燈幻郷奇譚
1章:遠き月胡の音 - 6 -
燈幻郷にきて早々、亜沙子は熱をだした。
目を醒ますと、大抵は傍に心配そうな顔をした灯里や一世がいて、彼等の頭にはやはり三角の耳がついていた。
寝こんでからも暫くは、我が身に降り懸 かった摩訶不思議な神隠しを、どこか夢見心地に捕らえていたけれど、目を醒ます度に少しずつ現実に引き戻されていった。
悠久の苑 。美しい天狼達。降るような満点の星空に、蒼白い大きな月と桜の群……現実なのだ。
日本に二度と帰れないといわれても、さほどショックはなかったが、今後の生活を思うと胸に不安が過 った。
一世は、亜沙子が不安そうな顔をする度に、ゆっくり身体を治しなさい、優しく言葉をかけて黒髪を梳いた。
「……亜沙子?」
ふと目を醒ますと、寝台の傍に優しい瞳をした一世がいた。
「澄花酒を飲んでほしいのだけれど、起きれる?」
「……はい」
一世は、力の入らない亜沙子の身体を優しく抱き起こして、背中にクッションを挟みこんだ。
口元に運ばれた湯呑を亜沙子が受け取ろうとすると、口を開けなさいと一世はいった。開いた唇から、温めた澄花酒が流れてくる。少しずつ飲む様子を、一世は目を細めて見つめている。
「よく飲めたね」
「……ありがとうございます」
喉が潤い、しわがれた声は少し良くなった。
「まだ熱がある。もう少し休んだ方がいい」
柔らかく肩を押されて、亜沙子は大人しく横になった。端正な顔を仰いで、ほぅっと息を吐く。
優しくて、夢のように綺麗な男 。
一世に拾われて本当に良かった。寄る辺ない世界で、赤子も同然の亜沙子を、彼は一族の暮らす郷に迎えてくれた。傍にいて、安らぎを与えてくれる。
出会って間もない一世に、亜沙子は全幅の信頼を寄せていた。
郷の天狼は、皆優しい。
病気知らずな彼等は、熱に喘ぐ亜沙子を見てすっかり動揺していた。侍女達はこちらが恐縮するくらい、音を立てぬように部屋に出入りし、献身的に看病してくれる。
早く治したいが、微熱はしばらく続いた。
熱は上がったり下がったりを繰り返し、調子がいいかと思えば、下降する。
寝苦しくて眠れない夜、亜沙子は寝汗が気持ち悪くて寝台から起き上がった。
新しい襦袢に着替えると、月光に誘われて窓辺に寄った。空には、ぼぅっと蒼白い満月が浮かんでいる。
夜空を仰いでぼんやりしていると、控えめに扉を開く音が聴こえた。
「はい?」
部屋に入ってきた一世は、窓辺に立つ亜沙子を見て目を瞠った。
「亜沙子? 具合が悪いのだから、寝ていないと」
「すみません。目が醒めちゃって……」
傍へやってきた一世は、そっと亜沙子の背中を抱きしめた。熱で理性が緩んでいるせいか、恥ずかしいと感じなかった。寄り添う温もりが心地いい。
「もうお休みよ。寂しければ、添い寝をしてやろうか?」
「……間に合っています」
一世は小さく笑った。亜沙子が再び寝台に上がると、毛布を胸までかけて、あやすように上からぽんぽんと軽く叩いた。
「目を閉じて」
いわれた通りに、瞼を下ろす。長い指が前髪を梳く。うっとりしていると、額に柔らかなものが触れた。一世の唇……こんな風に、男に甘やかされるのは初めての経験かもしれない。
くすぐったくて面映ゆい。
