異海の霊火

3章:暗鬱な喚び声 - 6 -

 先陣をきって乗りこんだジンシンスは、甲板を見て眉をひそめた。ともかく危険はないと判断し合図を送ると、固唾をのんで号令を待っていた船員は、すぐさま戦闘の始まりを告げる船鐘を鳴らした。
 極限状態と暴力衝動に突き動かされ、簒奪者よろしく船員たちは、猛虎のように素早く、敏捷に、恐れを忘れて戦艦に踊りかかった。
 勇をして乗りんできた彼らだが、そこで見た光景に唖然となった。
 幾つもの白骨化した遺骸が甲板に無造作に横たわっていたのだ。はじめ驚き、すぐに戦慄を覚えた。一拍ののち、
「なんだこりゃ!?」
「死んでるじゃないか」
 口々に叫んでいた。極寒の大気より、なお冷たい震えが背筋を駆けおりていく。
 奇怪千万せんばん
 夥しい白骨といいすたれた艤装ぎそうといい、一世紀ないし数世紀の年月を感じさせる。とても五十八日前に別れた戦艦とは思えなかった。これでは本当に幽霊船だ。
 落ち着かぬ震える足取りで船員が甲板を歩いているとき、ジンシンスはとっくに昇降階段をおりて、船長室に脚を踏み入れていた。
 やはり長い星霜せいそうの姿が刻まれていた。
 緑青ろくしょうを吹いた茶器、鋲でとめられた一折版の本や海図は埃をかぶっていてかびだらけ、すべてのものが古めかしく、幾世紀もの昔の幽霊が宿っているようだ。 
 凍りついた時のなかで、ジンシンスはふたつ貴石を探しまわった。
 船長室、将校室、管制室を探したが見つからず、弾薬庫、船倉、厨房も探したが見つからない。ふたたび船長室に戻り、なにか見落としがないか注意深く探したけれども、何も見つけられなかった。
「どういうことだ?」
 思わず声にだしていた。
 首からさげたペンダントをあけて、なかに入っている黒貴石を確かめる。
 今ここにはない白貴石は、ここにある黒貴石と引きあう力が働く。ジンシンスにも微弱ながら感じられる引力だ。しかし、この船にあるなら、もっとはっきりとした力を感じられても良さそうなものだと不思議に思う。
 戦艦が時をこえて舞い戻ってきたことは、通信室にのこされた記録が証明している。少なくとも彼らは五〇〇日以上漂流し、救援信号を送り続けていた。誰からも応答のない絶望のなか、飢餓のあまり食人行為に及び、それも尽きて、最後は餓死したのだろう。
 そして人間が全滅した後も、船は漂流していた。その正確な期間は、管制室の記録などを調べる必要があるが、一世紀には及ぶはずだ。
 ――彷徨する無窮の異空間のなかで、白貴石は失われてしまったのだろうか?
 疲労を覚えずにはいられなかったが、ともかくいったん甲板へ戻ることにした。そろそろ船員たちが暴走していないか気掛かりだった。
 彼らは鯨波ときをあげながら、凄惨にして醜怪な白骨の散乱する甲板に、次々に物資を運びだしていた。
 いく樽分バレルもの小麦粉や酒、厚手の防寒具、宝石の象嵌ぞうがんされた羅針盤、海泡石の煙管きせる、真鍮の角灯らんたん、帝国金貨と荷は多いが、喜びの粒々辛苦りゅうりゅうしんくに文句を唱える者などいない。
 誰も彼もが極寒のなか焔を吐く活気で、自分たちの船に運びこんだ。
 戦利品を囲んで欣喜雀躍きんきじゃくやくする船員たち。ところが分配の段になると、やはりというか諍いが起きた。
「これは俺のだ!」
「ちきしょう、手を離しやがれ!」
 凶器を振りかざしての死闘を、冷静な者が止めようとする。
「馬鹿げた真似はよせ、公平に分配すればそれでいいじゃねぇか」
 それでも諍いをやめない連中を見、ある者がいった。
「金品が何の役に立つっていうんだ? 混淆こんこう海域を抜けたところで、帰る場所なんてねぇのによ」
「うるせぇ、終末の疫獣リヴァイアサンをやっつけさえすれば、死刑囚にも恩赦が認められるはずだ」
 目を血走らせて、荷を奪おうとする者がいい返すと、
「軍艦を見なかったのか? 老朽船みたいな有様で、水兵は全員白骨になっていたんだぞ。ああなるのに、どれくらい時間がかかると思う。何十年、もしかしたら何百年も漂流していたんだよ」
「そんな馬鹿げた話があるか。軍艦は俺らと同じ時に出港したんだぞ」
「忘れたのか、混淆こんこう海域では次元が歪むんだよ。この船と軍艦、帝国の時間軸は全部ずれちまったんだ。実際、帝国とずっと連絡が取れていないんだろ?」
「てめぇは何がいいたいんだ? 寝言は死んでからいえよ、阿呆」
「阿呆はてめぇだ! とどのつまり、俺らに帰る故郷なんてないってことだ。帝国はとっくに滅亡しちまったんだからよ!」
 沈黙が流れる。
 荷を奪おうとしていた者も、とっさに言葉を返せなかった。識意下のうちに、正鵠せいこくを射ていると思ってしまったからだ。
「……へっ、時間軸だ? 知ったことか。ごたくはいい。俺はこの目で見たことしか信じない。それが俺の信条だ。誰がなんていおうと、これは俺のものだ!」
 男は散弾銃をやや上向けて引き金をひき、弾丸は荷を争っていた男の喉を貫通した。頭の半分が帆桁まで吹っ飛び、薄肌色の脳漿のうしょうが垂れさがった。運の悪いことに、近くにいたホープも頭から血を流して甲板に倒れている。
 狼狽のどよめきが辺りを満たすなか、ジンシンスが顕れると、全員が気まずげに沈黙した。
 戦闘は不要のはずが、味方同士で流血沙汰である。ジンシンスはうんざりしたようにいった。
「馬鹿げた争いをするな。さっさと金品を倉庫に運びいれろ。それでも騒ぎたいなら、今ここで俺が殺してやるから名乗りでろ」
 異を唱える者は一人もいなかった。