異海の霊火

1章:異海 - 8 -

 愛海は薄暗い部屋で目が醒めた。
 嵐は過ぎ去ったらしい。暴風雨の音が聴こえない。空気は冷たいが、毛布のなかは暖かい。頭上にある天蓋と、背の高い寝台の四柱にかけられた天鵞絨ベルベッドをぼんやりと見つめて、いっぺんに覚醒した。
「あっ」
 小さく驚嘆の声をあげて、愛海は跳ね起きた。隣でジンシンスが眠っている。
 彼は、眠っている姿も神聖で美しかった。
 穏やかな表情で目を閉じて、青銀色のながい睫毛が頬に影を落としている。青い肌はたえなる燦めきを放ち、隆起した筋肉をなめらかに包んでいる。広い肩がむきだしになっているので、青い墨の紋様が、神秘的に動く様が見てとれた。
(……この刺青はどうなっているのだろう……まるで生きているみたい)
 そのとき彼がかすかなうめき声をあげて寝返りをうったため、毛布が腰の恥骨までさがった。愛海は動揺し、咄嗟に毛布を掴んで胸までひきあげた。
(ひぇ~~~っ)
 どうしよう、どうしよう、どうしよう。彼が目を醒ましたらどうしよう。
 早く寝台からでないといけない。けれども後ろは壁で、反対側にジンシンスがいるから、寝台をおりるには彼をまたがないといけない。
 なるべくそっと動くつもりが、毛布に脚がからまって、ジンシンスの上に倒れてしまった。
「ぅわっ」
「……マナミ?」
 どうしよう。ジンシンスが起きてしまった――
「ご、ごめんなさい」
 あろうことかジンシンスは、慌ててどこうとする愛海の腰を掴んで、自分の腹のうえに乗せた。
「ふぎゃっ」
「……元気そうだな。具合はどうだ?」
「だっ、だ……大丈夫です」
「……そうか。今日は昼まで寝ているから、起こさないでくれ」
 そういって腰をぽんぽんと叩くと、目を閉じて全身の筋肉を弛緩させた。
 愛海は慎重に彼からおりると、今度は心配になってジンシンスの顔を覗きこんだ。
「……どうした?」
 目を閉じたまま、彼は訊ねた。愛海は驚いたが、
「具合が悪いのですか?」
 なるべく小さな声で訊ねた。
「大したことはない。船を守るために消耗して疲れたんだ。寝れば回復する……」
 そういいながら、今度こそ寝入ってしまった。
 愛海はそれ以上彼の邪魔をしないよう寝室をでると、静かに身支度を済ませて、窓辺の長椅子に腰を落ち着けた。
 昨日と同じように、ぼうっと空を眺める。
 雨はやんでいる。重苦しい乱雲も過ぎ去り、鉛色と白鑞しろめ色の雲が、天空に平たく伸びている。
 鳥は一羽も飛んでいない……海洋のど真ん中だからだろうか?
 ついこの間まで受験勉強に明け暮れていたのに、こうして時間を持て余していることが未だに信じられない。
 することがない。生きる目的も判らない。ただ呼吸をしているだけ……
 ぼんやりしているうちに、うとうとまどろみ、目を醒ました時には、躰に毛布がかけられていた。酒卓に蓋をした銀皿が置かれていて、なかに果物とサンドイッチが入っていた。
 部屋を見回してもジンシンスの姿は見当たらないが、彼が用意してくれたのだろう。
 ありがたく腹ごしらえをして、洗面所でくちをすすいだあと、足に負担をかけぬよう、ふたたび長椅子に戻った。
 夕方にはまだ早い。一日が長い……ジンシンスは今何をしているのだろう?