胸の底が温まるのを感じながら、今となっては知る由 もない、多情であった母のことを懐かしく思い出した。
母は、楚々 とした儚げな人だった。
ほっそりと小柄で、幾つになっても柳のようにすらりとした体形を維持していた。
夏でも白いブラウスのボタンを上まできっちり留めて、紺地のハイウェストのロングスカートに、ベージュのパンプスを履いて、上品な秘書のように見せていた。
化粧は控えめで、肩で揃えられた髪は、いつでも綺麗に黒染めされていた。
だが、清楚な外見からは想像もつかぬほど、烈しい恋に一途だった。
相手は父ではない。
亜沙子が小学生の頃に両親は離婚した。お互いに好きな相手が別にいて、揉めた末の破局だ。
当時は両親の事情を素直に受け留められず、一緒に暮らせないことが不満だった。
新築の家を母に残して、父は出ていった。
母と二人暮らしを始めても、ささくれだった態度をやめられずにいた。亜沙子が針鼠のように毛を逆撫でている時、母は弁明も泣き言も口にせず、寂しそうな顔をするだけだった。
母の、秘められし情熱を垣間 見たのは、中学生に上がる頃だ。
ピアノの稽古が予定よりも早く終わって帰宅してみたら、しんと静まり返った家の奥から、きいたことのない母の喘ぎ声が聴こえた。
仄暗い廊下の奥。
襖 の隙間から、幽 かな光が漏れていた。
得体の知れない、秘めやかな熱気を孕んだ空気を感じて、うなじの毛が逆立った。とても怖かった。母に声をかけることはせず、そのまま家を飛び出した。
そのあとも、何度か二人の秘めやかな逢瀬を気取ることがあり、中学三年生の夏、我慢しきれずに母に問い質した。
父とは離婚しており、母が新たに恋人を作るのは彼女の自由なのだが、当時はそう思えず、父と自分を裏切る不貞のように感じていた。
その時も、母は弁明などしなかった。眼淵 に涙をためて、ごめんね、と頭を下げるのだ。
悲しげな眼差しには苦悩が滲んでいて、そんな顔を見てしまうと強くは詰 れず、歯がゆく思いながらも口を閉ざした。
それからしばらくして、母の恋人に家庭があると知り、亜沙子は愕然とした。
母の情熱は、誰にも祝福されない、報われぬ、道ならぬ恋だった。
ある日、具合が悪くて学校を早退すると、家の前でばったり男と鉢合わせたことがある。こそこそと母に会いにきたのだと思ったら、瞬時に頭が煮えて、気がつけば台所に走っていた。何事かと目を見張る母を無視して、荒塩をわし掴んで戻ると、
「帰れッ! 二度とくるな! 今度見たら、警察を呼んでやるッ」
玄関で様子をうかがうように立っている男の顔に、思いきり叩きつけた。
鬼の形相でわめく亜沙子を、男は陰った表情で見ていたが、文句もいわず、静かに頭を下げて出ていった。
廊下に佇む母は、哀しい目で亜沙子を見ていた。
別れた方がいい――諭 す亜沙子の言葉に母はいつでも耳を傾けたが、だからといって男と別れることはなかった。
ごめんね、と項垂れる姿を見る度に、鬱憤はたまっていった。
不毛な家族が憎い。
亜沙子と母を捨てた父が憎い。母を幸せにしてやれない男が憎い。いつまで経っても亜沙子を顧みない母が憎い。
涯 てのない蟻地獄だ。
亜沙子も母も腰までどっぷり浸かって、二度と抜け出せない深みまで堕ちてしまった……
ガラガラガラッ!
