異海の霊火
4章:終末の疫獣 - 2 -
船長室。夕餉を共にしたあとふたりは、窓辺で寛いでいた。
会話はなくとも穏やかで静かな時間を共有し、ジンシンスは生 の蒸留酒を飲みながら、愛海は紅茶を飲みながら、ぼんやりと窓の向こうを眺めている。
月も星も見えない真闇 。幽 かな揺れもあいまって、洞 の宇宙を遊泳しているような錯覚に陥りそうになる。
「実は、残念な知らせがある」
唐突にジンシンスがいった。
思考の海から引き戻された愛海は、ジンシンスを仰ぎ見た。碧い双眸が静かに見つめ返してくる。
「“双 つ貴石”の片割れが、見つかりそうにないんだ」
「戦艦にはなさそうですか?」
「ない」
断じたジンシンスは、吐息をもらした。
「探し尽くした。海底をさらっても痕跡すら見つからない。旧神は返す気がないらしい」
船員が氷原の狩に興じている間、ジンシンスは戦艦を隈なく探しまわった。
船内に“双 つ貴石”はないと結論づけると、今度は海の底へ沈んだ可能性を考慮して、近辺の海底を洗いはじめた。
それでも見つからないとなると、さしものジンシンスも航海の帰趨 に諦念が射すのを禁じえなかった。ひとつ蓋然 性の仮説はあるが、実行に移すにたる根拠はない。
「すまない」
愛海はジンシンスを見たが、彼は胸のペンダントを摘まみ、祈るようにそれを額に押し当て、目を閉じた。
「可能性は五分といったが、限りなく零になった。すべて俺の責任だ」
「船長のせいではありません」
彼らしからぬ弱気な言 に、愛海は思わず詰め寄った。
「可能性は零ではないのですよね?」
「そうだが……かかる艱難 を考えると、旧神はなんとしても最後の審判をくだしたいのだと思えてならない」
すべて星々の定めたこと、因果応報の運命。海を穢す業 を積みあげた人間に、黄昏が訪れたのだ。疫病 は猖獗 を極め、喰らい尽くすだろう。
「そんな……」
「がっかりさせてすまない。航海はまだ続きそうだ」
「いえ、僕はジンシンスさんと一緒なら平気なので……あ、えっと、僕に謝る必要なんてないっていうか」
己の言 に狼狽える愛海を、ジンシンスは凝 っと見つめ、いきなり両腕で抱きしめた。
「あのっ?」
反射的に身を引こうとすると、抱きしめる腕に力がこめられた。ぶわっと全身が総毛たち、心臓が高鳴る。
鼓動が聴こえてしまうんじゃないかしらと心配しながら、愛海は、おずおずと広い背中に両腕を回した。大きな躰だ。とても両腕が回りきらない。強靭な躰に包まれながら、なぜか愛海も、彼を包みこんでいるような感じがした。
共感と慰めに充たされながら、ふたりとも黙って、互いを護るように抱きしめていた。
「愛海……」
彼が首筋に顔をうずめた瞬間、このうえなく奇妙で蕩けそうな感覚が愛海の体内を駆け抜けた。全身を強張らせると、ジンシンスは腕の力を弱めて、ゆっくり抱擁をほどいた。
「……ありがとう。情けないところを見せてしまったな」
はにかむジンシンスを見て、愛海の胸の奥処 は熱くなる。彼に必要とされている実感が、不思議なほど陶酔をもたらし、痛みを覚えそうなほど心を打った。
「いいえ! ジンシンスさんはいつでもとっても格好いいですよ」
興奮気味に答えながら、愛海は、距離の近さに気がついて身を引いた。
「正直なところ、俺は海さえ汚れなければそれで構わないんだ。人間の繁栄も滅亡にも興味がない。だが愛海は別だ。何があろうと、必ず安心できる居場所を見つけてやる」
騎士めいた真摯な誓いの響きを帯びていたが、愛海の心は哀切に翳った。
「……船をおりるのですよね?」
「ああ、役目を終えたらな。帝国は滅んでいるだろうし、この船を返す当てもなくなる。船は、船員に明け渡してやろうと思う」
「ジンシンスさんは?」
「すべてが終わったら海底王国に帰るさ。もしかして、愛海は船に残りたいのか?」
「いいえ」
即答すると、ジンシンスは安堵したようにほほえんだ。
「そうだよな……心配するな。悪いようにはしない」
黒髪を撫でながら、それから、翳りを帯びた目で愛海の目を覗きこんだ。
空気が変わるのを感じた。
ふたりの間の空気が親密さを増して、息の仕方が急に判らなくなる。視線を泳がせると、微笑する気配がして、長い指に顎をつかまれた。
「お前はすぐ紅くなるな」
恐々と視線をあわせると、碧い眸のなかに焔を見た気がした。血液が全身を駈け廻り、焼けつく冷気にも似た熱が身を焦がした。
「もう、からかわないでくださいっ」
愛海はなんとか冗談めかして腕を突っぱねた。少し空間が生まれたが、ジンシンスは愛海の腕を掴み、目を見つめたまま、手首の内側に唇を押し当てた。
