異海の霊火

4章:終末の疫獣 - 8 -

 輝かしい日の出を見届けた後、愛海とジンシンスは船長室に戻った。
 幸いにして、多少調度が乱れているものの、窓も割れておらず、部屋はほぼ無傷だった。
「良かった、そんなに散らかっていませんね」
 愛海が安堵に胸を撫でおろすと、そうだな、とジンシンスも相槌を打ち、愛海の顔を覗きこんだ。
「腹は空いているか?」
「いいえ、それより眠くて」
「だな……少し休むか」
「はい。お休みなさい、ジンシンスさん」
 衣装部屋の方へいこうとする愛海の手を、ジンシンスは掴んだ。
「一緒に眠ろう」
「え……」
「また何か起きては困る」
 狼狽える愛海の手を引いて、ジンシンスは寝室に入ると、毛布をめくって、隣を叩いた。
「おいで」
「ぇ……でも……」
 愛海が真っ赤になって固まると、ジンシンスは素早く愛海の腕を掴んで、引きずりこんだ。
「ひゃぁっ!」
 ひんやりした腕に背中から抱きしめられて、鼓動が大きく跳ねる。
「大きな鼓動だな」
「ごめんなさい」
 愛海は真っ赤になった。
「いや、安心する。生きていると実感させてくれ」
 抱きしめられたまま、軽く手を握りしめられた。愛海は息を飲み、怖いような恥ずかしいような戦慄を感じた。とても振り向く勇気はないが、彼がどんな表情をしているのか、見てみたいと思った。
「お前はすぐ襲われるし、海に堕ちるし、動くなといっても動くし……今回は本当に肝が冷えたぞ」
「……すみません」
 慈しむように、大きな手が愛海の黒髪を撫でる。頬を撫で、耳のふちをなぞる。おかしな声がでそうになり、愛海は慌てて唇を噛み締めた。
「耳まで赤くなるんだな」
「ぅ……すみません」
 肩を縮こませると、背中ごしにジンシンスの微笑する気配がした。
「なぜ謝る。かわいいよ」
 彼は、掠めるように頬を愛海の頬に寄せ、殆どくちびるの横に、ちゅっ、とくちづけた。
 愛海は胸の奥に、痛みにも似た不思議な疼きを感じた。大声をあげたかった。笑いたかった。それとも、貝のようにくちをとざしていたかった。或いは、真実・・を知ってほしかった。
「……僕は、その……実は……」
 ――女なのだろう?
 心のなかで囁きながら、ジンシンスは細いうなじをそっと撫であげ、くちびるを押しつけた。
「ぁ、あのっ!」
「……判っている。これ以上はしない」
 ジンシンスは熱を帯びた頸筋から顔をあげると、黒髪に顔をうずめた。
「……眠ろう。起きてからまた話そう」
 彼が本格的に寝入る姿勢をとったので、愛海も千々に乱れた心を宥めながら、目を閉じた。緊張で眠れないかと思ったが、あっという間に疲労困憊のしんいた。
 夢も見ない深い眠りだった。
 穏やかな静寂しじま
 優しい時間が流れ――目を醒ました愛海は、ふと隣を見て時を止めた。
 静かな、神々しいばかりの顔。長い青銀色のまつ毛を伏せて眠っている、美しく完璧な海底人がそこにいた。
 多彩な碧に煌めく海水青色かいすいせいしょくの髪に指をすべらせると、絹のような触り心地に感動を覚えた。愛海の海栗うにのような髪とは大違いだ。
(……綺麗なひと……)
 海の秩序を守る破壊者であり保護者であり、雷鎚いかづちを呼び、大津波を起こす、魂のふるえるような秘密をもつ海神わだつみ――
 強大な力をもちながらしかし、穏やかに眠る姿は、天使のように優しい。
 とても静かだ。
 敷布のうえに投げだされた掌を見て、触れてみたい誘惑にかられた。愛海の手がすっぽり包まれるくらい大きくて、なめらかで、繊細だけど骨ばっていて、真珠色の爪は少し尖っている。
 爪の先にちょんと指で触れて、すぐに離した。
 ――何をしているのだろう?