窓の外がカッと発光し、大地を切り裂くような雷鳴が轟いた。
「うあぁっ!」
亜沙子は悲鳴を上げて、跳ね起きた。
心臓がどくどく、音を立てて鳴っている。全力疾走したかのように、ぐっしょり汗を掻いていた。
ざぁっと叩きつけるような雨の音に混じって、部屋の外から、発条式の柱時計が、ボォーン、ボォーン、と深夜を告げた。
怖くてたまらない。
両耳を塞いで、縮こまっていると、白檀 が香り、強く大きな何かに包み込まれた。
「っ!」
暖かい。服の上からでも判る、しなやかで鋼のような肉体。
「亜沙子」
一世は優しく名前を呼んで、宥めるように亜沙子の背を撫でた。強張りはすぐにほどけた。身体から余計な力が抜け落ちていく。
「……一世さん?」
「そうだよ」
暗闇に、朱金の明かりが灯った。一世は雲雀を象 った手燭 を棚に置くと、亜沙子の顔を覗きこんだ。
「大丈夫?」
「すみません、夜中に……大きな声を出したりして」
「いいんだよ。怖い夢でも見たの?」
「……ちょっと」
「大丈夫、怖いことは何もないよ」
灯に照らされ、一世の輪郭は淡い金色に縁取られている。幽玄的な美に魅入られ、亜沙子は夢と現 の境目が判らなくなった。
「やっぱり、夢を見ているのかな……」
「いいや。亜沙子はちゃんとここにいるよ」
一世はやわらかく亜沙子を押し倒すと、そっと覆い被さった。頬を撫でて、髪を梳き、額に唇を押し当てる。
温もりに包まれて、亜沙子の視界が潤んだ。優しい慰めが、心の底に溜まった澱 を浚ってゆく。
「……母が苦手でした。家族のことを想っている風で、自分のことしか考えていない人だった」
一世は、黙って耳を傾けている。人に家族の話を聞かせるのは抵抗があったのに、不思議と一世に対しては、するりと言葉が出てきた。
「母は、父と離婚する前から不倫をしていて、相手にも家庭があったんです。すごく嫌だった。結局、判り合えないまま、私が家を飛び出して、それっきり……」
襟をきつく握りしめる亜沙子の手を、一世は優しく撫でた。
「ずっと忘れていたのに。どうして今頃、こんなことを思い出すんだろう……」
熱にあえぐ亜沙子の顔を、一世は優しく撫でた。
「会いたい?」
「……どうでしょう」
母にまつわる感情は複雑で、単純に会いたいかと訊かれても、素直に頷けなかった。母との記憶は、愛しくもあり憎くもある。
「亜沙子の母君が、息災であるように祈っておこう」
重く錯綜 する想いを、一世は全て見知っているかのようにほほえんだ。
「……ありがとうございます」
暖かい一世の腕の中で、亜沙子は静かに泣いた。
微熱は続き、うつらうつら夢と現 を彷徨った。怖い夢を見て跳ね起きることもあったけれど、傍にはいつも優しい一世がいた。
少しずつ、少しずつ、良くなっていった。
体力が戻ってくると、桜の樹皮で煎れた薬草茶を飲むようになった。これが苦くてたまらない。
「苦い~」
涙目で文句をいう亜沙子の唇を、一世は優しく撫でた。ご褒美とばかりに、氷砂糖を口に放りこむ。
「よく我慢したね。えらいね、亜沙子」
「……」
優しく頭を撫でられ、亜沙子は閉口した。
何日も寝こんでしまったせいで、一世を始めとする天狼達は、亜沙子をすっかり小さな子供だと思いこみ、際限なく甘やかそうとしてくるのだ。
「美味しかった。ごちそうさまです」
亜沙子が礼をいうと、一世は優しい三日月のように瞳を細めた。
「もうお休み」
神秘的な青と金の光彩が、夕映えの中で瞬いている。
空は東雲 色に染まり、窓から差しこむ斜陽が、一世の輪郭を神秘的な金色に縁取っていた。
「どうしたの?」
「……いいえ、なんでも」
見惚れていたことを誤魔化すように、亜沙子は瞬きをした。
なんて綺麗な男 なのだろう。胸の中で、もう何度目か判らぬため息をついて、亜沙子は寝台に横になった。
