異海の霊火

1章:異海 - 7 -

 愛海は風の音で目が醒めた。身を起こそうとして低く呻く。船酔いはだいぶ良くなったが、まだ微熱があって、全身がだるかった。
 寝台のしたに、羽毛の靴がそろえて置いてある。配慮はありがたいが、片足がこうも腫れていては、室内を歩くこともままならい。
 衣裳部屋の扉をあけて居室に入ると、ジンシンスはいなかった。
 びっこをひきずりながら大きな窓に寄ると、一キロ以上にも及ぶ暗黒の積乱雲が、頭上にずしりと覆い被さっている様子が見てとれた。
 これから嵐になるのだろうか?
 寝椅子に腰を落ち着けると、することもなく窓の向こうを眺めていた。
 空模様はどんどん悪くなっていき、昼間にも関わらず、宵闇のように暗くとざされてしまった。
 雨雲がゴロゴロ……不気味な唸り声をあげている。
 空を眺めているうちに空腹になり、食器棚を物色して麺麭パン発泡林檎酒シードルを胃におさめると、ふたたび窓辺に戻って空を鑑賞した。
 空を眺めながら、十二の紋様が刻印された時計と比較して、時の流れを掴もうとした。
 この世界は十二進数で、時計盤の大きな紋様は十二あるが、一日の単位は三十六時間で、感覚的に一秒が愛海の知る一秒よりも短い気がしている。
 夜になり陽がでるまでの時間が、愛海の以前の感覚とそこまで違わないからだ。夜は圧倒的に長いが、目が覚めて眠れなくなるほどではない。
 時間と数字の発見に夢中になっていた愛海だが、夕方になってもジンシンスが戻ってこないので、次第に心配になってきた。
 我慢できずに、彼を探しにいこうと思い、杖をもって医務室の方へ歩いていくと、甲板の方が騒がしいことに気がついた。
 船尾甲板へでると、船員が巧みに縮帆しているところで、今はもう暴風時用斜桁帆を後尾にかけられているだけだった。さらに彼等は、舷側にいざという時のために命綱を渡そうとしていた。
 手際のよい仕事ぶりに見入っていると、ぽつぽつと甲板に沁みができた。驟雨スコールに降られたと思ったら、瞬く間に、ざぁっとつぶてのような雨雫に変わった。
 嵐の始まりだ。
 鉤裂き条の稲妻が空を切り裂き、眼の眩むような雷光が真昼のように照らした。
「ひっ」
 愛海は小さな悲鳴をあげた。船長室に戻ろうと踵を返そうとしたら、突然、襟首を掴まれた。
「えっ!?」
 杖を手放してしまい、拾おうと手を伸ばすが、宙を掻くだけだった。強引に露天甲板の上を引きずられていく。
「あの、待ってください、杖がっ!」
 必死に訴えるが、巨漢は答えることも待つこともせず、遠慮容赦のない力で、荒波の押し寄せる船縁に愛海を引っ張っていった。やっと足を止めたと思ったら、万力のような腕で、帆柱に愛海の背を押しつけた。
「この綱具を握っていろ! 帆柱から解けないように、絶対に放すんじゃないぞ!」
 分厚いゴーグルに覆面をつけた男が、くぐもった声で怒鳴った。
「ひっ、アイアイサー」
 愛海は必死に頷いた。恐怖と驚きのあまり、男が怒りで糊塗ことしているものを見抜けなかった。男は凄まじい手際の良さで、帆柱に愛海を結びつけていく。
 身動きができない段階になっても、愛海はどこか呑気な思考で、荒波にもまれて傾く甲板の上を転がらないようにしてくれたのだろう……そんな風に考えていた。
「目も髪も真っ黒なんざ、全く不吉な餓鬼だぜ」
 だが、ゴーグルの奥から底冷えのする茶色の目で顔を覗きこまれた時、ようやく愛海も異変に気がついた。
「え……」
「お前のせいで嵐を呼びこんだんだ。海神の供物に捧げっからよ、お怒りを解いてもらうよう、よぉくお祈りしろよ」
