異海の霊火

4章:終末の疫獣 - 1 -

 航海八十日目。氷原に錨泊びょうはくして十日目。
 仕事を終えて愛海が甲板にあがると、虎の子の鳴き声が聴こえた。
 即席の檻を覗きこむと、痩せ細ったみなしごの虎が喘いでいた。便と尿溜まりの異臭を放ち、毛皮は自らの汚物に塗れて元の色が判らなくなっている。綺麗にしてやりたいが、噛まれるのが怖くて触れない。
 火かき棒をつかってビスケットを檻のなかに押しこむと、たちまちなくなった。水をいれた器もいれてやると、小虎は赤い舌でぴちゃぴちゃと舐め始めた。
 愛海には理解不能だったが、子虎を捕まえてきたドーファンは、ちっとも世話をしなかった。
 売り飛ばすのが面倒になったのだろうか? それにしたって、捕まえた翌日にはもう無関心になるとは、何を考えているのだろう? 餓死させるつもりなら、どうしてわざわざ捕まえてきたのか理解に苦しむ。
 弱っていく子虎を見ていられずに、結局、愛海が面倒を見ていた。
 寒さには強いようだったが、檻に帆布を巻きつけ、風よけを作ってやり、水や残飯、ときには肉を与えるうちに、ぎりぎり餓死寸前は脱した。
 世話を始めたばかりの頃に、二匹いたうちの一匹は死んでしまったが、もう一匹は連れてきた時よりもふた回りは大きくなった。じきにこの檻も狭くなりそうだ。
 毛づくろいしたいのか遊んでいるのか、自らの尾を追いかけている子虎を眺めていると、荷袋を背負ったウルブスが近くにやってきた。
「まだ生きているのか」
「でも弱っていますよ。売るといっていたのに、ドーファンさんはどうして世話をしないのでしょう?」
 愛海が不平をこぼすと、ウルブスは肩をすくめた。
「あいつに生き物の世話なんてはなから無理なんだよ。どうせ忘れて、今頃阿片吸っていると思うぜ」
 容易に想像がついて、愛海は眉をしかめる。さらに文句をいおうとしたら、檻の後ろから見慣れぬ生き物がのそっと顔をだして、思わず悲鳴をあげた。
「うわっ、何あれ!」
 ウルブスは笑った。
「誰かが船に連れてきたんだろう。この間、鸚哥いんこと猿も見かけたぜ。ろくに世話もできねぇくせによ」
「えぇ? どうしよう」
 淡い黄金色の狐にも見えるが、大きな三ツ目の異様で、くちから覗く歯は鮫みたいに尖っている。
「放っておけよ、勝手に好きなところへいくさ」
 いいのかそれで? 愛海は疑問に思うが、またな、とウルブスは手を軽くあげて昇降階段の方へ歩いていった。
 残された愛海は彼の後ろ姿をしばし見つめて、再び狐に視線を戻した。
「ねぇ、どこからきたの?」
 左右を見回すが、狐に関心を払っているのは愛海だけだ。
 狐は、恐れを知らぬのか小虎の檻に近づいていく。子供とはいえ体格は既に狐と同等で、額に一角をもつ気性の荒い猛獣相手に、無邪気というか無謀な試みだ。
「ダメだよ、危ないよ」
 両者を近づけたくないが、うかつに手を差し伸べるのも噛まれそうで怖い。おたおたしていると、他の船員も集まってきた。
「おぅ、喧嘩か?」
 ふらりとドーファンもやってきて、期待の滲んだ声でいった。甘ったるい阿片の匂いを漂わせて、超精神弛緩状態にあることは一目瞭然である。
 観客が集まるなか、虎は臨戦態勢で狐を威嚇している。狐の方は、興味深そうに鼻をひくつかせ、檻の方へさらに近づいていった。
 虎が前足をふりおろし、狐を攻撃した。ぱっと鮮血が吹きあがり、狐は悲痛な叫びと共に甲板をのたうちまわる。
 眺めていた男たちが、やんやの喝采を送る。骨が露出するほどの負傷で、狐は自らの血と失禁した尿のなかをのたうちまわっている。
「シドさんを呼んできます!」
 愛海は真っ青になって駆けだそうとしたが、巨大な金槌を手にした大工が立ちふさがった。
「どいていろ」
 愛海が返事をする前に、磐のように巨大な手が愛海の肩を掴んで押しのけた。そして止める間もなく、男は金槌を振りおろした。
 ゴッ……狐の頭蓋は粉砕され、脳漿のうしょうと血が飛び散った。
 哀れな悲鳴はもう聴こえなかった。
 愛海は言葉がでてこなかった。衝撃のあまり精神麻痺状態に陥り、とるべき言動が判らずにいた。
「虎も殺してやろうか?」
 振り向いた大工が、非情な目で愛海に訊ねた。
「え……っと、いえ、飼い主は、ドーファンさんですから……」
 飼い主と呼んでいいのかはなはだ疑問だが、愛海の一存で決められることではない。男は、さも不思議そうに愛海を見つめた。
「なんだ、小僧が飼い主じゃねぇのか。いつも餌やってるから、てっきりお前の持ち物かと思ったぜ」
「そういうわけじゃ……」
 愛海はいいよどみ、ドーファンを振り向いた。しかし幻想世界にいる男は、ぼんやり空を仰いでいる。
 そのとき、近くにいた目ざとい男が、愛海の目の端に滲んだ涙に気がついた。
「まぁた、小僧が泣いてるぞ。こいつときたら、虫が死んでも泣きそうだな!」
 そういって笑うと、他の男も哄笑こうしょうに乗じた。愛海の赤面症が火を噴くと、笑いはさらに大きくなった。
 見世物にされたような屈辱的気持ちになって、愛海はしたを向く。立ち去ることもできずに口をかんしていると、大きな手が肩に乗せられた。
 驚いて顔をあげると、冷淡な表情でジンシンスは船員を睥睨へいげいしていた。
「げッ、船長!」
 男たちが慌てふためく。一方、愛海は安堵に胸を撫でおろした。
「喰うためなら、氷原の生き物を連れ帰っても構わないが、そうでないのならやめておけ。お前らに世話ができるとは思えん」
 船員が生きるために海の生き物を捕まえることを、海底人であるジンシンスは黙認している。生命維持に必要な限りは、自然の摂理だ。だが過剰な私利私欲は赦せなかった。
 今度は男たちが決まり悪げに視線をそらした。反駁はんばくを唱える者もなく、狐は食材にすべく厨房に運ばれ、その場は解散となった。