「……戯れているわけではない。愛でているだけだ」
「~~っ」
心臓が止まるかと思った。真っ赤になって俯くと、指先で顎をもちあげられた。
「お前は小さくて弱くて、庇護対象で……子供だと思っていたんだがな」
「子供です、“貴方に比べたら”」
混乱のあまり、母国語がいりまじった。経験豊富な誘惑に抗う術などもたない。
「悪い、やりすぎた」
泣きそうになっている愛海を見て、ジンシンスは苦笑気味に身を引いた。
「怖がらないでくれ」
愛海は、おずおずと上目遣いにジンシンスを見つめた。
「ジンシンスさんは……」
「うん?」
「男の子が好きなんですか?」
ジンシンスは目を瞠り、それから愛海の低い鼻の天辺にキスをした。
「うひゃっ」
「そういった嗜好はないはずなんだが……俺も驚いている。最近はお前の仕草がいちいちかわいく見えて困っているよ」
愛おしげに見つめられて、愛海の鼓動はふたたび不規則に乱れ始めた。僕は男の子じゃないんです――いうべきだと思うが、舌がうまく動いてくれない。打ち明けることが本当に正解かも判らない。落ち着いて吟味したいのに、長い指先に黒髪をもてあそばれて、思考がちっともまとまらない。
「……ありがとうございます。そろそろ休みますね」
今夜はもう撤退した方が良さそうだ。腰を浮かそうとしたが、腕をまきとるように引っ張られて、広い胸のなかに抱きしめられた。
「そんな風に逃げるなよ」
「すみません……」
心臓が早鐘を打っている。彼が傍にいる限り無理だと思ったが、腕を撫でられるうちに、震えは落ち着いてきた。
「……怖がらせたいわけじゃない。今はこれだけでいい」
額にちゅっとキスが贈られる。
「お休み、愛海」
腕が離れた。
愛海は真っ赤な顔で、おやすみなさい、と弱弱しい声で答えた。立ちあがって衣装部屋へいくことを今度は赦された。
ひとりになると、膝をひきあげて腕でかかえた。ぼんやり照明の灯を見つめながら、はてしない想いに耽った。
この航海もいつか終わる。生き残れたとしても、ジンシンスと別れるときはやってくる。
愛海にとって、ジンシンスはこの世界の全てだ。彼の一言が、愛海のこれからを大きく変更せしめ得る。
苦しい時、寂しい時、家族を想うのと同じくらいに、ジンシンスを想う。曇天の彼方に故郷を思い描き、次の瞬間には、ジンシンスのことを考えている。
光彩陸離 たる庇護者は、すでに愛海の生きる指針であり、彼の勇敢さ、冷静さ、神々しさといったものが、心の奥底を常に流れているのだった。
船に残りたいかと訊かれたとき、本当は、彼と一緒にいたいと思った。
けれども、永劫に面倒をかけるのかという呵責や、また人間の身で海底に同行できるとも思えず、本心を披瀝 することは躊躇われた。
彼は航海を終えた後のことも考えてくれていた。それで十分だ。満足して然 るべきなのだ。心細くても――それ以上は望んではいけないのだと、己にいい聞かせた。
会話はなくとも穏やかで静かな時間を共有し、ジンシンスは
月も星も見えない
「実は、残念な知らせがある」
唐突にジンシンスがいった。
思考の海から引き戻された愛海は、ジンシンスを仰ぎ見た。碧い双眸が静かに見つめ返してくる。
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「戦艦にはなさそうですか?」
「ない」
断じたジンシンスは、吐息をもらした。
「探し尽くした。海底をさらっても痕跡すら見つからない。旧神は返す気がないらしい」
船員が氷原の狩に興じている間、ジンシンスは戦艦を隈なく探しまわった。
船内に“
それでも見つからないとなると、さしものジンシンスも航海の
「すまない」
愛海はジンシンスを見たが、彼は胸のペンダントを摘まみ、祈るようにそれを額に押し当て、目を閉じた。
「可能性は五分といったが、限りなく零になった。すべて俺の責任だ」
「船長のせいではありません」
彼らしからぬ弱気な
「可能性は零ではないのですよね?」
「そうだが……かかる
すべて星々の定めたこと、因果応報の運命。海を穢す
「そんな……」
「がっかりさせてすまない。航海はまだ続きそうだ」
「いえ、僕はジンシンスさんと一緒なら平気なので……あ、えっと、僕に謝る必要なんてないっていうか」
己の
「あのっ?」
反射的に身を引こうとすると、抱きしめる腕に力がこめられた。ぶわっと全身が総毛たち、心臓が高鳴る。
鼓動が聴こえてしまうんじゃないかしらと心配しながら、愛海は、おずおずと広い背中に両腕を回した。大きな躰だ。とても両腕が回りきらない。強靭な躰に包まれながら、なぜか愛海も、彼を包みこんでいるような感じがした。