 愛海は愕然となった。男が背中を向けるのを見て、慌てて声をはりあげる。
「待って! ほどいて!」
 だが男はそのままいってしまった。叫び声も嵐にかき消され、巨大な風浪ふうろうが船縁をのりこえ、愛海の真上から襲いかかった。
「んぐぅっ!」
 海水を呑みこんでしまい、むせている合間にも、次の波が襲いかかる。冷たくて痛くて苦しい。
 甲板では船員が命綱を渡したり索具を調節したり、必死に働いているが、誰も愛海を見ていなかった。
「避雷針だ! 避雷針を落とせ!!」
 見覚えのある、角刈りの男が怒鳴っている。
 愛海は、彼等が何をしているのか、最初は理解できなかった。
 しかし、浮石から長く伸びる鉄の棒が海へ投げ捨てられるのを見て、ようやく理解した。あれは危険な電流を水中に逃がす仕掛けなのだ。
「おお、桑原くわばら桑原くわばら!」
「早くしろ! 全部投げ入れろ!!」
 男たちが必死に叫んでいる。
 船乗りにとって祈祷やまじないの言葉は常套語だ。凪でも嵐でも、罰当たりな言葉や神頼みを唱えたりする。
 今この瞬間、愛海も神に祈ることしかできなかった。
(神様、神様、どうかお助けください)
 この世のあらゆる尊いものに、心のなかで救いを求めた。
 嗚呼、だがもはや状況は絶望的だ。バケツを引っくり返したなんて表現じゃ生ぬるい、頭上から海そのものが落ちてくる。
 大きな船だと思っていたが、荒波に揺さぶられると、まるで小舟のように頼りない。
 このまま大波に嬲られて凍えて死ぬかもしれない。あるいは雷槌いかづちに貫かれるのかもしれない。
 一体自分はどうして、あの男のいいなりになってしまったのだろう? 助けてくれるのだと信じて、馬鹿正直に綱を握りしめていた一寸前の己を思うと、悔しくて仕方がなかった。
 バリバリバリバリ――ッ!
 轟然ごうぜん! 耳をろうする鉤裂かぎざき状にはしる稲妻が、海に投げ入れられた避雷針の一つに落ちた。
 愛海は心臓を鷲掴まれたみたいに、一瞬、呼吸が止まりかけた。
 空に向かって喚いていた船乗りたちも驚懼きょうくに堪えぬという表情で、舷側にしがみつき、かれたみたいに海を見つめていた。
 風浪が襲いかかるたびに、船が危険な角度に傾く。そうすると縛りつけられている愛海にも、荒波に浮かぶ悪魔的な蒼い焔が見えた。
 日常ではありえない、超自然的な不知火しらぬいは、海の亡霊か陽炎かげろうみたいに不気味だった。
 この世の終わりとばかりに、雷の投槍は続いた。
 轟く雷鳴は辺りを真昼のように照らし、海原のいたるところに落ちていく。
 狂瀾怒濤きょうらんどとうのさかまく雷雨地獄。一望てのない大海原、どこにも逃げ場はない。
 嗚呼、ここはやはり異次元世界なのだ。このような地獄はおめにかかったがことがない!
 容赦のない揺れに、愛海は何度も吐いた。雨と荒波が吐瀉物をさらっていく。口のなかに冷たい海水が入ると、また気持ち悪くなってえづくのだが、胃はもう空っぽで、吐くものは何も残っていなかった。
 ただただ苦しい。目や鼻に海水が入らないように、いちいち顔をそむけたり、あげたり、呼吸を止めたりすることに疲れた。
 無力だ――
 大自然のなかでは、己という存在は小さな斑点に過ぎない。苦しみを引き伸ばすより、いっそひとおもいに殺してほしい。苦痛から解放してほしい。
 願いが天に聴きれられたのか、苦痛は次第に和らいでいった。
 もう瞼の向こうに光を感じない……驚天動地きょうてんどうちの荒波をさざなみのように感じる……このまま異海浄土へいけるのだろうか?