 部屋にひとりでいても手持ち無沙汰だが、昨日どんな目にあったか考えると、扉に近づく気にもなれなかった。
 じっとうずくまっていると、真っ黒な憂鬱が愛海を襲う。
 どうしようもない、よるべなさ。先の見えない不安が辛い。辛くて苦しくて、涙が溢れでてくる。
「うぅ……っ」
 泣いたってどうにもならないのに、悲憤慷慨ひふんこうがいが止まらない。
 何度も助けてくれたジンシンスに対して、申し訳ないという気持ちと、助けなければよかったのにという卑屈な思いが胸に渦巻いた。
 いっそ助からなければ……海の藻屑もくずになっていれば……このように苦しむことはなかったのかもしれない。
 どこともしれぬ混淆こんこう海域で生き永らえていることに、意味を見いだせない。遅かれ早かれ死ぬのなら、あの時、ひと思いに死んでしまいたかった。
 情緒不安定で、ぐずぐずと泣いていると、澄んだ金管の音が部屋に鳴り響いた。
「わっ」
 ぎょっとした愛海は、涙を拭いて、きょろきょろと音の正体を探した。
 すると壁に這わされた幾つもの管と、その隣の制御卓に目が留まった。ちかちか明滅している。直感で連絡機器だと思い、愛海は点灯している管をとって、蓋をはずして耳を近づけてみた。
“あー、こちら洗い場。誰かいるかぁ?”
 驚くほど鮮明に男の声が聴こえて、愛海はぎょっとなった。
「あの、船長でしたら、今はいません」
“おぉぅ、小僧がいたぞぅ。マナミかぁ?”
 聞き覚えのある声だ。
「……はい」
“マナミィ、いつまで寝ていやがる! 船長がお呼びだ、とっとと洗い場にきやがれ”
「えっ!?」
 愛海はぎょっとして、返事に詰まった。
“判ったなぁー”
 その間延び口調で思いだした。甲板であった、顔色の悪い、ざんばら灰色髪の男だ。
「あの、洗い場って……」
 愛海はおろおろといいかけたが、既に通話は切れた後だった。
(どうしよう……ジンシンスさんが呼んでいるって、本当かな?)
 彼の性格を考えると、人を介して愛海を呼びつけることに違和感を覚えるが、本人に確認したくても手段がない。
(スマホがないと不便だなぁ……)
 ともかく愛海は、杖をもって船長室をでた。
 回転扉を抜けて、甲板の近くを通ると、波しぶきの音に混じって、ワァワァ、威勢のいい怒号が聴こえてきた。
 なんだろうと思い、立ち止まると、ちょうど反対側から見知らぬ二人の船員がやってきた。
 愛海は怯みつつ、お辞儀をして横をすり抜けようとしたが、
「あっ!」
 脚をひっかけられ、すっ転んだ。
 咄嗟に左脚は庇ったが、腕と右膝をしたたかに床にぶつけてしまった。痛みに呻く愛海の襟首を、男は軽々と片手で掴んで持ちあげた。
「痛っ」
しぶとい・・・・小僧だぜ」
 髭面がいった。底冷えのする茶色の眸を見て、愛海はぞっとした。この男だ。昨日愛海を帆柱にくくりつけた悪魔だ。
「高級船室に出入りしているって話、本当だったのか」
 今度は顔に斜めの傷がある男がいった。にやりと笑うと、
「餓鬼のくせに色目使いやがって。うまく船長室に潜りこんだもんだな、え?」
 腰を撫でられ、愛海はすくみあがった。男はさらに調子づいて、
「死神なんぞ乗せたら、この船の命運もいよいよ尽きちまう。おお、怖い」
 両腕で己を抱きしめると、劇的にぶるりと身を震わせてみせた。
「あの、僕は死神じゃありません。ジンシンスさんが気を使ってくださって、船長室の衣装部屋をお借りしています」
 愛海が怯えた上目遣いでいうと、はっ! と男は鼻で嗤った。
「ジンシンスさんだぁ? 馴れ馴れしい餓鬼だな。相手は凄まじい雷霆らいていの力を振るう海底人だぞ。悪魔とはお似合いか?」
 髭面も相槌を打ち、こう続けた。
「海底人は、俺たち死刑囚より残忍冷酷だぜ。人間は虫けら同然と思っているんだからよ」
 吐き捨てるようにいったあと、胡乱げな茶色の目で愛海を見やった。
「ったく、どうしてお前みたいな糞餓鬼を助けたのか……漂流させときゃぁよかったのに」
 真向からなじられ、愛海は言葉がでてこなかった。怖くてあとずさる愛海を見て、男たちは冷たい笑みを口に刻んだ。
「まぁ、食料が尽きたら食っちまえばいいか。肉は薄そうだけどよ、ちったぁ腹も膨れるだろう」
 ちっとも冗談に聞こえなくて、愛海は心底震えあがった。
「ひひひ……怖いか? この船に拾われたのが運の尽きなのさ」
 顔に傷のある男が嗤う。そいつに尻を揉みしだかれ、愛海は悲鳴をあげた。
「やめてください」
「女みてぇに喚くんじゃねぇよ。仕事もできねぇくせに、男を覚えるのは早いときた。いっちょまえに船長をたらしこみやがって。それ、具合・・を確かめてやるよ」
「やめてくださいっ!」
「その脚が治ったら、たっぷりご奉仕・・・させてやるよ。誰が主人か、判らせてやらないとなァ」
「離してっ!」
 腕をふって暴れるが、びくともしない。愛海が恐怖に顔をゆがめたとき、
「何をしている」
 地を這うような低い声が、厳かに響いた。
 ふたりの男の顔は赤黒くなった。悪罵の始まる前兆に見えたが、相手が悪かった。
「死にたいのか?」
 海底人の全身から放たれる青い霊気に、男たちの顔が今度は蒼くなる。大言壮語の無頼漢が一言も反駁はんばくできず、硬直している。
 一方、愛海はジンシンスに後光が射して見えていた。またしても助けてくれた。果たしてこれで何度目だろう?
