異海の霊火
3章:暗鬱な喚び声 - 5 -
我らが“さわやかな風 ”号は、孤影悄然 として北に進んでいた。
天候は気が滅入るような曇天で、海と空は一つに融 けあって、境界線の判らぬ灰色の帯と化している。嵐でないだけましと思われたが、それも潮の流れが突然に変わり、前進を阻まれた。
風が唸り、海が踊り、さらに異変が起きて、波、波、波の彼方に船影が見えた。
見張りについていた船員は、はじめ己の目を疑った。何度か瞬 き、凝視する景が変わらぬと判っても俄 かには信じ難い。望遠鏡の丸穴のなか、亡霊を見たような気になった。
霧に隠れて船旗が見えないので国籍は不明だが、ともかく普通の客船や商船でないことは確かだ。千人を擁 するであろう一等級の駆逐艦型で、船足は驚くほど速い。
「戦艦だぁッ!」
その声は殆ど絶望のように感じられた。
こちらは火薬も爆雷もない旧型帆船なのである。向こうはまったく阿修羅のごとく迫る勢いで、虜 にされた我々を、射程圏内に捉えているに違いない。
すぐさま停船命令の信号旗が桁端 に舞いあがったが、相手の反応はない。敵意の有無を図りかねたが、答えはすぐに判明した。
霧を割って船首がのぞき、翻 る船旗を認識した時、船員は唖然となった。
「見ろよ、帝国の船旗を掲げているぞ」
「戦艦がなんでこんなところに?」
「幽霊船か?」
冷気の遍満 する船縁に、冷たい疑懼 が漣 のように疾 った。
先日の闘いの後、まる一日眠っていたジンシンスは、目が醒めるなり船橋 から連絡が入り、今は甲板でシドと共に突如顕れた帝国船を目の当たりにしていた。
「随分と面変りしていますが、あれは我々と出港した帝国船ですね」
シドは、顎に手をやって感想をくちにした。
「まるで数世紀も彷徨っていたみたいに、色褪せているな」
ジンシンスが相槌を打つと、シドはこう続けた。
「驚きましたねぇ。我々のように混淆 海域を漂流していたのか、或いは次元の狭間から舞い戻ってきたのでしょうか」
彼の疑問は皆の思うところだった。
波濤 を超えて圧巻していたアッカブル帝国の、皇帝プダトゥリオご自慢の大戦艦は、もはやその威容 に見る影もなく、異妖 に変化変遷していた。
五十八日前にお目にかかったときは、艶光りしていた鋼鉄の装甲は、赤錆や緑青 を吹くほど劣化しており、甲板に人影は見当たらす、擦り切れた帆綱は、もつれた髪のような有様だ。
これは地獄からよこされた悪魔か?
命を賭 した闘いで惨敗を喫したあと、百も二百も老けこんだ戦士のように、生命力の欠片も感じられない。
一体、この船に何が起きたのだろう?
共に王都を出航した帝国船ではあるが、見るも無残な禍々しい姿に、船員の誰も救援がきたとは思えなかった。
「なぜ信号旗をあげない? このまま突っこんでくる気か?」
「距離を置いた方がいいんじゃないか?」
船員は及び腰だ。
確かにお近づきになりたくはない異妖さだが、ジンシンスはまたとない好機に心を逸 らせた。
五十八日前に行方をくらませた戦艦を、ずっと探していたのだ。あの船には、旧神を送り還すために必要な、“双 つ貴石”のひとつ、白貴石がある。尋常ならざる事態だとしても、厭 ってはいられない。今こそ取り返す絶好の機会だろう。
「追走しよう。取舵だ」
ジンシンスは甲板長代理に命じた。闘いの予感から、ジンシンスの躰の裡から光が放たれ、仄青い肌のうえを呪文が蛇のように疾 った。
甲板長代理は畏怖を覚えながら敬礼すると、指示を待つ船員を振り向いて、大声で叫んだ。
「取舵いっぱい!」
だが、舵はまるで見えぬ手で掴まれているかのように、微動だにしない。
「と、取舵いっぱい!」
巨躯の男共が、腕に力瘤を盛りあがらせて掴むが全く動かない。見えぬ悪魔の手によって阻まれているかのようだ。
やがてキリキリと音がやむと同時におりた静寂は、不吉な予感をはらんでいた。
「旧神が出現した影響で、潮の流れが変わったんだ。あの船に何が起きたか知らないが、乗りこむしかなさそうだな」
ジンシンスの言葉を聞いた船員は、そろって青褪めた。
「右舷につけろ」