更に日が経ち、固形物を口にできるようになると、天狼達は大いに喜んだ。
特に一世は、頻繁に亜沙子の部屋を訪ねては、手ずから食べ物を与えたがった。
今も、水蜜桃の入った器を受け取ろうと手を伸ばしたら、さっと器を遠ざけられた。
「ほら、口をあけてごらん」
「自分で食べれますから」
「遠慮はいらないよ」
「そういうわけじゃなくて……」
匙に手を伸ばすと、さっと避けられてしまう。一世は瞳を輝かせて亜沙子を見ている。期待に背けず、おずおずと口を開くと、甘い蜜の味が舌に乗った。
もう大分復調しているのだが、過保護な天狼は亜沙子が寝台から降りることを許さなかった。
その間、退屈を持て余す亜沙子に、灯里は天狼の歴史をダイジェストで教えてくれた。
遥か昔――
天狼の祖先は、神々の住む蓬莱山の高所に住んでいた。
天帝の藩屏 として、山の秩序と不老不死の霊薬、澄花酒を護り、平和に暮らしていたという。
しかし、麓 に人間が住むようになると、澄花酒を盗もうとする人間との戦いに傷つき、或いは狼信仰の魔除けの為に狩りつくされ、絶滅してしまう。
哀れに思った天帝は、狼の御霊 をすくいあげ、上位次元への転生を赦した。
彼らは狼と人の二つの姿を持ち、地上に生きる人間に狩られることのない、背に羽を持つ天狼として悠々と空を翔けることができた。
天帝は、人間に蓬莱山の立ち入りを禁じた。
互いの住処を夜那川で分かち、蓬莱山に連なる桜の大樹に結界を敷いた。麓にお社 を建立 し、天狼を祀 るよう人間に命じた。
秩序を守れば、褒美に澄花酒を与える――天帝の言葉を、人間は受け入れた。
そうとは知らず、あの日、亜沙子が飲んだビールに紛れていた澄花酒は、本来は蓬莱山の麓に栄える大国、彩国の大王へ届けられるはずだったという。
天狼は狼の輪廻転生といわれているが、中でも前世の記憶を持つ徳の高い天狼は、群れを良く率いるらしい。
前世を持つ天狼の中で、最も力ある天狼を天狼主 と呼び、一世の名を受け継ぐ。亜沙子を拾ってくれた天狼主は、四百十七代目の一世である。
輪廻を記憶している天狼は人間を忌避する。特に絶滅に追いやられた彩国の人間のことは蛇蝎 の如く嫌っていた。
一世は、彩国へ澄花酒を渡さずに済んだことを喜んでいた。異郷からきたとはいえ、人間である亜沙子を気に入った背景には、そうした事情もあったのだろう。
尚、灯里も前世を覚えているという。
外見年齢は亜沙子より年下だが、妙に老成した雰囲気を醸しているのは、そういう事情があるようだ。
亜沙子の常識からかけ離れた異世界事情を、すぐに理解することは難しいが、彼等の思想や生活を知るにつれて、少しずつ理解できるようにはなってきている。
結婚はしていないのか訊ねると、うふふ、と灯里は少女のようにほほえんだ。
「番 ならおりますよ。千年天満 で評判の悉皆屋 をしています。もし、お着物でお困りのことがあれば、いつでもご相談くださいな。あの人に見てもらいますから」
と、頬を染めて話す姿は愛らしかった。
千年天満は、蓬莱山の麓にある里で、天狼を祀 るお社がある。そこでは人と妖 が共存して暮らしており、大きな祭祀には神仙も降りてくるらしい。
「姫様は、意中の殿方はいらっしゃるのですか?」
「え?」
「もしや、我が主でございますか?」
「えぇっ?」
目を輝かせる灯里を見て、亜沙子は狼狽えた。
「違います。そんな人、私にいませんよ」
灯里は口を上品に手で覆いながら、そうですか、と頷いた。それ以上は言及しようとしなかったが、面白がっているのだろう。琥珀の瞳をきらきらと輝かせて、尾は忙しなく揺れていた。
目を醒ますと、大抵は傍に心配そうな顔をした灯里や一世がいて、彼等の頭にはやはり三角の耳がついていた。
寝こんでからも暫くは、我が身に降り
悠久の
日本に二度と帰れないといわれても、さほどショックはなかったが、今後の生活を思うと胸に不安が