 彼が目を醒ました瞬間を思うと、気恥ずかしさでどうにかなりそうだ。
 静かに、細心の注意を払って寝台をおりると、顔を洗って、衣装部屋に戻って身支度を整えた。
 暖炉のある居室に戻っても、彼が起きてくる気配はない。獅子奮迅ししふんじんの激闘を終えたばかりなのだから、無理もなかった。
 することもなくバルコニーにでると、世界が明るく輝いていた。
 太陽のが放たれて、水平線がきらきらと煌めいている。
 まばゆい日差しと、くっきり明るい空と海の境界線に、畏敬の念を覚える。長い間、灰色の空と海ばかり見ていたから、ことのほか新鮮に感じられる。
 海がこんなにも明るくて美しいなんて、昨日までは知らなかった。
 まだ実感が追いつかないが、不撓不屈ふとうふくつの骨董船は、確かに絶望の混淆こんこう海域を脱したのだ。
 晴れやかな感動はしかし、はてしない想いにふけるにつれてかげりを帯びた。
 命の危険が去り、将来のことに目を向ける余裕が生まれた今、先行きの見えない未来に改めて不安を覚えたのだ。
 船を降りたところで、行く当てなどない。家も仕事も、食べるものも、何も持たないという暗澹あんたんさが、重たく全身を浸していた。
 親切なジンシンスならば相談に乗ってくれると思うが、甘えるばかりの我が身が惨めで、心苦しい。かといって、立身の難しさには頭を抱える思いだ。
 ――いつまで一緒にいられるのだろう?
 船を降りたら、いずれは別々の道をゆくのだ。偶々居合わせた優しいジンシンスが、行き場のない愛海に手を差し伸べてくれていただけに過ぎないのだから。彼との間には、どんな関係もない。赤の他人なのだ。そういい聞かせながら、傷ついている。
 明るい陽射しにふさわしくない、長く、深いため息をついた。
 喉が渇いたので室内に戻ると、ちょうど彼がやってくるところだった。
「お早う、愛海」
 優しい微笑を見て、愛海も笑み返した。
「お早うございます」
 明るい船長室のなか、はにかむ愛海を見て、ジンシンスは眉を寄せた。
 いまさらながら、女性にあるまじき短髪に、胸が塞がるほどの哀憐あいれんを感じたのだ。
 庇護を必要としていながら十分に与えられず、男ばかりの討伐船に逃げこむしかなかった、かわいそうな娘。内気で怖がりなのに、仕事を覚えようといつも懸命で、年頃の娘が好みそうな奢侈しゃしや我がままは一度もくちにしたことがなかった。
 その少年のような恰好を見て、ジンシンスは今こそ娘らしい恰好をさせてやりたいと思った。
 ――淡い繻子が似合いそうだ。たっぷりの黄金きんの刺繍を施した薔薇色の錦織もいい。真珠は彼女の黒い瞳や髪に映えるだろう。
 船を降りたら、そうしてやろう。否、今からでも可能だ。実は、いつか渡せるかもしれないと衣装櫃を用意していたのだ。
「ちょっとここで待っていてくれ」
 ジンシンスは意を決して、衣装櫃を取りにいくと、愛海の足元に置いた。天鵞絨びろうどで縁取りされた箱を、愛海は不思議そうな顔で見ている。
「喜んでくれるといいが……贈り物がある」
 飴色の蓋を開くと、なかには、色とりどりの優雅な衣服や宝石がつまっていた。唖然とする愛海を、ジンシンスは注意深く見つめた。
「女の子が好きそうなものを、集めてみたんだが……どうかな?」
 沈黙。
 霊が通り過ぎるといわれるたぐいの長い一瞬があった。
 息を一継ぎする間、愛海は目を見開いたまま、言葉を失っていた。
 耳の奥で血潮の流れる音がする。心臓が早鐘を打って、今にも倒れてしまいそうだ。何かいわなければと思うが、今この瞬間、どんな言葉も思い浮かばなかった。
 気がついた時には、あたふたとジンシンスから距離をとり、部屋の中央まで逃げていた。