燈幻郷奇譚
1章:遠き月胡の音 - 5 -
雅やかな広間に入ると、食事の準備がされており、上座で一世と紫蓮が寛いでいた。
「亜沙子。こちらへおいで」
恐縮しながら上座に向かうと、一世は瞳に賞賛の色を浮かべてほほえんだ。
「よく似合っているよ」
亜沙子は、更紗 柄の二尺袖着物に錦紗 帯を締めていた。裾は金魚のようにひらひらしており、美しい光彩を放つ羽衣を纏う姿は、絵巻に描かれた天女を思わせる。
「ありがとうございます。素敵な衣装をお借りいたしました」
お辞儀すると、一世は無意識なのか尾を軽く揺らした。つい視線で追いかけてしまう。
我に返って着座しようとすると、お待ちくださいまし、と灯里がやってきて、繊細な透かし刺繍の入った前掛けを着せてくれた。
「かわいいね」
亜沙子の全身を眺めて、ふふっ、と一世は楽しそうに笑った。
「……ありがとうございます」
小さな子供になった気分で、亜沙子は照れを堪えながら、胡坐を掻く一世の隣に座った。
「部屋は気に入った?」
「はい、とても」
一世は満足そうに頷いた。
「良かった。部屋にあるものは、全て亜沙子のものだよ。足りないものがあれば、遠慮せずにいうといい」
「親切にしていただいて、本当にありがとうございます」
「亜沙子は礼儀正しいね」
「いえいえ、そんな……」
顔の前で手を振る亜沙子を、一世は小さな子供に向けるような眼差しで見ている。
視線を伏せながら言葉の接ぎ穂を探していると、湯気の立つ料理が、次から次へと運ばれてきた。瞬く間に、黒檀の座卓は大小の皿で溢れかえった。
桜鯛の造り、山菜の和え物、若鳥の蒸し焼き、ほうれん草のおひたし、色鮮やかなお新香……どれも美味しそうで、いたく食欲を刺激される。
「美味しい!」
口に含むと、不思議と力が漲 る気がした。
目を輝かせる亜沙子を見て、給仕する侍女と一世は笑みをこぼした。
「たんとお食べ。蓬莱山の作物には霊気が含まれている、食べるほどに元気になるから」
「こんなに美味しい食事、久しぶり……」
感動しつつ、はっきり美味と感じることに、やはりこれは夢ではないのかもしれないと思った。
贅沢な一時 だ。美しい邸に招かれ、綺麗な衣装を着て、美味しい料理に舌鼓を打って……夢でなければどんなにいいだろう。
「もう食べないのですか?」
腹が膨れて、箸を休める亜沙子を見て、紫蓮は眼を見張った。
「おなか一杯です」
「大して食べていないでしょう……貴方、顔が赤いですよ?」
「少し酔ったみたいです」
ここへくる前に呑んだビールが効いてきた。床に手をつく亜沙子の背を、一世は気づかわしげに撫でた。
「これをお飲み」
「ありがとうございます……」
渡された杯から、妙 なる香りが漂う。喉に流しこむと、不思議と身体が軽くなったように感じられた。
「わぁ、美味しい……お酒?」
まじまじと透明の液体を凝視する亜沙子に、一世は徐 に手を伸ばした。ひんやりした指先が頬に触れて、亜沙子はびくっと顔を上げた。
「一世さん?」
「頬が熱いね。澄花酒を飲んだせいかな? 目がとろんとして、眠ってしまいそうだよ」
「はい……ここへくる前にお酒を飲んでいたから、酔いが回ってきたんだと思います」
「ああ、なるほど」
「飲むと眠くなっちゃう性質 で……すみません、眠くて。休ませてもらっても良いでしょうか?」
「確かに、子供はもう眠る時間だ。部屋まで送っていこう」
「一人で戻れますから」
そういったものの、立ち上がると少し足元がふらついた。すかさず一世に支えられる。
「あれ……すみません」
「抱っこしてあげようか?」
「平気です! 歩けないほどじゃありません」
くすくす、と一世は微笑すると、一人で歩こうとする亜沙子の腰を攫うようにして腕を回した。
「あの、平気ですから」
「ちっとも平気そうに見えないよ。おとなしく私に送られなさい。いいね?」
「……はい」
有無をいわさぬ口調に、亜沙子は大人しく身体から力を抜いた。おずおずと一世の腕にもたれる。
