異海の霊火

3章:暗鬱な喚び声 - 2 -

 グスタフを殺害するにあたり、最初は食事に毒を混入しようと考えたが、それでは食事を運ぶ愛海が真っ先に疑われてしまう。
 そこで、混淆こんこう海域であることを利用して、もっと自然な殺害方法を思いついた。
 やつの使っている耳栓を奪うことができれば、夜毎顕れる終末の疫獣リヴァイアサンが殺してくれる。悪魔のような名案だと思った。
 だが、そのためには独房に入らないといけない。食事に睡眠剤を混入して、奴が眠っている隙に耳栓を奪おうと考えた。
 決行の日、悲愴な決意が顔に顕れているのか、シドは探るような目で愛海を見た。
「どうかしたかね?」
「いえ、何も」
「何か困りごとがあるのなら、相談に乗るよ」
 その視線は、彼がいつも患者にむける無機質な眼差しとは少し違って、かすかに温かみのあるものだった。
「ありがとうございます」
 愛海はぎこちなく応じた。演技的な微笑だったが、目には感謝の色が浮かんでいた。
 彼なら、もしかしたら……秘密を打ち明けたら、うまく取り計らってくれるかもしれない。
 一瞬、甘い期待が胸にきざしたが、すぐに捨てた。他人に殺人を依頼できるはずもない。それは、あまりにも卑怯だ。
 平穏な日本に暮らしていた頃は、殺人情動とは無縁でいられたが、ここへきてからというもの、死にたい、殺したい、という物騒な考えが頻繁に脳裏をよぎる。ホープも殺してやりたいほど憎かったが、あのときはジンシンスが助けてくれた。
 しかし、今度ばかりは彼に頼れない。愛海が自分で解決するしかないのだ。
 かくして算段は整った。
 運命の黄昏どき。遍満する冷気のなか、愛海は睡眠薬入の食事を運ぼうとしていた。覚悟を決めたつもりでも、盆を持つ手がかすかにふるえている。
 落ち着け、と己にいい聞かせながら、このあと取るべき行動を脳裏に思い描いていると、廊下の隅から低い呻き声が聞こえてきた。
 一瞬、己のやましい計画を知った誰かが、凶手のごとく闇に潜んで待ち伏せしていたのかと思ったが、違うようだ。足音を忍ばせて様子をうかがい……驚愕に息を嚥んだ。
 クラムがゴッサムの頭を押さえつけて、腰を振っている。
 愛海は、頭を鈍器で殴られたようなショックを受けた。
 どう見ても、恋人同士の行為には見えない。これは強姦だ。あってはならない暴力だ。
 犯人はクラムだった。グスタフではなかったのだ。
 一体どうして――なぜ――額に烙印はあっても、普段から聖職者の格好をしていることもあり、安全・・な人なのだと勝手に思いこんでいた。
 身近に、温厚で博識なシドや、気のいいジャン、面倒見のいいウルブスを知っているから、烙印に対する先入観は確かに薄れていた。
 しかしクラムは、船員の葬儀の際などには、丁寧に聖句を諳んじていた。愛海に気遣いの言葉をかけてくれたこともある。
 それなのに――なぜ――すべては、この強姦行為を隠蔽いんぺいする、狡猾な仮面だったというのか?
(今は考えるな、ゴッサムを助けなくちゃ)
 愛海は膳を床に置くと、意を決して、ふたりに近づいていった。
「何してるんですか」
 震える声をかけると、クラムは律動を続けたまま、愛海を見た。落ち窪んだ眼下から、紫の瞳が不気味に輝いた。
「は……“解放”だよ……っ」
 行為を見られたクラムは、焦るどころか、二度、三度と強く腰を震わせ、低い呻き声と共にゴッサムのなかに吐精した。
 愛海は蒼白になって、彼が絶頂を終えるのを、ただただ見ていることしかできなかった。
 自身を引きぬいたクラムの足元に、ゴッサムがくずおれる。クラムは衣を整えながら、愛海を振り向いた。
「君がどう解釈しようと自由だが、船長に伝えようと思っているのなら、よく考えることだ」
「!?」
「私は君に興味ないけれど、グスタフは違う。彼が犯人でないと判明すれば、牢からだされるだろう。マナミを恨んでいるようだから、今度は本当に君を強姦するかもしれない」
 愛海は言葉を失った。
 その通りの脅し文句を、本人の口から聞いている。実際、あの男ならやるだろう。あれは脅しでもなんでもない、本気の眸だった。
 目まぐるしく思考しながら、眼球が揺れて、背後にある膳を見ようと動くのが判った。
 グスタフは愛海が女だと気づいている。吹聴される前に、どうにかしなければならない。いやしい強姦魔だと思ったから、どうにか決意・・したが、違ったのだ。
 過去は別としても、ゴッサムに乱暴したのはクラムだ。それなのに、グスタフを殺すのか?
