。ジンシンスは腕の力を少し緩めて、気遣わしげに愛海を見つめた。
「脚は痛めていないか?」
「平気です、ごめんなさい」
「怪我人なんだから、遠慮するな。俺を頼れよ」
 ジンシンスは愛海の腰に手を回し、ぴったり引き寄せる。親密すぎる仕草に、愛海は狼狽し、ささやかな抵抗を続けながら距離をとろうとするが、ジンシンスは離さなかった。
「いいから俺を頼れ。お前には助けが必要だ」
「はぃ……」
 混乱と羞恥心がおさまってくると、たくましい腕に驚くほどの安心感を覚え、四肢の強張りがほどけていった。どんなに困難な状況に陥ったとしても、彼さえ傍にいてくれたら、何とかなりそうな気がしてしまうから不思議だ。
「じゃあ、いくぞ。俺に重心をあずけていいから、痛めている方の脚は使うなよ」
「はい」
 確かに、あらゆる意味で助けが必要だった。愛海はもう抵抗するのをやめて、素直に身を任せた。
 殆ど抱きしめられながら、狭い廊下を歩いていった。幸い、誰ともすれ違わなかったので、あまり気まずい思いをせずに済んだ。
 回転扉の奥は、様子が一変した。
 マホガニー材の鏡板を張った廊下はきらびやかで、上級船室のようだ。
 廊下の先にある船長室は、広々とした豪奢な部屋だった。
 バルコニーつきの大きな窓があり、重厚な緞子どんすが繻子の紐で左右にくくられていて、大海原を見渡すことができる。外に青い照明が垂れており、なんとも情緒的だ。
 窓の傍に、黒檀こくたんの長椅子と酒卓があり、長椅子の方には、筒状のクッションや、毛皮がうずたかく積んである。
 床に敷かれた絨毯は、毛足が長くふかふかしているので、分厚い苔に沈みこんでいくようで至極心地が良い。捻挫している愛海にはありがたかった。
 家具はすべて螺子で壁か柄に固定されていて、天井から鎖で吊るされた火鉢が垂れさがっている。炭火は弱々しいが、部屋は分厚い羊毛の綴錦タペストリのおかげで暖かい。
 居室のほかに書斎と寝室、浴室に洗面所、それから衣装部屋が併設されており、ここから一歩も外にでなくても、生活に困らなさそうだった。
「素敵なお部屋ですね」
「ありがとう」
 ジンシンスは長椅子に愛海を座らせ、目の前に片膝をついた。
「足を見せてごらん」
 愛海はおずおずと足をさしだした。大きな手がふくらはぎを滑り、心臓がどきどきする。愛海が息をつめている間、彼は慎重に脚頸の様子を確かめていた。
「……大丈夫そうだな。湿布を変えるのは明日の朝にしよう」
「はい」
 彼の手がようやく離れると、愛海は安堵の息を吐いた。いちいち落ち着きのない愛海と対照的に、ジンシンスは至って冷静に、てきぱきと船員に命じて胡桃材の寝台を運び入れ、握りが象牙の杖も持ってこさせた。
「歩くときは、これを使うといい」
「ありがとうございます」
 なかなか洒落た飴色の杖で、愛海には少し大きいが、歩く補助に良さそうだった。
「面倒かもしれないが、移動の際は杖を使うようにして、なるべく脚に重心を乗せるな」
「アイ」
「……よし」
 愛海が、居心地よく整えられた寝台に横になると、ジンシンスは寝台に腰かけて、そっと躰を倒した。覆いかぶさるように美しい顔が近づいてきて、愛海は硬直する。目を丸くしていると、額に優しく唇を押しあてられた。
「お休み。良い夢を」
「お休みなさい……っ」
 愛海は真っ赤になって額を手でおさえた。彼の目を見ていられず、頭まで布団をかけると、ジンシンスの微笑する気配がした。
 部屋の扉がしまる。
 静寂が訪れると、波の揺れる音が聴こえてきた。
 これまで我が身に降り懸かった摩訶不思議を、どこか他人事のように俯瞰ふかんしていたが、ここへきてようやく現実感がこみあげてきた。
 これからは、ここが愛海の部屋なのだ。船での暮らしが始まる。もはや受験勉強どころではない、早く怪我を直して、働かないといけない。
(お母さん……)
 もう家族に会えない……
 自分は一つの世界から、途方もない深淵を越えて、全く別世界にきてしまったのだと思うと、暗澹あんたんとなった。
 血を吐く思いの忍従の日々の始まりであるという、奇妙に狂いのない予感が胸にきざしたのだ。