感情をまじえない平坦な調子で命じると、船員はぶつぶつ不平を口にした。こうも間断なく命の危機を感じさせる状況が続いては、心身を休める暇もない。
「俺が先にいく。もし敵に乗っ取られていたら、砲撃手は俺が片づける。お前たちは甲板を制圧しろ。物資は奪っていい」
その言葉は効果覿面 で、船員たちの眸がきらりと光った。
「船を制圧したら、物資は全部いただく。公平に分配するから、かすめとるなよ。背いたやつは海に沈めてやる。いいな?」
「アイアイサー!」
歓喜を帯びた唱和を放ち、船乗りたちはてきぱきと動き始めた。
霧に溶け消える横静索 を、恐れずに勢いよく登っていき、命綱もなしに器用に帆桁を渡り歩いては、帆面積を小さく折りたたんでいく。
船を動かしながら、甲板には滑り止めの砂がまかれ、白兵戦に備えて銛 や剣といった武器がずらりと並べられた。
天候は気が滅入るような曇天で、海と空は一つに
風が唸り、海が踊り、さらに異変が起きて、波、波、波の彼方に船影が見えた。
見張りについていた船員は、はじめ己の目を疑った。何度か
霧に隠れて船旗が見えないので国籍は不明だが、ともかく普通の客船や商船でないことは確かだ。千人を
「戦艦だぁッ!」
その声は殆ど絶望のように感じられた。
こちらは火薬も爆雷もない旧型帆船なのである。向こうはまったく阿修羅のごとく迫る勢いで、
すぐさま停船命令の信号旗が
霧を割って船首がのぞき、
「見ろよ、帝国の船旗を掲げているぞ」
「戦艦がなんでこんなところに?」
「幽霊船か?」
冷気の
先日の闘いの後、まる一日眠っていたジンシンスは、目が醒めるなり
「随分と面変りしていますが、あれは我々と出港した帝国船ですね」
シドは、顎に手をやって感想をくちにした。
「まるで数世紀も彷徨っていたみたいに、色褪せているな」
ジンシンスが相槌を打つと、シドはこう続けた。
「驚きましたねぇ。我々のように
彼の疑問は皆の思うところだった。
五十八日前にお目にかかったときは、艶光りしていた鋼鉄の装甲は、赤錆や
これは地獄からよこされた悪魔か?
命を
一体、この船に何が起きたのだろう?
共に王都を出航した帝国船ではあるが、見るも無残な禍々しい姿に、船員の誰も救援がきたとは思えなかった。
「なぜ信号旗をあげない? このまま突っこんでくる気か?」
「距離を置いた方がいいんじゃないか?」
船員は及び腰だ。
確かにお近づきになりたくはない異妖さだが、ジンシンスはまたとない好機に心を
五十八日前に行方をくらませた戦艦を、ずっと探していたのだ。あの船には、旧神を送り還すために必要な、“
「追走しよう。取舵だ」
ジンシンスは甲板長代理に命じた。闘いの予感から、ジンシンスの躰の裡から光が放たれ、仄青い肌のうえを呪文が蛇のように
甲板長代理は畏怖を覚えながら敬礼すると、指示を待つ船員を振り向いて、大声で叫んだ。
「取舵いっぱい!」
だが、舵はまるで見えぬ手で掴まれているかのように、微動だにしない。
「と、取舵いっぱい!」
巨躯の男共が、腕に力瘤を盛りあがらせて掴むが全く動かない。見えぬ悪魔の手によって阻まれているかのようだ。
やがてキリキリと音がやむと同時におりた静寂は、不吉な予感をはらんでいた。
「旧神が出現した影響で、潮の流れが変わったんだ。あの船に何が起きたか知らないが、乗りこむしかなさそうだな」
ジンシンスの言葉を聞いた船員は、そろって青褪めた。
「右舷につけろ」
感情をまじえない平坦な調子で命じると、船員はぶつぶつ不平を口にした。こうも間断なく命の危機を感じさせる状況が続いては、心身を休める暇もない。
「俺が先にいく。もし敵に乗っ取られていたら、砲撃手は俺が片づける。お前たちは甲板を制圧しろ。物資は奪っていい」
その言葉は効果
「船を制圧したら、物資は全部いただく。公平に分配するから、かすめとるなよ。背いたやつは海に沈めてやる。いいな?」
「アイアイサー!」
歓喜を帯びた唱和を放ち、船乗りたちはてきぱきと動き始めた。
霧に溶け消える
船を動かしながら、甲板には滑り止めの砂がまかれ、白兵戦に備えて