異海の霊火

4章:終末の疫獣 - 6 -

 鯨漁の片づけを終えた後、ジンシンスは海面に気泡があがっていると報告を受けて船橋ブリッジに向かった。
 海底から湧き起こる気泡は、終末の疫獣リヴァイアサン顕現の予兆だ。普段であれば距離をとって様子を見るところだが、このときは船を動かさないことにした。
「よろしいのですか?」
 念を押す管制員長に、ジンシンスはうべなう。一縷いちるの望みをかけた決断だった。
「ああ、帆を畳んで直進でいい」
 前回の顕現では戦艦が戻ってきた。“ふたつ貴石”の引力の為せる業だとすれば、今度こそ白貴石を取り戻せるかもしれない。
 海図を眺めながら、ふと愛海を思った。もう食事は済ませただろうか? もしかしたら、ジンシンスが戻るのを待っているかもしれない。一度船長室に戻って様子を見てこようか……と、顔をあげたとき、部屋に異次元めいた光が射した。
 多彩な光彩が煌めき、海洋生物が部屋のなかを横切っていく。
「なんだこれは!?」
 船員たちが驚嘆の声をあげる。ジンシンスは声にこそださなかったが、内心では驚いていた。
 終末の疫獣リヴァイアサンだ。
 近くに出現する可能性は考えていたが、真下・・に顕れるとは思っていなかった。
「死にたくなければ、ここを動くな」
 ジンシンスは鋭く命じると、扉を開いた。あるはずの廊下はなく、まばゆいばかりの光が躍る、下層の大衆部屋に通じていた。
 神秘的な海月くらげが宙を漂い、幻想めいた海の深奥しんおうのようだ。
「一体、どうなっているんです?」
 扉の向こうを覗きこんだ船員が、ぎょっとしたように訊ねた。
「旧神の出現で次元が交錯しているんだ」
 ジンシンスは冷静に答えたが、はぁ、と船員は気の抜けた返事をよこした。燦然たる光と色が波紋のように広がったり縮まったりする幻想世界に、すっかり目を奪われてしまっている。
「しっかりしろ。じきに消失も始まるぞ、死にたくなければ、耳栓をしてここを動かないことだ」
 そういってジンシンスは、恐れずに次元のしきいまたにかけた。
 大衆部屋では、多彩な煌めきが戯れるなか、鮮明な血の色が鮮やかに照り映えていた。ゴッサムが菫色の瞳に狂気を灯して、男たちを、クラムの信者を殺している。その姿を見て、ジンシンスは奇妙に納得がいった。
「クラムを殺したのはお前・・だな」
 疑問符のない疑問口調だった。
 動きを止めたゴッサムは、ジンシンスを振り向いた。菫色の瞳を煌めかせ、頬に血を撥ねさせたまま、穏やかに微笑した。
「はい、僕が殺しました」
 夢見るような口調で少年は続ける。
「今夜はに喚ばれたんです。最期の一滴ひとしずくまでに、全員殺さないといけません。あの男の手下は、全員殺すと決めていたんです」
「おい……」
 ぱっと駆けだした少年は、もう別次元に消えていた。ジンシンスが再びしきいをまたぐと、今度は食堂に通じていた。
 ここでも精神の狂った幽明世界の住人たちが、互いを短剣で切り刻んでいた。殺戮のなか、ホープだけはぼんやりと舷窓げんそうから幻想を眺めていた。しくもシドに脳みそを弄られたことで、洗脳を免れたのだろう。
 淫らで狂気のとりこになって、おぞましい醜態で、悪徳の限りを尽くす彼らを見るにつれ、ジンシンスの不安はいや増した。
(愛海は無事だろうな)
 船長室にいてくれるといいのだが、もししきいの外へをでてしまっていたら?
 想像するだけで、心臓を鉄の輪で締めつけられるような痛みが走る。
 早く彼女のもとへたどりつきたいが、光の揺らぎに悪戯に阻まれて、どうでもいい場所にばかり飛ばされる。まっすぐ歩廊を進んでいても、いきなり違う場所に繋がったりするのだ。
 操舵室に通じたときは、狂ったように舵を回している船員を見て、そいつを部屋から追いだした。これでは進むものも進まない。
 ――この船にはもう、まともな船員は残っていないのだろうか?