一世は、亜沙子が不安そうな顔をする度に、ゆっくり身体を治しなさい、優しく言葉をかけて黒髪を梳いた。
「……亜沙子?」
ふと目を醒ますと、寝台の傍に優しい瞳をした一世がいた。
「澄花酒を飲んでほしいのだけれど、起きれる?」
「……はい」
一世は、力の入らない亜沙子の身体を優しく抱き起こして、背中にクッションを挟みこんだ。
口元に運ばれた湯呑を亜沙子が受け取ろうとすると、口を開けなさいと一世はいった。開いた唇から、温めた澄花酒が流れてくる。少しずつ飲む様子を、一世は目を細めて見つめている。
「よく飲めたね」
「……ありがとうございます」
喉が潤い、しわがれた声は少し良くなった。
「まだ熱がある。もう少し休んだ方がいい」
柔らかく肩を押されて、亜沙子は大人しく横になった。端正な顔を仰いで、ほぅっと息を吐く。
優しくて、夢のように綺麗な
一世に拾われて本当に良かった。寄る辺ない世界で、赤子も同然の亜沙子を、彼は一族の暮らす郷に迎えてくれた。傍にいて、安らぎを与えてくれる。
出会って間もない一世に、亜沙子は全幅の信頼を寄せていた。
郷の天狼は、皆優しい。
病気知らずな彼等は、熱に喘ぐ亜沙子を見てすっかり動揺していた。侍女達はこちらが恐縮するくらい、音を立てぬように部屋に出入りし、献身的に看病してくれる。
早く治したいが、微熱はしばらく続いた。
熱は上がったり下がったりを繰り返し、調子がいいかと思えば、下降する。
寝苦しくて眠れない夜、亜沙子は寝汗が気持ち悪くて寝台から起き上がった。
新しい襦袢に着替えると、月光に誘われて窓辺に寄った。空には、ぼぅっと蒼白い満月が浮かんでいる。
夜空を仰いでぼんやりしていると、控えめに扉を開く音が聴こえた。
「はい?」
部屋に入ってきた一世は、窓辺に立つ亜沙子を見て目を瞠った。
「亜沙子? 具合が悪いのだから、寝ていないと」
「すみません。目が醒めちゃって……」
傍へやってきた一世は、そっと亜沙子の背中を抱きしめた。熱で理性が緩んでいるせいか、恥ずかしいと感じなかった。寄り添う温もりが心地いい。
「もうお休みよ。寂しければ、添い寝をしてやろうか?」
「……間に合っています」
一世は小さく笑った。亜沙子が再び寝台に上がると、毛布を胸までかけて、あやすように上からぽんぽんと軽く叩いた。
「目を閉じて」
いわれた通りに、瞼を下ろす。長い指が前髪を梳く。うっとりしていると、額に柔らかなものが触れた。一世の唇……こんな風に、男に甘やかされるのは初めての経験かもしれない。
くすぐったくて面映ゆい。
胸の底が温まるのを感じながら、今となっては知る
母は、
ほっそりと小柄で、幾つになっても柳のようにすらりとした体形を維持していた。
夏でも白いブラウスのボタンを上まできっちり留めて、紺地のハイウェストのロングスカートに、ベージュのパンプスを履いて、上品な秘書のように見せていた。
化粧は控えめで、肩で揃えられた髪は、いつでも綺麗に黒染めされていた。
だが、清楚な外見からは想像もつかぬほど、烈しい恋に一途だった。
相手は父ではない。
亜沙子が小学生の頃に両親は離婚した。お互いに好きな相手が別にいて、揉めた末の破局だ。
当時は両親の事情を素直に受け留められず、一緒に暮らせないことが不満だった。
新築の家を母に残して、父は出ていった。
母と二人暮らしを始めても、ささくれだった態度をやめられずにいた。亜沙子が針鼠のように毛を逆撫でている時、母は弁明も泣き言も口にせず、寂しそうな顔をするだけだった。
母の、秘められし情熱を
ピアノの稽古が予定よりも早く終わって帰宅してみたら、しんと静まり返った家の奥から、きいたことのない母の喘ぎ声が聴こえた。
仄暗い廊下の奥。