「おい、誰かこのふたりを縛って独房にいれておけ」
 慌てて数人の船員が駆け寄ってきて、唸ったり喚いたりして暴れる男ふたりを縛りあげ、引きずるようにして連れていった。
 その後ろ姿を睨みつけていたジンシンスは、彼等が視界から消えると、愛海を見つめた。
「大丈夫か?」
 先程とは打って変わって、気遣わしげな口調で訊ねた。
「はい……助かりました」
 愛海はどうにか返事した。恐ろしさのあまり、声まで震えていた。ジンシンスに片腕で抱きあげられたとき、もはや抵抗する気力もなく、されるがまま船長室に運ばれた。
 安全な船長室に戻り、定位置になりつつある長椅子に腰を落ち着けると、愛海は安堵のあまり、躰がクッションに沈みこんでいくように感じられた。
「連中に何をされた?」
 隣に座ったジンシンスは、親身な声で訊ねた。愛海は首をふって、
「……僕は、気味悪いでしょうか?」
「いいや。なぜそんなことを訊く?」
「……死神だって」
「そんなわけあるか。あんな連中のいうことを、真に受けて傷つく必要はないんだ」
「……っ」
 嗚咽を噛み締めながら、愛海は首を振った。ジンシンスの優しさが身に沁みた。
「……泣くな」
 彼は愛海の肩を抱き寄せ、しばらく腕をさすりながら、やさしい慰めの言葉をかけ続けた。
 愛海が少し落ち着いてくると、壁に這わされた連絡管の一つを引っ張り、船員に葡萄酒をもってくるよう指示した。
 しばらくして、黒い肌の少年がいわれた通りの飲み物をもってきた。
 彼は受け取ると、また愛海の傍に戻ってきた。
「飲んでごらん。多少は心が落ち着くだろう」
 そういって愛海の手に、香料の効いた葡萄酒の杯を握らせた。
「ありがとうございます……」
 渋々口をつけた愛海は、思わぬ甘さに小さく目を瞠った。美味しい。檸檬とシナモンの香りがする。
「美味しい……」
 愛海が感想をこぼすと、ジンシンスは微笑した。小首を傾げた拍子に、美しい海水青色かいすいせいしょくの髪が肩からこぼれ落ちて、照明を浴びてきらきらと輝いた。
 男性のしどけない仕草に見惚れていると、杯から雫がこぼれた。
「あ」
 愛海は垂れた雫を指でぬぐい、その指を口にもっていき、舐めとろうとした。視線を感じて顔をあげると、ジンシンスがじっと見つめているのに気がついて頬が熱くなった。
(子供だなって思われたかな)
 指を舐めようかどうしようか迷っていると、ジンシンスはきちんと折りたたまれた布巾をとりだし、愛海に渡した。
「これを使いなさい」
「ありがとうございます……」
 恥ずかしくて真っ赤になると、ジンシンスは苦笑をこぼした。
「顔が真っ赤だぞ」
「大丈夫ですっ」
「そんなに強かったか?」
 ジンシンスはおもむろに手を伸ばすと、愛海の手から杯を奪いとり一口飲んだ。
「甘いじゃないか」
 ますます顔が紅くなる愛海を見て、ジンシンスは愉快そうに笑った。
「マナミには強かったようだな」
「はい……」
 杯を両手で受け取り、もじもじしている愛海を、ジンシンスはふと思案げな顔になって見つめた。
「どうして部屋のそとにでたんだ? 昨日怖い思いをしたばかりだろうに」
 びくっとなる愛海を見て、ジンシンスはすぐにつけくわえた。
「怒っているわけじゃない。理由を知りたいだけだ」
「……連絡管が光っていたので、蓋をとってみたら声が聞こえて、船長が呼んでいるから洗い場にこいといわれまして」
「なんだと? 俺はそんなこといっていないぞ」
