異海の霊火

3章:暗鬱な喚び声 - 4 -

 黎明に船長室に戻ったジンシンスは、窓辺で毛布にくるまっている愛海を見つけて、思わず微笑を浮かべた。
 ぬいぐるみを抱きしめて、口を小さく開けている。暴力とは対極にある、無垢で無防備な寝顔を見たら、危険な戦闘は終わったのだという実感がこみあげてきた。
「……衣装部屋にいろといっただろう」
 短すぎる前髪を軽く引っ張っても、目を醒ます気配はない。ぐっすり深い眠りにあるようだ。
 実のところ、船長室のしきいには特別なまじないをかけてあるので、よこしまなことを企む者は、脚を踏み入れることはできない。
 なかからかんぬきをかけるよう助言したのは、その方が愛海が安心できると思ったからだ。けれども、ここで眠っているということは、ジンシンスが戻ってくるのを起きて待っていようとしてくれたのかもしれない。
(そういえば、話があるといっていたな……ゴッサムのことか?)
 船員と毎日面談しているが、少年水夫を強姦した犯人捜しは難航している。必然的にグスタフも独房に入れたままだ。
 優しい愛海は、随分と気に病んでいるようだが、正直なところ、ジンシンスはグスタフもゴッサムもどうでも良かった。グスタフはともかく、ゴッサムは愛海に年も近く、子供といっても差し支えないだろうが、愛海に対するような庇護意欲が湧かないのだ。
(……この子の、何がこれほどまでに心の琴線に触れるのだろうな)
 ジンシンスは愛海の傍に屈みこみ、その寝顔を静かに見つめた。
 ……黒い髪と瞳は美しいが、全体的にぼんやりした顔立ちの子供だ。もっと目を引く子供は、他に幾らでもいるだろう。礼儀正しいが、飲みこみは鈍いし、あまり聡明ともいえない。頼りげなく怯えた風情とあいまって、一つ一つの所作が幼く見える。最初に思った通り、かなり手間のかかる子供だ。
 それでも、たまらなく愛らしかった。不思議なほど心を惹きつけられる。人間に慈しみを覚える日がこようとは驚きだが、愛海に対しては認めざるをえない。
 こうも気にかけてしまうのは、最初に覗きこんだ瞳が、あまりにも不安と恐怖で濡れていたからだろうか?
(……役目を終えたら、愛海をどうしようか。帝国は滅んでいるだろうしな……)
 先のことを想像しながら、毛布にくるまれた躰を抱きあげる。そのまま衣裳部屋に運ぼうとすると、ふっと愛海は目を醒ました。
「……ジンシンスさん?」
「悪い、起こしたか」
「いえ……」
 黒い双眸が、じっと見つめ返してくる。ふたつ貴石の片割れ、黒貴石のような瞳だ。いたく神秘的に感じられる愛海の瞳を覗きこむのが、ジンシンスは好きだった。
「あんなところで寝るな。風邪を引くぞ。お前は躰が弱いのだから」
「はい……」
 今にも眠ってしまいそうな返事を聞いて、ジンシンスはなるべく静かに、衣装部屋の寝台に愛海をおろした。すると小さな手が伸ばされて、腕に触れた。思いがけない刺激に、ジンシンスは強張る。
「怪我しています」
 小さな指の触れた箇所を見ると、赤い筋がはしっていた。
「俺の血ではない。それに海底人の血に色はないんだ」
「そうなんですか? それだと、怪我に気がつけないかも……どこも怪我していませんか?」
 愛海は上体を起こすと、寝起きのぼんやりとした状態を脱して、訊ねた。
「平気だ」
 即答したジンシンスだが、次の瞬間、小さく痛みに呻いた。
「大丈夫ですか!?」
「平気だ……すまないが、話は明日でいいか? 少し休みたい」
「もちろんです」
 黒髪をひと撫でしてから立ちあがると、愛海も俊敏な動きで立ちあがった。
「どこかお怪我を?」
「違う、ただの……」
 眼窩がんかから頭蓋骨の後ろへとまた激痛が走り、ジンシンスは呻いた。
「頭痛なんだ」
 実際は、ただの頭痛ではない。頭が割れるほどの苦痛だ。痛みは眼窩がんかの奥から後頭部を貫くように、断続的に襲ってくる。
「医務室にいって、薬をとってきましょうか?」
 狼狽えている愛海の頭に、ジンシンスは手を乗せた。
「いい。時間が経てばよくなる」
「でも……何かお持ちしましょうか?」
 泣きそうになっている愛海を見て、ジンシンスにしては弱々しく笑った。
「ありがとう、せっかくだが今はいいよ。お休み……」
 長身を屈めて、愛海の額にくちびるをつけると、後ろ手に扉をしめた。
 残された愛海は、無力感を噛み締めた。あのジンシンスが、これほど弱った姿を見せるなんて、よほどの頭痛なのだろう。
 逡巡の末、水をいれた鉢に手巾を浸し、湯を沸かして湯呑に注ぎ、頭痛薬と、それから蜂蜜の瓶をとりだした。
 諸々を盆にのせてジンシンスの寝室にいくと、一瞬の躊躇のあと、扉を軽く叩いてから、静かに開けた。
「……どうした?」