得体の知れない、秘めやかな熱気を孕んだ空気を感じて、うなじの毛が逆立った。とても怖かった。母に声をかけることはせず、そのまま家を飛び出した。
そのあとも、何度か二人の秘めやかな逢瀬を気取ることがあり、中学三年生の夏、我慢しきれずに母に問い質した。
父とは離婚しており、母が新たに恋人を作るのは彼女の自由なのだが、当時はそう思えず、父と自分を裏切る不貞のように感じていた。
その時も、母は弁明などしなかった。
悲しげな眼差しには苦悩が滲んでいて、そんな顔を見てしまうと強くは
それからしばらくして、母の恋人に家庭があると知り、亜沙子は愕然とした。
母の情熱は、誰にも祝福されない、報われぬ、道ならぬ恋だった。
ある日、具合が悪くて学校を早退すると、家の前でばったり男と鉢合わせたことがある。こそこそと母に会いにきたのだと思ったら、瞬時に頭が煮えて、気がつけば台所に走っていた。何事かと目を見張る母を無視して、荒塩をわし掴んで戻ると、
「帰れッ! 二度とくるな! 今度見たら、警察を呼んでやるッ」
玄関で様子をうかがうように立っている男の顔に、思いきり叩きつけた。
鬼の形相でわめく亜沙子を、男は陰った表情で見ていたが、文句もいわず、静かに頭を下げて出ていった。
廊下に佇む母は、哀しい目で亜沙子を見ていた。
別れた方がいい――
ごめんね、と項垂れる姿を見る度に、鬱憤はたまっていった。
不毛な家族が憎い。
亜沙子と母を捨てた父が憎い。母を幸せにしてやれない男が憎い。いつまで経っても亜沙子を顧みない母が憎い。
亜沙子も母も腰までどっぷり浸かって、二度と抜け出せない深みまで堕ちてしまった……
ガラガラガラッ!
窓の外がカッと発光し、大地を切り裂くような雷鳴が轟いた。
「うあぁっ!」
亜沙子は悲鳴を上げて、跳ね起きた。
心臓がどくどく、音を立てて鳴っている。全力疾走したかのように、ぐっしょり汗を掻いていた。
ざぁっと叩きつけるような雨の音に混じって、部屋の外から、発条式の柱時計が、ボォーン、ボォーン、と深夜を告げた。
怖くてたまらない。
両耳を塞いで、縮こまっていると、
「っ!」
暖かい。服の上からでも判る、しなやかで鋼のような肉体。
「亜沙子」
一世は優しく名前を呼んで、宥めるように亜沙子の背を撫でた。強張りはすぐにほどけた。身体から余計な力が抜け落ちていく。
「……一世さん?」
「そうだよ」
暗闇に、朱金の明かりが灯った。一世は雲雀を
「大丈夫?」
「すみません、夜中に……大きな声を出したりして」
「いいんだよ。怖い夢でも見たの?」
「……ちょっと」
「大丈夫、怖いことは何もないよ」
灯に照らされ、一世の輪郭は淡い金色に縁取られている。幽玄的な美に魅入られ、亜沙子は夢と
「やっぱり、夢を見ているのかな……」
「いいや。亜沙子はちゃんとここにいるよ」
一世はやわらかく亜沙子を押し倒すと、そっと覆い被さった。頬を撫でて、髪を梳き、額に唇を押し当てる。
温もりに包まれて、亜沙子の視界が潤んだ。優しい慰めが、心の底に溜まった
「……母が苦手でした。家族のことを想っている風で、自分のことしか考えていない人だった」
一世は、黙って耳を傾けている。人に家族の話を聞かせるのは抵抗があったのに、不思議と一世に対しては、するりと言葉が出てきた。
「母は、父と離婚する前から不倫をしていて、相手にも家庭があったんです。すごく嫌だった。結局、判り合えないまま、私が家を飛び出して、それっきり……」
襟をきつく握りしめる亜沙子の手を、一世は優しく撫でた。
「ずっと忘れていたのに。どうして今頃、こんなことを思い出すんだろう……」
熱にあえぐ亜沙子の顔を、一世は優しく撫でた。
「会いたい?」
「……どうでしょう」
母にまつわる感情は複雑で、単純に会いたいかと訊かれても、素直に頷けなかった。母との記憶は、愛しくもあり憎くもある。
「亜沙子の母君が、息災であるように祈っておこう」
