異海の霊火

4章:終末の疫獣 - 7 -

 青、青、青、青が深まっていく。
 紺碧こんぺきから紺青こんじょう――なお昏い晦冥かいめいに躰が沈んでいく。
 全ての音が途絶えて、死の前兆に襲われた。
 これまでに何度も意識した死が、今度こそすぐ傍に感じられた。
 走馬灯のように、あらゆる記憶が脳裏をかけめぐった。
 一番最初の記憶――生まれたときのこと――誰もが笑顔で愛海の顔を覗きこんでいた。
“愛海”
 祝福するように、初めて呼ばれた名前。
 アルバムを一枚一枚開くみたいに、遠い日の記憶が蘇る。
 十二月の雪、白い吐息。一月の団欒だんらんめし最初の陽。二月の朔風さくふう、命芽吹く三月、愛海の生まれ月。四月の桜並木、降り注ぐ春の雪。五月に薫る鉄線蓮クレマチス。六月の雨、沿線に咲く紫陽花。七月の飛行機雲。八月の陽炎、うだる夏の暑さ。九月の蝉時雨、硝子めいた残暑。十月の金木犀、花をつけた垣根から漂う甘い香り。十一月の夜空、透度の高い星空。四季折々の景と千々の思い出が鮮やかに蘇る。
 おびただしい記憶を圧倒するように、脳裏にジンシンスの姿が浮かびあがった。
 めぐる十二月、十五歳。
 運命の法が働き、一刹那いちせつなの間に、星間宇宙の時間と空間の弥終いやはてに旅をした。
 一原子に変わり、再生されて、異海に堕ちて――ジンシンスに出会ったのだ。
 このような運命の経緯ゆくたてを、誰が想像できただろう?
 絶望ばかりの混淆こんこう海域で、辛い目にたくさんあったはずなのに、思いだされるのは、彼との暖かな記憶ばかりだ。
“愛海”
 私の名前。もう呼んでもらえないと泣いたら、これからは家族に代わって呼ぶといってくれた。言葉と意味を理解し、美しい発音で、彼だけが呼んでくれた。
 呪われた暗鬱な航海も、ジンシンスさえいてくれるのなら、天によみされし航海だといえる。どれだけ苦心惨憺を舐めようとも、前を向いて生きていける。
“愛海”
 今もどこかで、呼ばれている気がする。
 否、気のせいではない。呼ばれている。とてつもなく大きな、神聖で偉大な何か……碧い霊火が近づいてくる。
 半竜半魚のみずちだ。
 頸から頭は竜のようで、箒星ほうきぼしのように碧いたてがみを揺らめかせ、胴と長い尾は光沢のある青銀色の鱗に覆われている。手脚にひれをもち、大きな双翼には鈎爪がついている。
 竜のような鯨のような、巨大な、碧く煌めく優美ないきもの――海神わだつみ
 嗚呼、彼だったのだ。異海へ堕ちたときに、愛海を救いあげてくれた神聖ないきものは、彼だったのだ。

“愛海”