 寝台に横臥おうがしていた彼は、驚いた顔つきで愛海を見た。
「看病させてください」
「いや……平気だ。愛海も疲れただろう。部屋に戻って休みなさい」
 苦しそうなジンシンスの様子に、愛海の胸に痛みが走る。いつでも立派で、神様のようなジンシンスが、額に汗の珠を結んで苦しんでいる。どうにかして力になりたい。
「少しだけ、看病させてください」
 緊張しながら、寝台の傍机に盆を乗せると、硬く絞った手巾をジンシンスの額に押し当てた。怒られるかと思ったが、碧い双眸は優しく和んだ。
「ありがとう」
「いえ……頭痛薬をもってきました。飲みますか?」
「せっかくだが、薬は効かないんだ。気持ちだけもらっておくよ」
「……何か力になれることはありませんか?」
 しゅんとしている愛海を見て、ジンシンスは逡巡し、くちを開いた。
「……なら、治癒のまじないでもかけてくれ」
 彼にしてみれば、ほんの軽い気持ちだった。回復を祈ってくれる程度で良かったのだが、愛海は何やら思いつめた表情で、寝台にあがってきた。ジンシンスの隣に腰を落ち着け、膝のうえに彼の頭を引き寄せた。
 滅多に動じないジンシンスが、咄嗟に反応できずに、されるがままだ。何事かと愛海を仰ぎ見ると、小さな掌が額に乗せられた。
「……愛海?」
「ぃ、痛いの痛いの、飛んでいけー」
 呪文を唱えながら、ぱっと掌を開き、なにかをどこかへ放り投げた。
 沈黙。
 唖然としていたジンシンスは、我に返ると共に噴きだしそうになったが、それよりも先に、髪の間に指をさしいれられ、頭皮を優しく撫でられる心地良さに目を細めた。
「痛いの痛いの、飛んでいけー」
 全く驚いた。なんだろう、この愛らしい生き物は。こんなに愛らしい治癒のまじないが此の世にあるだろうか?
 しかし効果は絶大だ。本当に頭痛が和らいだ気がする。
 愛海は、まじないを唱えながら、痛みのきつそうな部分を見つけて、こめかみをそっと指でさする。頭蓋のつけ根にあるしこりを押しこむと、ジンシンスはたまらず、呻きともつかぬ柔らかな吐息を漏らした。
「痛いですか?」
 愛海は怯えたように、手の動きを止めた。
「いや、違う」
 ジンシンスは頭の位置をずらして、愛海の膝に収まるように調整した。片腕を伸ばして細腰に巻きつける。愛海は一瞬躰を強張らせたが、じっとしている。
「……続けてくれ」
「はい」
 おずおずといった風に手揉み療法が再開されると、ジンシンスはため息をついて、両腕を愛海の腰にきつく巻きつけた。
 愛海は無心になって、指先でこめかみを撫でた。痛みがどれほど和らぐのか謎だが、ジンシンスは少し楽になったように見える。額や頭皮を優しくさすり、治癒のまじないを繰り返した。
「痛いの痛いの、飛んでいけー」
 唱えるたびに、ジンシンスは少し笑い、笑いが頭痛に響くのか、そのあとで小さく呻いたりした。
「……不思議だな。楽になった気がする」
 愛海は嬉しくなり、にっこりした。
「良かったです……お疲れ様でした」
 ねぎらいの言葉をかけて、たくましい首に手をおろした。触れることに少し慣れてきて、凝り固まっているしこりをほぐしていく。ジンシンスが小さく呻くと、手を止めて顔を覗きこんだ。
「すみません、痛かったですか?」
「痛くない、やめないでくれ」
 彼は瞳を閉じたまま囁いた。
「……痛いの痛いの、飛んでいけー」
 ジンシンスは小声で、飛んでいけー、と愛海の口真似をして、少し笑った。
「どこが痛いですか?」
 ジンシンスは無言で愛海の指を掴むと、目のうえにもっていった。すると小さな指が心得たように、繊細な動きで、こめかみを優しく揉んでくれる。嗚呼、少年の指とは思えない……眩暈を誘う柔らかさだ。
「……ありがとう。大分よくなったよ」
 目を開けると、きらきらした黒い瞳と遭った。
 清らかで無垢な笑みが、意外なほど魅力的に見えたため、ジンシンスは思わず息をのんだ。
 触れたのは愛海の、少年の指だというのに、胸の奥に奇妙な疼きを感じた。後ろめたい心地で、優しい笑顔から視線を逸らしてしまう。
 黙りこくるジンシンスを心配そうに愛海が見ていることに気がついて、とってつけたようにほほえんだ。
「普段はこうはならない。今夜は、旧神の声を近くで聞きすぎたんだ。海底人の俺でも、さすがに堪えた」
 愛海は神妙に頷いた。
「ゆっくり休んでください」
「……そうだな……うん、そうした方が良さそうだ……」
 ジンシンスはなんともいえぬ心地で、隣にいる小柄な少年を仰ぎ見た。
 年端もいかない少年だ。不幸に見舞われ、庇護してやらねばならない哀れな子供……それなのに、華奢な手の繊細な動きに、どうして女性らしい気配りを感じてしまったのだろう?
