異海の霊火

3章:暗鬱な喚び声 - 1 -

 あれから数日経った今も、強姦嫌疑の面談は続いている。いまだ犯人は見つからず、グスタフは独房に入ったままだ。
 船員は互いに疑心暗鬼になっていても、医務室はいつも通りだった。
 彼らは、病気や怪我の有無に関わらず、医務室を訪れる。
 医務室なのに喫煙卓子があり、陶製の煙管きせる刻煙草きざみたばこ、雷管箱といった喫煙道具が置いてあるのだ。
 葉っぱのたぐいもあれこれとそろえてあり、物品交換に応じて、彼の手製の皮下注射器で、モルヒネやコカインを溶かした溶液を注射してもらえる。
 船には娯楽が殆どないので、医務室で味わえる究極の安楽は重宝されている。ドンファンのように日参する常連客もいれば、ウルブスのように時々やってくる者もいる。彼は、厨房でくすねた香料と引き換えに、コカ溶液を注入してもらいにやってくるのだ。
 ラム酒でいい気分になれる男はいいが、そうでない者は、投薬で気分を高揚させる。
 いい気分になっている間に、本人に無断で、華麗なメスさばきを披露し臓器を摘出して縫合している……とまことしやかに噂されていても、彼らは医務室を訪れる。
 医務室というより、もはや薬物常習者の巣窟といっても過言ではない。船員の半分が依存症を抱えているので、世話にならないわけにもいかないのだ。
 前にウルブスがここを悦楽郷と呼んだ理由が、今なら愛海にも判る。遥かなる祖国では激しく違法行為でも、異海の無法地帯の船の上では合法なのである。
 それに、気持ちが判らないでもなかった。
 愛海も休憩時間に、ごく薄めた溶液を投薬してもらった事があるが、そのあとの午睡は素晴らしく穏やかで、幸せだった。日頃の悩みや不安から解放されて、波間をたゆたうような、緩やかで優しい眠りを貪ることができた。
 数百日も混淆こんこう海域を漂流していたら、誰だって一度や二度、薬が欲しくなる。古来より伝わる万能薬は偉大だ。
 とはいえ、ここ最近麻薬常習犯がひっきりなしに医務室を訊ねるのは、夢見のせいもあるらしい。
 夜になると、遠くから不気味な唸り声が聴こえてくるのだ。
 終末を告げる疫獣の声に、船員たちは、不眠、意気阻喪といった症状をきたしていた。それらから一時でも解放されたくて、薬を求めて医務室を訪れるのだ。
 或いは、連日の面談で多少なりとも精神が疲弊しているのかもしれない。
 それは愛海にもいえることで、厄介至極なグスタフのことを考えると、果てしなく気が重くなる。医務室を訪れる麻薬中毒者たちに話かけられても、愛想笑いを返せない。苦悩と疲労が、顔に顕れている自覚があった。
 ごく親しいひとは気にかけてくれて、ジンシンスには仕事を休むよういわれたが、気がまぎれるからといって医務室勤務を続けていた。
 できることなら、愛海も船長室に閉じこもっていたいが、臆病な隔離に甘んじていても、グスタフのことが解決するわけではなく、むしろ苦悶が長引くのだと思うと、何かせずにはいられなかった。
 その日の昼過ぎ、仕事がひとだんらくすると、シドは朗らかに提案した。
「さて、何か食べよう」
 紳士な彼は、愛海を火の傍の机の前に座らせた。
「暖かいスープをもってこよう。少し待っておいで」
「僕がもってきます」
 席を立とうとする愛海の肩を、シドはやわらかく押しとどめた。
「いいよ。君は心あらずなようだから、少し休んでいなさい」
 愛海は恐縮して頭をさげる。
 何もかもグスタフのせいだ。あの男の言葉が頭から離れない。胃のあたりがずしりと重く、ちっとも食欲が湧かない。
 せめてジンシンスに相談できれば、どれほど良かったことか。
 偉大な庇護者だから、愛海が女だと知っても、きっと力を貸してくれるだろう。けれども、今の心地よい距離感は失われてしまうかもしれない。彼に遠ざけられると考えるだけで身慄みぶるいする。女を武器にしたいのかと誤解されるのも厭だし、これ以上憐れみを買うのも厭だった。
 先日は、貝のように口をとざすゴッサムに不満を覚えたばかりだが、これでは愛海も人のことをいえない。
 それに、他の船員に知られでもしたら身の破滅だ。今度こそ強姦される。男だと知っていても襲ってくるような外道連中だ。女だと判ったら、遠慮容赦なく輪姦に加わるのではなかろうか?
 杞憂で済めばいいのだが、実際に血濡れたゴッサムの下半身を見てしまっている。痛々しい肛門の潰瘍かいようを思うと、心臓を鉄の輪で締めつけられるような恐怖と苦痛が走る。
 グスタフはもう誰かに話したのだろうか? こうして愛海が無事でいるということは、まだ話していないのだろうか?
 嗚呼、猜疑心が膨らみすぎて気が狂いそうになる。いずれにせよ時間の問題だ。奴が人に話す前に、なんとかしなければいけない。
 この状況を解決してくれるのなら、神でも悪魔でも構わないとすら思う。
 なんともなしに、医務室を眺める。シドのおかげで、薬瓶にもだいぶ扱いなれた。麻薬や致死量にたる薬物の配合を知っている。あの男に、昼食を運ぶのは愛海だ。もし、食事に毒を混ぜることができたら――
「おまたせ」
 戻ってきたシドの声に、愛海は我に返った。目を瞬きながら、無意識の思考回路に戦慄した。
 なんて恐ろしい想像をしてしまったのだろう――黙りこくる愛海の隣で、シドは折り畳み式の卓を持ってきて、手疑よく給仕を始めた。緑の野菜に、煮詰めたベリージャムをのせた暖かなスコーンが皿に置かれる。それから薬缶やかんを手にとり、真鍮の器に濃い紅茶をそそいだ。
「さ、食べよう」
 シドが手をつけ始めるのを見て、愛海も、のろのろと手を動かした。
「浮かない顔をしているね」
「……ちょっと頭痛がして」
「診てあげようか?」
 片眼鏡モノクルの向こうから、思慮深い翡翠の眸が、じっと愛海を見つめていた。
「平気です。原因は判っていますから」
 愛海は、いつもに増して、もの哀しげな表情で答えた。
 頭痛の種をとりのぞくには、原因を絶つしかない――グスタフを殺すしかない。
 昏い決意を後押しするように、ゴッサムの憐れな姿が脳裏をよぎった。
 重ね重ねのわざわいよ。陸では、児童誘拐強姦殺人罪で死刑囚烙印を押された男だ。死んで当然の、地獄に堕ちるべき男なのだ……悪魔慰撫いぶのように、己にいい聞かせた。