 愛海も薄々、そんな気はしていた。
「……すみません、連絡管に触ってしまって」
「いや、構わないが、次からは俺以外の奴の言葉を信じるな。洗い場当番はドーファンだな。あいつはさぼり癖があるんだ。大方面倒になって、愛海を呼びつけて仕事をやらせようとしたのだろう」
「……」
「さっきのふたりは、昨日愛海を帆柱にくくりつけたやつか?」
「……はい。茶色の瞳のひとが、そうだと思います」
 ジンシンスの顔つきが厳しくなる。
「そうか……ドーファンは罰として船倉樽の掃除、愛海を縛りつけたやつ、アラバードは右手頸を切断、もうひとりはベイブリーだな。そっちは右脚をへし折ろうと思う。どうだ?」
「えっ!? えぇっと……」
「怖い思いをしたのはマナミだ。お前が相応の罰を決めていい。細かく刻んで鮫の餌にしてもいいが、どうしたい?」
 愛海は高速で頸を振った。
「鮫の餌はだめです、切るのも折るのも……! ……すごく怖かったし、反省してほしいけど、ぃ、痛いのは……」
 視線をふせる愛海の頭を、ジンシンスはぽんと撫でた。
「……優しいな、マナミは。判った。さっきのふたりは、茨の鞭打ち七回にしておく」
 愛海は逡巡してから、小さく頷いた。鞭も痛そうだが、他の刑に比べたらマシだろう。それに、暴行した相手を、これ以上かばう気は起こらなかった。
「……あの、甲板が騒々しかったけれど、どうかされたのですか?」
 話題を変えたくて、愛海は気になっていたことを訊ねてみた。
「ああ、双角鯨の群れに遭遇したから、船員総出で漁をしていたんだ。さっきようやく仕留めて船に繋留けいりゅうしたところだ。全員疲労困憊しているから、解体作業は明日に持ち越しだ」
「双角鯨……」
「いい燃料になるし、角も色々と使い道がある。肉もなかなかの美味だぞ。あとでマナミにも食べさせてやる」
 愛海は曖昧に頷いた。この世界にも鯨がいるらしい。日本ですら食べたことがないのに、異海で食べることになるとは思ってもみなかった。
「することがなくて、退屈か?」
 その質問に、愛海はすぐに返事できなかった。かつての自分の部屋が脳裏を過ぎったからだ。愛すべき、居心地の良い空間。部屋にいれば、携帯をかまったり、漫画を読んだり、テレビを見たりといくらでもすることがあったけれど、ここにいても空を眺めるくらいしかすることがない。
 助けてもらった身で我がままはいえないが、はっきりいって、退屈だった。
「……いえ、大丈夫です」
 ぎこちない返事を聞いてジンシンスは、クックッと笑いながら、
「判った。無聊ぶりょうの慰めになるものを用意しよう。もし本を読みたければ、書斎を見てみるといい」
「すみません、お手数をおかけして」
「ちっとも手間じゃないさ。それにこういう時は、感謝の言葉を口にするものだ」
「ありがとうございます」
 うん、とジンシンスは頷いたあと、面白がるような光を目に灯して、こう訊ねた。
「ところで、今夜はどこで寝る? 俺の寝台を使ってもいいぞ。あっちの方が広いだろう」
「いえ、大丈夫です。衣装部屋で十分です」
 なんてことを訊くのだろうと思いながら、愛海は背筋を伸ばして答えた。
「そうか? 遠慮しなくていいんだぞ」
「大丈夫ですぅ!」
 そそくさと衣裳部屋に逃げていく愛海の背に、くすくすと笑い声が聞こえてきた。からかわれたのだ。顔が燃えるように熱くなるのを自覚しながら、愛海は小さな聖域に逃げこんだ。