(戦闘疲れで、頭がどうにかなってしまったのか?)
 愛海が寝台をおりると、ジンシンスは衝動的に上体を起こして、愛海の腕を掴んだ。自分が何をしようとしているのか気づいて我に返り、取り繕うように頭の天辺にキスをした。
「……癒されたよ、どうもありがとう。もう部屋にお帰り」
 愛海は頭を手で押さえて、赤くなった顔で頷いた。俯きがちに歩いていき、扉のしきいのところで立ち止まると、ジンシンスを振り向いてぺこりとお辞儀をした。
 その礼儀正しい仕草に、ジンシンスの顔に自然と微笑が浮んだ。
 扉がしまると、静けさがいや増して、部屋の温度までさがったように感じられた。
 寝ようと思って目を閉じても、瞼の奥に、愛海の笑顔が浮かびあがってくる。
 ――随分と懐かれたものだ。己の外見もることながら、とっつきにく性格である自覚はある。子供とはいえ人間に、全幅の信頼を寄せられていることが信じられない。
 懐かれたというより、ジンシンスが構い過ぎているのかもしれない。子供だからと思っていたが、少し違う気がする。例えば同じ成人前の子供でも、ゴッサムに興味はないのだ。
 なぜ――愛海は特別なのだろう?
 図らずも庇護者を買ってでたわけだが、次第に当然のように思っている己がいる。義務や正義ではなく、そうしたいから庇護しているのだ。
 なぜ――思考の堂々巡りをしてしまい、ともかく、己は愛海の庇護者なのだと結論づけるしかなかった。
 寄る辺ない世界で孤児も同然の子なのだから、船ではもちろん、降りたあとも良く面倒を見てやらなくてはならない。
 帝国は壊滅しているだろうし、いずれどこか安定した情勢の街を探す必要があるだろう。
 幸い、海底国の所有する土地は、陸世界のあちこちにある。不自由のない生活を送らせてやれるだけの財もある。しかし、勤勉な愛海は、養われることを良しとしないかもしれない。もしあの子が望むなら、教養を身に着けさせ、ちょうどいい奉公口も探してやろう。
 海底国へ帰るのは、そのあとだ。愛海の生活基盤が整うのを見届けて、もう安全だと判ったら……お別れだ。
 ふと淡い寂寥せきりょうを覚えたことに、ジンシンスは素直に驚いた。
 どうやら、思った以上に、愛海と過ごす日々を気に入っているらしい。
(宿命の航海で、このように温かな気持ちを抱くとは……これも旧神の思し召しなのだろうか)
 いささか寂しい気もするが、別離の日はやってくる。そのとき、愛海は泣くだろうか?
 ……泣くかもしれないが、未来は明るいはずだ。内気で頼りない少年だが、あんなにも優しい子だ。いずれ好きな女を見つけてつがい、幸せな家庭を築くだろう。
 そう考えたとき、またしても奇妙な寂寥せきりょうが胸に射した。愛海がほかの誰かと幸せになる光景を、素直に祝福できない気がする。
(――よそう。馬鹿なことを考えるのはよせ)
 何やら気まずい予感が胸にきざすのを感じて、ジンシンスは思考に蓋をした。幸い、疲労困憊の眠りはすぐに訪れた。