 望まない真実が、無慈悲に愛海に問いかける。
 突然、正義の仮面に罅が入り、糊塗ことしていたものが暴かれてしまった。良心の奇妙な痛みに、胸を締めつけられる。
「知っているかい? グスタフは、犯した相手を嬲り殺すんだ。君と同じ年頃の少年少女を、数えきれないほど手にかけているんだよ。どう思う?」
 クラムは静かに、嗜虐的な調子で訊ねた。
 ほんの一、二秒、陰惨な光景が愛海の脳裏をよぎった。独房をでたグスタフは、真っすぐに愛海のもとへやってきて、殴る、蹴る、言語に絶する酷いことをする。襤褸雑巾のように、殺される。
 決して被害妄想ではない、起こりうる未来だ。
 しかし、床に崩れているゴッサムを見ると、こんなことは間違っているという、純然たる正義感がこみあげてくるのを感じた。
 憐れなゴッサム。まるだしの下半身は血と精液に塗れて、酷い目にあったということが一目瞭然だ。怪我が治っていないのに、無理やり貫かれたせいで悪化してしまっている。
 ありったけの勇気を振り絞って、ゴッサムに近づいた。折りたたんだ手巾を取りだして、動かぬ彼の下半身を拭う。
「優しいね、マナミ……彼が心配かい?」
 衣を整えたクラムは、ゴッサムの傍に屈みこんだ。
「やめて! 触らないでっ」
 愛海は鋭くいった。クラムを視線で牽制しながら、ゴッサムを抱き起こすと、下衣をひきあげ、血まみれの下半身を押し隠した。
「君は勘違いしているよ。これは浄化の一環なのだよ」
「浄化……?」
「我々は間もなく上位次元に召される。そのときに備えて、俗世の欲を全て吐きだし、切り捨てなければならない。私とゴッサムは、そのために躰を交しているのだ。浄化は順調に進んでいるよ」
 クラムは厳粛な面持ちで、黒い顎髭を撫でながらいった。
 愛海は言葉が見つからなかった。彼の思考回路についていけない。何をどうすれば、そのような胡乱うろんの理論で、強姦を正当化できるのだろう。
 そして彼の凄惨な過去に思い至った。そうだ――彼は、千人以上の信者を集団自殺に導いた、宗教団体の長なのだ。
「君も浄化を望むのなら、救済してあげようか?」
 今こそ、悪魔始祖を見る目で、愛海はクラムを見た。恐怖。怒り。形容し難い熾烈しれつな感情が、黒い波濤はとうのように襲いかかってくる。
 だというのに、口が、脚が動かない。己の影ごと床に縫い留められたように動けない。
 クラムは立ちあがると、ゆるりと鷹揚な仕草で、艶のある長い黒髪を背にはらった。まったき清廉な聖職者然とした姿で、愛海の横を素通りした。
 なにもできなかった――彼を糾弾することも、止めることも――
 凍りつくような、冷え冷えとした敗北感に浸されながら、愛海はゴッサムに視線を戻した。
「あの、だいじょう……」
 少年の顔色を窺いながら、その陳腐な言葉を嚥みこんだ。大丈夫でないに決まっている。たった今強姦されて、血を流し、穢されて、平気なわけがない。
「医務室にいきましょう」
 手を軽くひっぱると、ゴッサムはのろのろと立ちあがった。屈強な男のなかでは小柄で華奢に見える彼も、愛海より頭一つ分背が高い。
 澄み透った紫の瞳が、愛海を静かに見つめた。たった今強姦されたというのに、表情は凪いでおり、悲しみや屈辱といった感情は浮いていなかった。
 一体、何が、彼をこんな風・・・・にしてしまったのだろう?