 鼓動が厭な音を立てはじめたとき、ようやく愛海を見つけた。彼女の瞳の輝きを見て、ジンシンスは心の底から安堵した。
「愛海!」
「ジンシンスさん!」
 弾かれたように駆けてくる愛海のもとへ、ジンシンスも素早く駆け寄った。彼女の後ろには、ジャンとジャンに支えられて立つウルブスもいた。
「良かった、探していたんです。これを渡したくて」
 ジンジンスの腕に愛海は軽く触れながら、拳を開いて見せた。
 小さな掌のなかにあるそれを見て、ジンシンスは驚きに目を瞠る。
「白貴石じゃないか! 一体どこで?」
「船長室で休んでいたら、嘘みたいに空間がねじ曲がって、目の前にこれが見えたんです。運よく掴むことができました」
「怪我はしてないか?」
「していません」
 ジンシンスは受け取った白貴石をぐっと握りしめると、愛海を抱き寄せ、頭のてっぺんにキスをした。
「お前は俺の幸運の女神だよ」
 真っ赤になる愛海を愛おしく思いながら、すべきことを冷静に考える。
 “ふたつ貴石”は、いわば超伝導超大型ならぬ超小型粒子加速器だ。
 同時に起動することで、霊妙で稀な元素、超高エーテルの素粒子衝突を実現させる。すなわち、生物が知りうる自然界の最小単位を突破して、超新星爆発を呼び起こすのだ。
 その途方もない無限のエーテルは、海底に留まっている旧神を宇宙的血脈の混淆こんこうに送るほどの、神にも等しい大いなる“力”である。
 この究極の往還魔法は、ジンシンスでなければ起動できない。
 しかし、終末の疫獣リヴァイアサンとの距離が近すぎる。
 己ひとりならどうとでも切り抜けられるが、この船を無事に守り切れるだろうか?
 巨大な海流を引き起こすことになるが、船を移動させている時間はない。早くしないと、終末の疫獣リヴァイアサンは次元の狭間に隠れてしまう。
「ジンシンスさん?」
 不安そうな愛海を見つめて、ジンシンスはその小さな肩に手を置いた。
「旧神を送り還す。全霊を賭けて船を護るが、凄まじい海流に襲われるだろう。帆柱に自分を結んで、どうにか堪えてくれ」
 愛海は強張った表情で頷いた。ジンシンスはウルブスとジャンを見やり、
「お前たちも身を護れ。愛海を頼む」
 命じられたふたりは力強く頷くと、もやいと索具を掴み、先ず愛海をくくりつけた。
 愛海は、かつて悪意から帆柱にくくられた経験があるが、今はまさしく身を護るために帆柱に囚われの身となった。ウルブスとジャン、他の船員も大急ぎで自らを捕虜よろしく帆柱や固定架台の一部になろうとしている。
 ジンシンスが船縁に立つと、愛海は帆柱にくくられたまま、大声をはりあげた。
「ジンシンスさん、お気をつけて!」
 海水青色かいすいせいしょくの髪を彗星のように閃かせて、ジンシンスは不適にも口角をもちあげてみせた。神秘の紋様がたくましい躰にみずちのごとく走る。足元に碧い魔法円を描き、宙に浮かびあがった。
 一秒、二秒、三秒――
 つぎの瞬間、天地霄壌しょうじょうを繋ぐ巨大な竜巻がった。
 青白く貫く雷霆らいていに空は切り裂かれ、此の世の終わりとばかりにとどろき、凄まじい閃光が行き交う。
 死をもたらすもの、蹂躙するもの、此の世のいかなる生き物をも凌駕する大きさの、異妖きわまりない終末の疫獣リヴァイアサンが吠え猛る。
「ヴオォォォォヴオオォォォォォォ!!」
 甲板は危険な角度に傾いたが、帆柱にくくられている愛海は転がらずに済んだ。一方で締めつけの甘かった船員が、悲鳴をあげながら海へ落下していった。
 耳をろうする驚天動地の轟音と共に、巨大な風浪ふうろうが二度、三度と甲板を襲った。
 凶まがしい稲妻も続いたが、船を直撃せずに、周囲にそれていく。
 不可視の膜に守られていても、船にかかる負担は深刻だった。幾度となく大きく傾き、戻る反動で帆柱に圧が入り、危険な罅が入った。
 ミシッ……ミシッ……不気味な音が大きくなる。幾度目かの傾きの後、ついに主帆柱メイン・マストが折れた。
「きゃあぁッ!!」
 柱にくくられた縄が破れて、愛海の躰は海へ放りだされた。
 悪魔の如き残虐な波濤はとうに攫われて、凄まじい海流に飲みこまれ、千尋ちひろの海底へと引きずりこもうとする。
 急速に光は遠のいて、愛海は意識が朦朧となるのを感じた。