異海の霊火

3章:暗鬱な喚び声 - 3 -

 この日もジンシンスは、船橋ブリッジで帝国との通信を試みていた。不通が五十日間続いている今、憶測は確信に変わりつつあった。
 帝国は壊滅したのだ。
 他国の侵略を受けた可能性も零ではないが、恐らく国が終末の疫獣リヴァイアサンに屈したのだろう。死の喚び声に民は心身に異常をきたし、自滅したに違いない。
 死刑囚船員にとっては幸か不幸か、帰郷する国もなければ、死刑も消えてなくなったことになる。
 しかし、混淆こんこう海域を脱しない限り、どのような未来も存在しえない。
 旧神は少しも衰えることなく、毎晩のように、遠くから喚び声を響かせている。おまけに今夜は大荒れの嵐になりそうだ。十時間ほど前に、海面に気泡があがっていると操舵室に報告が入ったのである。このまま嵐になる場合、終末の疫獣リヴァイアサンが出現する可能性が高い。
 その前に、愛海を避難させた方が良いだろう。そう思った矢先、圧縮空気を使った装置を通じて、医務室から連絡が入った。
「どうした?」
<船長、忙しいところ悪いが医務室にこれるかね? マナミとゴッサムがきている。話がしたい>
 シドの声だった。
「長話なら今度にしてくれ。終末の疫獣リヴァイアサンが近づいてきているんだ。すぐに愛海を迎えにいく」
 通信を切った直後、不気味な唸り声が海の彼方から聴こえてきた。
 旧神はいわば天災だ。善悪の別もなく、漆黒の闇のなかから顕れて、ふたたび闇のなかに溶け消えていく。今夜は長丁場になりそうだ。夜が明けるまで、果たして何人が持ちこたえられるだろう?
 医務室に入るなり、ジンシンスは愛海を認めると、片腕で抱きあげた。
「ぅわっ」
 小さな手が、慌ててジンシンスの首に回された。ぽんぽんと背中を叩いてやりながら、ジンシンスは医者を見やった。
「シド、忙しくなる。怪我人に備えておいてくれ」
 いかなる時も冷静沈着な医者は、心得たように頷いた。
 船長室に向かう途中、愛海は緊張した様子で目をあわせてきた。
「船長、お話があるのですが」
「悪い、後にしてくれ。終末の疫獣リヴァイアサンが出現するんだ」
 黒い瞳が、ものいいたげに見つめ返してきたが、こくりと頷いた。
 船長室に入るなり、彼は愛海を衣装部屋に押しこんだ。
「なかからかんぬきをかけておけよ。俺も外から不破の術をかけておく。内側からは開けられるが、俺が戻ってくるまで、誰であろうと入れるな」
 愛海は緊張した面持ちで頷いた。
「落ち着くまで部屋をでるなよ。いいな?」
「アイ、船長もお気をつけて」
 愛海が敬礼で返事をすると、ジンシンスの海水青色かいすいせいしょくの双眸がふと和んだ。
「すぐに戻る。いい子で待ってろよ」
 海栗うにのような短髪をひと撫でしてから、彼は船長室を飛びだした。
 急いで昇降階段をかけのぼり、最上甲板ハリケーン・デッキにあがると、遍満する濃霧に包まれた。
 作業している船員の雨帽子や外套は露濡れ、雨に降られているかのように、ぽたぽたと滴になって垂れている。
 海面は見透せないが、ぼこぼこと気泡のたつ音にまじって、噛みつく海嘯かいしょうのように舷側に打ちつける波の音が聴こえる。荒れ狂う嵐の前兆だ。
「出現に備えろ」
 ジンシンスの命令一下いつか、船員たちは即時に行動に移った。寒風に吹かれながら帆をたたみ、雷雨に備えて命綱を端から端まで渡そうとしている。
 間もなく、縮帆した船は速力を緩め、舳先へさきをやや右に転じた。
終末の疫獣リヴァイアサンだぁッ!」
 前帆檣フォアマストに登っていた船員が、右舷後部に向かって、声高に叫んだ。
 鋭い声と共に、恐怖がさざなみのように甲板のうえをはしった。
「なにかくるぞ!」
 誰かひとりが警句を発すると、他の船員も船縁から身をのりだし、海のしたを覗きこもうとした。
 濃霧で見透せないが、何かが燐光を発しているのが見てとれた。初めは判らなかったが、目が慣れるにしたがって、その威容が見えた。この船の真下、幾尋いくひろをとんでもなく巨大な何かが泳いでいる。
 どんっ! 不気味な振動が船を揺らした。
 黒々とした魚影は、ぐんぐん浮上してきて、勃然ぼつぜん! 海面に水柱がった。