触れあう体温の暖かさや、着物の上からでも判る力強い腕に、亜沙子の中で眠っている何かを呼び起こしそうになる。仄かな胸の高鳴りを抑えているうちに、部屋の前に着いた。
「ゆっくりお休み。着替えは灯里が用意してくれるよ」
「はい。ありがとうございます。お休みなさい」
会釈して顔を上げると、視線が絡んだ。一世は端正な顔を下げて、亜沙子の額に優しく口づけた。
「っ!」
扉の左右には護衛がいる。人目を気にする亜沙子と違い、一世は亜沙子だけを見つめてほほえんだ。
「また明日、亜沙子」
「はい……」
酒のせいではなく、朱くなった頬を隠すように亜沙子は俯いた。部屋に入ると、扉を背にして額を手で抑える。心臓は、烈しく音を立てて鳴っている。
「姫様?」
「は、はい!」
慌てて返事をすると、入ってもよろしいでしょうか? と扉の向こうから灯里に声をかけられた。
「どうぞ」
「お邪魔いたします。お仕度の手伝いに参りました」
丁寧にお辞儀をする灯里に、亜沙子も頭を下げた。
「お世話になります。あの、ここに置いてある化粧品を使っても平気でしょうか?」
象牙の卓に並べられた瓶を指さすと、もちろんでございます、と灯里はほほえんだ。
「お部屋にある物は、何でもご自由にお使いくださいまし。不足があれば、すぐにご用意いたします」
「ありがとうございます。何から何まですみません」
「我が主の仰せですから、ご遠慮なさらず。寝間着はこちらの衣装箪笥にしまってあります」
そういって、灯里は薄紅色の、袖にレースのついた長襦袢 を取り出した。絹の手触りは滑らかで、布は驚くほど軽い。
「お着替えを手伝いましょうか?」
亜沙子はちょっと考えて、首を振った。
「前を合わせて、帯で結べばいいんですよね? これくらいなら、一人で着れますから」
「かしこまりました。では、何かありましたら、呼鈴をお使いください」
「はい。ありがとうございます」
「お休みなさいませ、姫様」
「お休みなさい」
灯里が部屋から出ていくと、急に部屋が静かになったように感じられた。
「ふぅ……」
思った以上に酔っぱらっているようだ。けだるい身体を動かして、髪を解いて化粧を落とすと、薄紅の襦袢に着替えた。
寝台に横になると、泥のように重たい疲労感に襲われた。
思考はふわふわしていて、頭が働かない。考えるのは目が醒めてからにしよう。今夜は苦も無く、惰眠を貪らせてほしい。海の底に沈みこむように、深い眠りへと誘われていく……
「亜沙子。こちらへおいで」
恐縮しながら上座に向かうと、一世は瞳に賞賛の色を浮かべてほほえんだ。
「よく似合っているよ」
亜沙子は、
「ありがとうございます。素敵な衣装をお借りいたしました」
お辞儀すると、一世は無意識なのか尾を軽く揺らした。つい視線で追いかけてしまう。
我に返って着座しようとすると、お待ちくださいまし、と灯里がやってきて、繊細な透かし刺繍の入った前掛けを着せてくれた。
「かわいいね」
亜沙子の全身を眺めて、ふふっ、と一世は楽しそうに笑った。
「……ありがとうございます」
小さな子供になった気分で、亜沙子は照れを堪えながら、胡坐を掻く一世の隣に座った。
「部屋は気に入った?」
「はい、とても」
一世は満足そうに頷いた。
「良かった。部屋にあるものは、全て亜沙子のものだよ。足りないものがあれば、遠慮せずにいうといい」
「親切にしていただいて、本当にありがとうございます」
「亜沙子は礼儀正しいね」
「いえいえ、そんな……」
顔の前で手を振る亜沙子を、一世は小さな子供に向けるような眼差しで見ている。
視線を伏せながら言葉の接ぎ穂を探していると、湯気の立つ料理が、次から次へと運ばれてきた。瞬く間に、黒檀の座卓は大小の皿で溢れかえった。
桜鯛の造り、山菜の和え物、若鳥の蒸し焼き、ほうれん草のおひたし、色鮮やかなお新香……どれも美味しそうで、いたく食欲を刺激される。
「美味しい!」
口に含むと、不思議と力が
目を輝かせる亜沙子を見て、給仕する侍女と一世は笑みをこぼした。
「たんとお食べ。蓬莱山の作物には霊気が含まれている、食べるほどに元気になるから」