共感と慰めに充たされながら、ふたりとも黙って、互いを護るように抱きしめていた。
「愛海……」
彼が首筋に顔をうずめた瞬間、このうえなく奇妙で蕩けそうな感覚が愛海の体内を駆け抜けた。全身を強張らせると、ジンシンスは腕の力を弱めて、ゆっくり抱擁をほどいた。
「……ありがとう。情けないところを見せてしまったな」
はにかむジンシンスを見て、愛海の胸の
「いいえ! ジンシンスさんはいつでもとっても格好いいですよ」
興奮気味に答えながら、愛海は、距離の近さに気がついて身を引いた。
「正直なところ、俺は海さえ汚れなければそれで構わないんだ。人間の繁栄も滅亡にも興味がない。だが愛海は別だ。何があろうと、必ず安心できる居場所を見つけてやる」
騎士めいた真摯な誓いの響きを帯びていたが、愛海の心は哀切に翳った。
「……船をおりるのですよね?」
「ああ、役目を終えたらな。帝国は滅んでいるだろうし、この船を返す当てもなくなる。船は、船員に明け渡してやろうと思う」
「ジンシンスさんは?」
「すべてが終わったら海底王国に帰るさ。もしかして、愛海は船に残りたいのか?」
「いいえ」
即答すると、ジンシンスは安堵したようにほほえんだ。
「そうだよな……心配するな。悪いようにはしない」
黒髪を撫でながら、それから、翳りを帯びた目で愛海の目を覗きこんだ。
空気が変わるのを感じた。
ふたりの間の空気が親密さを増して、息の仕方が急に判らなくなる。視線を泳がせると、微笑する気配がして、長い指に顎をつかまれた。
「お前はすぐ紅くなるな」
恐々と視線をあわせると、碧い眸のなかに焔を見た気がした。血液が全身を駈け廻り、焼けつく冷気にも似た熱が身を焦がした。
「もう、からかわないでくださいっ」
愛海はなんとか冗談めかして腕を突っぱねた。少し空間が生まれたが、ジンシンスは愛海の腕を掴み、目を見つめたまま、手首の内側に唇を押し当てた。
「……戯れているわけではない。愛でているだけだ」
「~~っ」
心臓が止まるかと思った。真っ赤になって俯くと、指先で顎をもちあげられた。
「お前は小さくて弱くて、庇護対象で……子供だと思っていたんだがな」
「子供です、“貴方に比べたら”」
混乱のあまり、母国語がいりまじった。経験豊富な誘惑に抗う術などもたない。
「悪い、やりすぎた」
泣きそうになっている愛海を見て、ジンシンスは苦笑気味に身を引いた。
「怖がらないでくれ」
愛海は、おずおずと上目遣いにジンシンスを見つめた。
「ジンシンスさんは……」
「うん?」
「男の子が好きなんですか?」
ジンシンスは目を瞠り、それから愛海の低い鼻の天辺にキスをした。
「うひゃっ」
「そういった嗜好はないはずなんだが……俺も驚いている。最近はお前の仕草がいちいちかわいく見えて困っているよ」
愛おしげに見つめられて、愛海の鼓動はふたたび不規則に乱れ始めた。僕は男の子じゃないんです――いうべきだと思うが、舌がうまく動いてくれない。打ち明けることが本当に正解かも判らない。落ち着いて吟味したいのに、長い指先に黒髪をもてあそばれて、思考がちっともまとまらない。
「……ありがとうございます。そろそろ休みますね」
今夜はもう撤退した方が良さそうだ。腰を浮かそうとしたが、腕をまきとるように引っ張られて、広い胸のなかに抱きしめられた。
「そんな風に逃げるなよ」
「すみません……」
心臓が早鐘を打っている。彼が傍にいる限り無理だと思ったが、腕を撫でられるうちに、震えは落ち着いてきた。
「……怖がらせたいわけじゃない。今はこれだけでいい」
額にちゅっとキスが贈られる。
「お休み、愛海」
腕が離れた。
愛海は真っ赤な顔で、おやすみなさい、と弱弱しい声で答えた。立ちあがって衣装部屋へいくことを今度は赦された。
ひとりになると、膝をひきあげて腕でかかえた。ぼんやり照明の灯を見つめながら、はてしない想いに耽った。
この航海もいつか終わる。生き残れたとしても、ジンシンスと別れるときはやってくる。
愛海にとって、ジンシンスはこの世界の全てだ。彼の一言が、愛海のこれからを大きく変更せしめ得る。
苦しい時、寂しい時、家族を想うのと同じくらいに、ジンシンスを想う。曇天の彼方に故郷を思い描き、次の瞬間には、ジンシンスのことを考えている。
船に残りたいかと訊かれたとき、本当は、彼と一緒にいたいと思った。
けれども、永劫に面倒をかけるのかという呵責や、また人間の身で海底に同行できるとも思えず、本心を
彼は航海を終えた後のことも考えてくれていた。それで十分だ。満足して