終末の疫獣リヴァイアサンだぞぅッ!」
 と船員が指差していう、刹那! 伸びてきた吸盤のついた太い腕に、船員はもちあげられた。
「うぎゃあぁッ」
 そのまま海のなかへ容赦なくひきずりこまれてしまった。
 船縁に身を屈めていたふたりの男が立ちあがり、もりを射放たんとするが、敵は跡形もなく消え失せたあとだ。
「旧神は正面だ! 船のしたにいるのは、召喚された軟体生物だ。襲ってくるぞ!」
 ジンシンスが叫ぶと、海面を凝視していた船員たちは、そろって顔をあげた。
 濃霧の彼方に、青い炎のような六つの眸が、ぼんやりと輝いて見える。
「ヴオオオオォォォォォォォォ……」
 広漠の海をどよもす暗鬱あんうつな喚び声は、此の世の終焉を告げる吼え声のようでいて、今際いまわきわの獣の叫喚きょうかんめいてもいて、冥界みょうかいから聴こえてくる暗黒の哄笑こうしょうでもあり、言語を絶して混淆こんこう海域に鳴り響く。
「耳を塞げッ!」
 耳栓をつけた船員は、威嚇の篝火を焚く。
 再び椰子の木のような腕が甲板に顕れたとき、彼らは手斧や銛で容赦なく斬りつけた。
 まが凶手きょうしゅの腕は、外側は赤と茶色の地に白い斑点があり、内側に棘のついた吸盤があった。軟体種に見えるが、驚くほど強靭な肌は刃を受けつけず、攻撃に怯んだ様子もない。
「伏せろッ!」
 誰かが叫んだ。
 咄嗟に身を屈めた船員たちの頭上を、ぶぅん! 鋼の如し触腕が横凪ぎに一閃した。躱しきれなかった不運な者は、脊髄をへし折られて甲板のうえを転がっていく。
 貪婪どんらんな怪物は、竜骨キールごと抱きこむように触腕を船に巻きつけようしたが、ジンシンスは目もくらむ光を放ち、一点に凝縮させた海流を、銃の如く、二発、続け様に射った。
 その威力たるや凄まじく、巨大軟体生物の表面に穴を穿うがつ。
「グアァァ――ッ」
 さしもの敵も怯んだ様子で、素早く腕をひっこめた。しかし敵愾心に火を点けたようで、勢いよく海面に浮上したと思ったら、吸盤がついている触腕をまるでメデューサの頭髪の蛇みたいに筆舌に尽くし難いでたらめさで動かし、威嚇してきた。
「あれは蛸か!? なんて大きさだ」
「畜生、終末の疫獣リヴァイアサンが連れてきやがったのか」
 得体のしれぬ怪物に、船員どもは叫声と呪罵を浴びせかけた。その声には驚嘆と恐怖の響きが入り混じっている。相手は蛸を思わせる姿とはいえ、誰もお目にかかったことのない超大型なのである。
「船長! 早く逃げましょう!」
 船員が叫んだが、ジンシンスは怯むことなく、奇想天外なる軟体種を撃退すべく、船縁を蹴って宙へと踊りでた。落下することもなく、足元に魔術的な色彩の光る円環を携え、宙に浮く姿は人智を超えていた。
 神秘の魔術もることながら、ジンシンスは極めて高度な戦闘力を有していた。船員たちも船縁から武器を手に応戦しているが、ジンシンスは、海上を自在に飛び回り、殆どひとりで怪物を圧倒しているのだ。
 死闘が繰り広げられる間にも、終末の疫獣リヴァイアサンは不気味な唸り声を発し、船員を戦慄させた。
「ヴォォォォオ……ォォォォ……」
 奈落の底から聴こえてくるかのような声だ。
 決して大音量ではないのに、悪魔的な響きが耳栓から染みだして、脳髄を絞られるように感じる。耳、目、鼻、口、或いは四肢から血を噴きあげる者が相次いだ。
「痛ぇッ」
「助けてくれぇっ!」
 悲痛の声やら怒号が四方から発せられた。
 瞬く間に甲板は死屍累々、気ちがいじみた悲鳴をあげなら転げまわる者、阿鼻叫喚に包まれた。絶命している者はわきに避け、息があって動かせる者は、野戦病院と化した食堂へ運びだされていく。
 慈悲憐憫れんびんとは無縁の修羅の光景のなか、ジンシンスは一瞬でも止まることなく俊敏に動き続けた。無謀に見えて圧巻。恐ろしく斬れ味のよい水の刃が、椰子の樹よりも太い怪物の手足を切断していく。
 旧神の遠ざかる気配を察知したジンシンスは、海へもぐり、変身してあとを追いかけようとしたが、新たな凶手の影を見て取り、海面へ飛びだした。
「気をつけろ、あと三匹いるぞ!」
 警句を発すると、船員は蒼白になった。
 このように恐ろしい大蛸が、四匹も船にまとわりついているとは!