 愛海は胸に迫る哀憐を押し隠し、溢れでそうになる涙をぐっとこらえた。ここで泣くわけにはいかない。ゴッサムの手を引こうとしたが、彼は動かなかった。愛海が振り向くと、彼は床に置かれた膳を見ていた。
 あ、と愛海は声にだした。クラムのことが衝撃的過ぎて、グスタフの配膳を失念していた。
「……もういいや・・・・。後で片づけておきます」
 愛海は力なく答えた。
 今となっては、床に置かれた膳が、ひどく白々しく見える。
 これも神慮なのだろうか。過ちを犯す前に、強姦現場に立ちあわせ、憐れなゴッサムを救済せよという御意なのかもしれない。
「……いきましょう」
 再び手を引くと、今度はゴッサムもおとなしくあとをついてきた。
 黙々と歩きながら、愛海は、潮のように冷静と分別が戻ってくるのを感じていた。
 全くどうかしていた。あと一歩で殺人を犯すところだった。
 首尾よくことが運び、グスタフが死んだとしても、いっときの安寧を得られるに過ぎない。結果魂はかげるだろう。ふとした瞬間に忌まわしい記憶が蘇り、死ぬまで苦しめられるのだ。良心の呵責かしゃくに耐えきれず、途中で自死を選ぶかもしれない。
 そのような悲惨な末路をたどるくらいなら、今ここで、ジンシンスに性別を明かす方がよっぽどいい。最初からそうすべきだったのだ。こんな簡単な判断もできないほど、自分は追いつめられていたのだろうか?
 医務室に入ると、シドがいた。
 彼は、愛海とゴッサムを見て、すべてを察したように、読んでいた本を閉じて席を立った。
「手当が必要なようだね。寝台にきなさい」
「暴行したのは、クラムさんです」
 愛海は固い声で告げた。シドは一瞬動きを止めて、愛海をじっと見つめた。
「それは、誰かに話したかい?」
 愛海が頸を振ると、シドはそれ以上は訊ねず、ゴッサムを治療台に寝かせた。
「清潔な綿と湯を用意してくれ」
「はい」
 愛海はいわれた通りのものを用意した。ゴッサムは少し決まり悪そうな様子を見せたが、おとなしく下半身をみせた。シドが薬を用意する間、愛海は血の滲んだ肛門まわりを清拭せいしきし、消毒するのを手伝った。
 治療が終わると、愛海は思いつめた顔でシドにいった。
「彼が治るまで、医務室で匿ってあげられませんか?」
「構わないよ。ゴッサムもそれでいいかね?」
 ゴッサムはぼんやり虚空を眺めいたが、もう一度名前を呼ばれると、今度はシドを見た。表情からは、何を考えているのか全く読めない。肯定も否定もせず、黙って医務室をでていってしまったので、愛海は追いかけようとしたがシドに止められた。
「その気があれば戻ってくるさ。クラムのことは、船長にも話していないのかね?」
 愛海が頷くと、シドは続けた。
「彼の信者は、この船にもいるから気をつけなさい。クラムが命じれば、殺人でも盲目に従う連中だ。船長の脅しも通用しないかもしれない」
「……どうして、あんな男を信じられるのでしょう」
「ここは、混淆こんこう海域だからねぇ。なにかに縋っていないと、正気を保てない人間は少なくないさ」
 穏やかだが、嘲笑めいた口調だった。翡翠の眸が怜悧に輝いている。
 愛海が返事に詰まると、シドは視線をやわらげた。
「ともかく、この件は、すぐにでも船長に報告すべきだろうね」
「僕もそう思います」
「では連絡管を使おう。すぐにきてくれるかもしれない」
 そういってシドは壁にそなえつけられた連絡管をとった。
 彼が船橋ブリッジに連絡を入れる様子を眺めていると、ふらりとゴッサムが戻ってきた。
「お帰りなさい……あっ!」
 愛海は安堵すると同時に、膳のことを思いだした。慌てて医務室を飛びだし、まっすぐ膳を置いた場所を見にいったのだが、どこにも見当たらなかった。誰か回収してくれたのかと思い、一応食堂にもいったが、ウルブスは知らないと答えた。
 もしかしたら、腹を空かせた通りすがりの誰かが、食べてしまったのかもしれない。食事に混ぜたのが睡眠薬で良かった。誰かが口に入れたとしても、せいぜい眠るだけだ。死んだりはしない。
 このようなことで安堵している自分には、はなから殺人など無理な話だったのだ。