重く
「……ありがとうございます」
暖かい一世の腕の中で、亜沙子は静かに泣いた。
微熱は続き、うつらうつら夢と
少しずつ、少しずつ、良くなっていった。
体力が戻ってくると、桜の樹皮で煎れた薬草茶を飲むようになった。これが苦くてたまらない。
「苦い~」
涙目で文句をいう亜沙子の唇を、一世は優しく撫でた。ご褒美とばかりに、氷砂糖を口に放りこむ。
「よく我慢したね。えらいね、亜沙子」
「……」
優しく頭を撫でられ、亜沙子は閉口した。
何日も寝こんでしまったせいで、一世を始めとする天狼達は、亜沙子をすっかり小さな子供だと思いこみ、際限なく甘やかそうとしてくるのだ。
「美味しかった。ごちそうさまです」
亜沙子が礼をいうと、一世は優しい三日月のように瞳を細めた。
「もうお休み」
神秘的な青と金の光彩が、夕映えの中で瞬いている。
空は
「どうしたの?」
「……いいえ、なんでも」
見惚れていたことを誤魔化すように、亜沙子は瞬きをした。
なんて綺麗な
更に日が経ち、固形物を口にできるようになると、天狼達は大いに喜んだ。
特に一世は、頻繁に亜沙子の部屋を訪ねては、手ずから食べ物を与えたがった。
今も、水蜜桃の入った器を受け取ろうと手を伸ばしたら、さっと器を遠ざけられた。
「ほら、口をあけてごらん」
「自分で食べれますから」
「遠慮はいらないよ」
「そういうわけじゃなくて……」
匙に手を伸ばすと、さっと避けられてしまう。一世は瞳を輝かせて亜沙子を見ている。期待に背けず、おずおずと口を開くと、甘い蜜の味が舌に乗った。
もう大分復調しているのだが、過保護な天狼は亜沙子が寝台から降りることを許さなかった。
その間、退屈を持て余す亜沙子に、灯里は天狼の歴史をダイジェストで教えてくれた。
遥か昔――
天狼の祖先は、神々の住む蓬莱山の高所に住んでいた。
天帝の
しかし、
哀れに思った天帝は、狼の
彼らは狼と人の二つの姿を持ち、地上に生きる人間に狩られることのない、背に羽を持つ天狼として悠々と空を翔けることができた。
天帝は、人間に蓬莱山の立ち入りを禁じた。
互いの住処を夜那川で分かち、蓬莱山に連なる桜の大樹に結界を敷いた。麓にお
秩序を守れば、褒美に澄花酒を与える――天帝の言葉を、人間は受け入れた。
そうとは知らず、あの日、亜沙子が飲んだビールに紛れていた澄花酒は、本来は蓬莱山の麓に栄える大国、彩国の大王へ届けられるはずだったという。
天狼は狼の輪廻転生といわれているが、中でも前世の記憶を持つ徳の高い天狼は、群れを良く率いるらしい。
前世を持つ天狼の中で、最も力ある天狼を
輪廻を記憶している天狼は人間を忌避する。特に絶滅に追いやられた彩国の人間のことは
一世は、彩国へ澄花酒を渡さずに済んだことを喜んでいた。異郷からきたとはいえ、人間である亜沙子を気に入った背景には、そうした事情もあったのだろう。
尚、灯里も前世を覚えているという。
外見年齢は亜沙子より年下だが、妙に老成した雰囲気を醸しているのは、そういう事情があるようだ。
亜沙子の常識からかけ離れた異世界事情を、すぐに理解することは難しいが、彼等の思想や生活を知るにつれて、少しずつ理解できるようにはなってきている。
結婚はしていないのか訊ねると、うふふ、と灯里は少女のようにほほえんだ。
「
と、頬を染めて話す姿は愛らしかった。
千年天満は、蓬莱山の麓にある里で、天狼を
「姫様は、意中の殿方はいらっしゃるのですか?」
「え?」
「もしや、我が主でございますか?」
「えぇっ?」
目を輝かせる灯里を見て、亜沙子は狼狽えた。
「違います。そんな人、私にいませんよ」
灯里は口を上品に手で覆いながら、そうですか、と頷いた。それ以上は言及しようとしなかったが、面白がっているのだろう。琥珀の瞳をきらきらと輝かせて、尾は忙しなく揺れていた。