「ヴォォォォ……」
 旧神の声が遠のいていく。
 ジンシンスは追いかけるべきか迷ったが、船にいる愛海が気掛かりだった。短い逡巡の結果、大蛸の撃退を選んだ。
 勝敗はこちらに分があった。既に二匹はほふっており、さらに一匹をジンシンスが撃退すると、最後の一匹は警戒して、船に巻きつけた腕を勢いよく離した。
「掴まれぇッ! 振り落とされるぞ!」
 巨大な腕が海面を叩き、ばっしゃぁん! 雷鳴にも似た轟音が響き渡った。大津波のごとくが風浪が、舷側に襲いかかる。
「あげ舵いっぱい! 後進だ!」
 片手で耳栓を押さえながら、甲板長代理が必死の形相で信号旗を掲げた。
 全長三五〇フィートを超える巨体は、半円を描いて、左舷に旋回する。
「舵を戻せ! 距離をとるぞ!」
 続けて命令がくだされると、船は急速に怪物から遠ざかった。
 その間に、船員は舷側から長銃身を構え、巨躯の鯨にも致命傷を負わせられる炸裂弾を装填そうてんさせた。
 狙いを定め、ひきがねに指がかけられたとき――長い腕が伸ばされ、船腹に強烈な一撃が叩きつけられた。
 船は横転しかねない勢いで烈しく揺さぶられ、二、三人が海へ放りだされた。
 救援! 救援!
 慌てふためきながら浮き輪を投げ入れる船員と、威嚇射撃を続ける者で、ただでさえもごった返している甲板は、騒然となった。
「腐れ蛸めッ、仕留めろ!」
「おお、刺身にしてやらァッ!」
 戦闘員と化した船員たちは、狂猛する戦闘本能に身を任せ、続けざまに引きがねを引いた。なかには帆桁によじのぼり、高所から狙いを定める者もいた。
 銃弾の雨霰あめあられを浴びながら、忌々しい軟体生物は、荒神の如し兇猛きょうもうさで襲いかかってくる。
 凄まじい渦巻きと煽りが船を揺さぶり、愛海を案じるジンシンスのうちに、鬱々とした怒りが渦巻いた。海洋生物に寛容な海底人ではあるが、このときは冷徹に、水槍で怪物の側頭部を貫いた。
「フグゥゥゥアアァァァァッ!」
 怪物は吠え狂いながら離れようとしたが、怒れる船員たちの的にされた。彼らは疲れを知らぬ執拗さで、海面から顕になっている顔面、腕、いたるところに弾丸を浴びせかけた。
 ついには巨体が仰向けにひっくりかえり、海面に最後の波紋をひろげた。軟体生物の発する燐光が、ゆっくりとうしなわれていく。
 ワッ、と甲板から勝利のかちどきがあがった。
 怒涛の雷雨により、濃霧は消え失せている。空に稲妻が走るたびに、海面に浮いた蛸の全容が照らされ、その巨体ぶりに船員たちは改めて驚かされた。
 このように巨大な生き物が、さらに巨大な海獣から召喚されたのである。一体、終末の疫獣リヴァイアサンはどれほどの大きさなのだろう?
 煙る雨の向こうで、かろうじて青い六つ目の輝きだけが見てとれた。
 海水は濛々と濁り、鎮まる頃には終末の疫獣リヴァイアサンは消えていたのだった。