 海を伝わる声は、間違いなくジンシンスの声だった。
 今際いまわきわに呼び醒まされ、意識と躰が浮上していく。
 酸素が肺に流れこみ、むせながら、これは彼の魔術だと悟った。神秘の力で愛海を空気の泡に包み、瞬く間に海面へ押しあげようとしている。
 しゃぼん玉みたいに淡い虹色の膜に包まれた愛海は、水飛沫をあげて海面から飛びだし、そのまま宙を浮いて、船長室のバルコニーに静かにおろされた。全身で重力と地面を感じると同時に、ぱちんと気泡が消える。
「ジンシンスさん!」
 愛海は震える足で立ちあがり、手摺を掴んだ。
 海面を覗きこむと、船の周囲が碧い魔法円に輝いていた。
 この異常気象のなか、船が木っ端みじんにならぬよう、彼が海のなかから、護っているのだ。
 頭上には、渦巻く黒雲の円盤が覆いかぶさり、海面から巨大な竜巻が此の世の終わりとばかりに踊り狂っている。烈しく渦巻く漏斗ろうと状の暴風に、波も雨も雪も、全て巻きこまれて旋回していく。
 その中心に、終末の疫獣リヴァイアサンの巨体があり、少しずつ溶け消えていくのが見てとれた。
 放電光のような火花を飛び散らせながら、暗雲のとばりに秘されていく。海底から隆起しているがごとく旧神が、次元の彼方に消えようとしているのだ。
 船長室で待つべきかもしれない。けれども愛海は、身動きもせず海面と空とをじっと見つめていた。
 巨大な暗雲は烈しくうねり、渦となり、みるみるまに収斂しゅうれんしていく。しまいには凝縮された点となり、果敢はかなく消失した。
 それからの変化は驚くべきもので、冷たい雷雨から、しとしと暖かな涙雨に変わった。荒れていた海面も落ち着いていき、間もなく凪に覆われた。
 船が完全に安定したのを見てとり、愛海は甲板に駆けこんだ。帆柱は折れて木片が散乱しているが、ジャンもウルブスも無事だった。
「ジャン! ウルブスさん!」
 愛海が駆け寄ると、ふたりとも白い歯を見せて笑った。ウルブスは負傷しているが、命に別状はなさそうだ。
「良かった、無事だったんだな。海に落ちたから、もうだめかと思ったぞ」
 安堵したようにウルブスがいった。
「はい、ジンシンスさんが助けてくれました」
「船長は?」
「まだ戻らないんです。私を助けてくれたあと、船のしたに潜っていって、それっきり……」
 愛海は船縁に身を寄せて、海面を覗きこんだ。息絶えた船員が浮かんでいるのを見て、心臓が凍りつきそうになる。
(違う、ジンシンスさんが死ぬわけない。無事に決まっている。きっとどこかに……)
 海面を凝視していると、暖かな光に頬を撫でられた。不思議に思い顔をあげると、雲間から星光が射していた。
「あぁっ! 星……っ!?」
 思わず、愛海は震える声でいった。
 魔法みたいに、一望てのない霧が晴れていく。
 燦然と煌めく夜空を仰げば、天鵞絨ベルベッドのごとくなめらかな星光が全身に降り注いだ。
 星空だ。
 宇宙の天蓋が透けて見えるかのように、濃紺の夜空に、無数といえるほどの白い星が瞬いている。
 見惚れていると、水飛沫の音が聴こえて、足元に魔法円を敷いたジンシンスが顕れた。
「ジンシンスさん!」
 愛海の顔がぱっと歓喜に輝く。ジンシンスもほっとしたような表情で、船縁に着地した。
「無事か?」
「はいっ!」
 愛海は濡れるのも構わず、ジンシンスの胸に飛びこんだ。たくましい腕が背に回されて力強く抱きしめられると、心の底から安堵の念がこみあげた。
「怪我はありませんか?」
 顔をあげると、神々しい美貌が微笑した。濡れしたたる彼は、星明りをもらい受けて煌めき、さながら月の精霊みたいだ。
「平気だよ」
 その表情が、驚くほど優しくて、愛海は真っ赤になる。
 様子をうかがっていたジャンとウルブスが、そっと場を離れるほど、ふたりきりの世界をかもしていることに、当の本人たちは気づいていなかった。
「……ここへきて、初めて星を見ました」
 おずおずと抱擁をほどき、照れ隠しに愛海が視線を空に戻すと、ジンシンスも夜空に目を向けた。
 初めて目にする異界の星座が壮麗に広がっていて、そのあいだにも落ちてこんばかりの星屑が蒔かれている。
 夜空の贈りもののように、神秘的な極光オーロラも顕れて、光の帯がひるがえり、また花開く。
「わ――……すごい……」
 なんて綺麗なのだろう。
 いつもは瀝青れきせいを流したような海も、星明かりに照らされて、美しい青い起伏に、銀斑ぎんはんを燦めかせている。
 なんて綺麗。
 あまりの美しさに心が震えて、訳も判らず涙が溢れでた。するとジンシンスが黙って肩を抱き寄せてくれる。彼に寄り添いながら、時間も疲労も忘れて、夜空をふり仰ぎ、光の交響曲に見入っていた。
 やがて空は白み始め、菫色の彼誰刻かはたれどき
 ぱらぱらと、甲板には生き残った船員が集まってきた。
 流れていく高い薄雲の向こうから、黎明の光がめると、海は黄金きん色にきらきらとかがやき始めた。
 暖かな陽の光が、皆に等しく降り注ぐ。
 愛海がこの船に乗ってから九十日目にして、始めて太陽を拝むことができた。
 太陽。
 まばゆい光の尊さを、痛いほど感じる。気がつけば頬を涙が伝う。光陽の暖かさ、素晴らしさ、ありがたさが身に沁みて、涙が止まらない。
 この時ばかりは、誰も愛海をからかったりしなかった。泣いている者は、他にもいた。ウルブスもジャンも、手の甲で涙を押し拭っている。
 凶悪な無頼漢たちも、潤んだ瞳に、欣快きんかいの光を湛えて、熱狂的な歓呼を叫んだ。
「お天道様だぞぅ! 助かったんだ!」
 随喜渇仰ずいきかつごうのあまり、海へ飛びこむ者もいた。そのまま陸まで泳いでいきそうな者までいた。
 狂瀾もむべなるかな。彼等は愛海よりもさらに長いこと太陽の光を浴びていなかった。
 皆、青空と太陽、月と星が恋しかったのだ。
 日輪月輪にちりんがちりんつかさどる旧神の、世界に終焉をもたらすしょくは、終わりを告げたのだ。