「こんなに美味しい食事、久しぶり……」
感動しつつ、はっきり美味と感じることに、やはりこれは夢ではないのかもしれないと思った。
贅沢な
「もう食べないのですか?」
腹が膨れて、箸を休める亜沙子を見て、紫蓮は眼を見張った。
「おなか一杯です」
「大して食べていないでしょう……貴方、顔が赤いですよ?」
「少し酔ったみたいです」
ここへくる前に呑んだビールが効いてきた。床に手をつく亜沙子の背を、一世は気づかわしげに撫でた。
「これをお飲み」
「ありがとうございます……」
渡された杯から、
「わぁ、美味しい……お酒?」
まじまじと透明の液体を凝視する亜沙子に、一世は
「一世さん?」
「頬が熱いね。澄花酒を飲んだせいかな? 目がとろんとして、眠ってしまいそうだよ」
「はい……ここへくる前にお酒を飲んでいたから、酔いが回ってきたんだと思います」
「ああ、なるほど」
「飲むと眠くなっちゃう
「確かに、子供はもう眠る時間だ。部屋まで送っていこう」
「一人で戻れますから」
そういったものの、立ち上がると少し足元がふらついた。すかさず一世に支えられる。
「あれ……すみません」
「抱っこしてあげようか?」
「平気です! 歩けないほどじゃありません」
くすくす、と一世は微笑すると、一人で歩こうとする亜沙子の腰を攫うようにして腕を回した。
「あの、平気ですから」
「ちっとも平気そうに見えないよ。おとなしく私に送られなさい。いいね?」
「……はい」
有無をいわさぬ口調に、亜沙子は大人しく身体から力を抜いた。おずおずと一世の腕にもたれる。
触れあう体温の暖かさや、着物の上からでも判る力強い腕に、亜沙子の中で眠っている何かを呼び起こしそうになる。仄かな胸の高鳴りを抑えているうちに、部屋の前に着いた。
「ゆっくりお休み。着替えは灯里が用意してくれるよ」
「はい。ありがとうございます。お休みなさい」
会釈して顔を上げると、視線が絡んだ。一世は端正な顔を下げて、亜沙子の額に優しく口づけた。
「っ!」
扉の左右には護衛がいる。人目を気にする亜沙子と違い、一世は亜沙子だけを見つめてほほえんだ。
「また明日、亜沙子」
「はい……」
酒のせいではなく、朱くなった頬を隠すように亜沙子は俯いた。部屋に入ると、扉を背にして額を手で抑える。心臓は、烈しく音を立てて鳴っている。
「姫様?」
「は、はい!」
慌てて返事をすると、入ってもよろしいでしょうか? と扉の向こうから灯里に声をかけられた。
「どうぞ」
「お邪魔いたします。お仕度の手伝いに参りました」
丁寧にお辞儀をする灯里に、亜沙子も頭を下げた。
「お世話になります。あの、ここに置いてある化粧品を使っても平気でしょうか?」
象牙の卓に並べられた瓶を指さすと、もちろんでございます、と灯里はほほえんだ。
「お部屋にある物は、何でもご自由にお使いくださいまし。不足があれば、すぐにご用意いたします」
「ありがとうございます。何から何まですみません」
「我が主の仰せですから、ご遠慮なさらず。寝間着はこちらの衣装箪笥にしまってあります」
そういって、灯里は薄紅色の、袖にレースのついた
「お着替えを手伝いましょうか?」
亜沙子はちょっと考えて、首を振った。
「前を合わせて、帯で結べばいいんですよね? これくらいなら、一人で着れますから」
「かしこまりました。では、何かありましたら、呼鈴をお使いください」
「はい。ありがとうございます」
「お休みなさいませ、姫様」
「お休みなさい」
灯里が部屋から出ていくと、急に部屋が静かになったように感じられた。
「ふぅ……」
思った以上に酔っぱらっているようだ。けだるい身体を動かして、髪を解いて化粧を落とすと、薄紅の襦袢に着替えた。
寝台に横になると、泥のように重たい疲労感に襲われた。
思考はふわふわしていて、頭が働かない。考えるのは目が醒めてからにしよう。今夜は苦も無く、惰眠を貪らせてほしい。海の底に沈みこむように、深い眠りへと誘われていく……