 意識が幽明のさかいを漂いだした時、誰かが近づいてくる気配がした。
「マナミ!」
 ジンシンスだ。
 愛海は返事をしようとしたが、唇がかすかに動いただけだった。ジンシンスは傾く甲板を巧みに走り、愛海の前に膝をついて屈みこんだ。
「誰がこんなことを!?」
 その声には怒りが滲んでいた。彼は悪態をつきながら、金剛のごとく硬化させた爪で、愛海を拘束する縄を断ち切った。それから強張った愛海の握りこぶしをほどいてやり、手から綱具を離させた。
「もう大丈夫だ。おいで」
 もはや自力で立ちあがることもできない愛海を、ジンシンスは片腕で軽々と持ちあげた。
 船長室に戻ると、ジンシンスは暖炉と火鉢に触れずして碧い焔を燃やし、愛海に癒しの魔術をかけた。
 新鮮な海藻と檸檬の香りのする温水で愛海の全身を包みこみ、砂や藻屑を洗い流し、体温を取り戻させた。さらに温風で水分を飛ばしたあとに、肩に羊毛のショールをかけた。
 ぐったりしている愛海を長椅子に座らせ、自分も隣に座ると、黒い瞳をのぞきこんだ。
「誰があんなことをしたんだ?」
 その瞬間、怒り、恐怖、安堵、あらゆる感情がこみあげて、愛海は視界が潤むのを感じた。
「判りません。覆面をつけていたから……僕の目と髪が黒いから、不吉だって……こ、怖かった……っ」
 唇が震えて、たちまち視界がぼやけた。
 ぽろぽろと涙をこぼす愛海を見て、ジンシンスの顔が見る見る間に険しくなっていく。
「ばかげている。そんな理由で、こんな小さな子供を縛りつけたのか」
 ジンシンスは忌々しげに舌打ちをした。愛海の肩をぎゅっと抱き寄せ、額に、髪に、瞼にキスをする。慰めてくれているのだと判っているが、愛海はだんだん気恥ずかしくなってきた。しまいには、くちびるで涙をぬぐわれて、危うく変な声がでそうになった。
「……すまない。傍にいてやりたいが、やらなくてはいけないことがある。ひとりにして平気か?」
「はい。ここにいます」
 愛海が赤い顔で頷くと、ジンシンスはほほえんだ。
「いい子だ。すぐ戻るから、ここにいてくれ。判っていると思うが、外にでるなよ」
「アイ」
 彼は、大きな手で愛海の頭を引き寄せると、ちゅっと額にキスをして立ちあがり、そのまま颯爽と船長室をでていった。
 残された愛海は、長椅子に座ったまま、ぼんやり窓の向こうを眺めていた。
 疲労困憊していて思考は停止していたが、しばらくすると、奇妙なことに気がついた。
 揺れが不思議なほど小さくなったのだ。
 さっきまで烈しく揺さぶられていたのに、どうしたことか、今は揺りかごのように優しい揺れに落ち着いている。
 嵐が去ったわけではない。窓の外は、荒れ狂う風と吹きつけるつぶてのような雨が視界を遮っている。この船が暴風雨のなかを航行しているのは間違いない。
(こんなにも大嵐なのに、どうして揺れないの?)
 かすかな揺れを足元に感じるものの、殆ど水平である。
 原理が気になった愛海は、そっと窓を開けて身体をすべりこませた。
 バルコニーの床は湿っていて、水たまりになっているが、雨がなぐりつけてくることはなかった。
 手すりから見下ろす波は、確かに荒れ狂い、ほんの五十センチ向こうは嵐が起きているというのに、この船だけ見えない薄紗ヴェールで守られているようだ。
 これも魔法なのだろうか?
 愛海は手すりから身を乗りだして、なぎと暴雨の境界を探ろうとした。
「あ!」
 その時、肩にかけていたショールがはらりとおちて、吹きつける風が、一瞬で暴雨の向こうへ攫っていった。
(借りものなのに!)
 身を乗りだしすぎたせいで、愛海の体は平衡をくずした。踵が床から浮きあがり、危険な角度で身体が傾いた。
 次の瞬間、硬いものに背中がぶつかった。
 愛海の腰に腕をまわし、しっかりと抱きとめてくれたのは、ジンシンスだった。背中に彼の硬い胸板と温もりを感じて、愛海は頬を赤らめた。
「ごめんなさいっ」
 慌てて躰を離そうとするが、ジンシンスは腕の力を緩めたものの、離そうとはしなかった。愛海が痛いと感じるくらい強い力で肩を掴み、振り向かせた。
「外にでるなといっただろう!」
 薄闇のなかで、怒れる碧い双眸が爛とかがやいている。
「ごめんなさい! あの、ショールが飛んでしまって、」
「そんなものどうでもいい!」
 愛海がびくっとすると、ジンシンスは罵倒を堪えて唇を引き結んだ。さっと屈みこむと、流れるような動作で愛海を抱きあげた。
「っ!?」
 困惑する愛海に構わず、ジンシンスは窓を開いて、愛海を暖かい室内へ誘導した。
「あの、歩きます」
「歩かせたくないんだよ」
 そういって彼は不機嫌な一瞥をよこした。
「今度勝手に歩こうとしてみろ。どこへもいけないよう、寝台に縄でくくりつけてやるからな」
 ジンシンスは顔を近づけると、脅すようにいった。
「はぃ……」
 てっきり衣裳部屋に連れていかれるのだと思ったら、彼の寝室に入っていった。
 清潔で、整頓された部屋だ。
 寄木細工の床に黒い毛皮が敷きつめられ、胡桃材の四柱式寝台が鎮座している。その隣に黒い壇があり、壁に銀縁の鏡と、瀟洒な照明が取りつけられている。
 広々とした寝台におろされて、愛海は所在なげに視線を揺らしてしまう。
 彼は愛海の目線にあわせて屈みこむと、じっと目を見つめてきた。けぶるような銀色の睫毛に縁取られた碧い瞳が、強い光を湛えている。
「脚を怪我しているのに、歩き回るんじゃない。ましてや嵐のなか外にでるなんて、どうかしているぞ」
 真剣な口調は、彼が本気で心配していることを物語っていた。
 愛海は、心臓をぎゅっと鷲掴まれたように感じた。
「ごめんなさい……」
 しゅんとしていると、片方の手をとられた。手すりを掴んで冷たくなった手は、ジンシンスの温もりで溶けていくように感じられた。愛海は動揺して、手を引こうとしたが、ぎゅっと握られた。
「……震えているじゃないか」
 愛海の手をとって、ジンシンスは囁いた。そこで愛海は初めて、自分が震えていることに気がついた。寒さによるものなのか、嵐への恐怖なのか、はたまたジンシンスのせいなのか判別がつきかねた。
「……本気で怒ったわけじゃない」
 震えを怯えと受け取ったのか、ジンシンスは声音を和らげると、愛海の髪を撫でた。
「まぁ、ひとりにした俺も悪かったよ。子供は好奇心旺盛だよな」
「すみません……暴風雨なのに、船が揺れなくなったから不思議で、つい外にでてしまいました」
 ジンシンスは優しく笑った。
竜骨キールに、絶対に傾かない魔術をかけたんだよ。さすがに転覆しそうだったからな。もう大丈夫だ。安心して眠っていいぞ」
「キール?」
「竜の骨という、船の基幹ともいえる、船底の船首から船尾に渡された構造材のことだよ。どんな船も竜骨キールなくして前には進めない」
「へぇ~、すごい……あんなに揺れていたのに、こんなに静かになるなんて」
 常にこの魔術をかけてくれれば、船酔いせずに済むのでは?
 そんなことを考えていると、ジンシンスが愛海を寝台の壁際へ押しやった。空いた場所に長身を横たえると、肘をたてて頬杖をつき、目を丸くしている愛海を仰ぎ見た。
「今夜はここで寝ろ。どこにもいかないよう、一晩中見張っているからな」
「えっ?」
 愛海はびっくりして、それから赤くなった。彼にそんなつもりはないと判っているのに、心臓がどきどきしてしまう。
 褥でくつろぐ美しい大型肉食獣に、じっと見つめられている気分だ。一刷毛はけ真珠粉をいたような薄青の肌がまぶしい。うえは裸だから、上腕、胸板、腹筋、彫刻めいた筋肉に目がいってしまい、顔が熱くなる。
「諦めて横になれ」
「わ」
 手を引っ張られて、愛海もころんと横になった。
 吐息が触れそうなほど近くに、超俗めいた美貌がある。海のように碧い瞳に、吸いこまれてしまいそうだ。
 愛海が言葉を失っていると、ジンシンスはなんだか眠たげな目つきになり、頸を伸ばして、愛海の額にくちびるをつけた。
「おやすみ」
 愛海はそのまま失神するかと思った。このひとは一体、愛海をどうしたいのだろう?
「明かりを消すぞ」
「はい、おやすみなさい……」
 ふっと視界が暗くなる。
 目を閉じても、新鮮な海と柑橘の匂いがして、静かな息遣いを感じる。彼が隣で眠っているのだ。衣擦れの音がするたびに目が冴えて、愛海はなかなか眠ることができなかった。