燈幻郷奇譚

1章:遠き月胡の音 - 7 -

 十日が経ち、亜沙子はようやく起き上がることを赦された。
 目が醒めて部屋続きの浴室に向かうと、漆塗りの姫鏡台に映る自分の顔を見てぎょっとした。
「うわ……」
 顔色は悪くないが、頬がやつれて見える。
 早く調子を戻さないと。そう思いながら、水差しを傾けて平たい甕に水を張った。顔を洗い、髪をくしけずって、大ざっぱに後ろで一つにまとめる。
 縮緬ちりめんの羽織を肩にかけて部屋に戻ると、窓辺に寄って絶景を眺めた。
 満開の桜が、風に吹かれて舞っている。
 遠い異郷、神聖な蓬莱山で、日常的な朝の身支度をしていることを未だに奇妙に感じる。
 窓辺でぼんやりしていると、部屋に灯里がやってきた。窓辺に立つ亜沙子を見て、目を和ませる。灯里は亜沙子が寝こんでいる間も、よく世話をしてくれた。朗らかで、柔らかな雰囲気をしており、話しているだけで癒される聡明な美女だ。
「お早うございます、姫様。具合はいかがですか?」
「お早うございます。すっかり元気になりました。ご心配をおかけしました」
 深々とお辞儀をすると、灯里は尾を揺らしてほほえんだ。
「お元気になられて、ようございました。湯の準備ができておりますが、入られますか?」
「お風呂! 入りたいです!」
 亜沙子は弾んだ声を出した。寝こんでいた間、まともに身体を洗えていないのだ。たらいに張った湯で身体を拭いたり、髪は洗ってもらっていたが、全身を湯で洗いたいと常々思っていた。
「こちらへどうぞ」
 灯里は心得たように頷くと、すぐに先導してくれた。
 おもむきのある風呂に、亜沙子は胸を高鳴らせた。世話を焼こうとする女達をどうにか説得し、木漏れ日の射す広い浴室で、贅沢な一番湯を愉しむ。
 風呂は古き和風の落ち着いた造りで、柘榴口ざくろぐちがあった。ひのきのいい香りがする。糠袋ぬかぶくろで身体を磨いて、熱い湯に身体を沈めた。
「ふぅっ、生き返った。極楽だわぁ~」
 しみじみとした呟きが、湯けむりの漂う風呂場に反響こだました。極楽とはいい得て妙だ、と亜沙子は目を瞑りながら思った。
 病み上がりであることを忘れて、つい長風呂をしてしまい、すっかりのぼせてしまった。
 風呂を出て部屋に戻る途中、庭に面した廊下の籐椅子とういすで暫し休んだ。連子窓から心地よい風が吹いて、火照った肌を冷やしてくれる。
 一息ついてから部屋に戻ると、見計らったように灯里がやってきた。ぐったりしている亜沙子を見て、目を瞠る。
「まぁ、姫様! どうなさいましたか?」
「少し、のぼせてしまいました」
「のぼせるとは? どのような?」
 真剣な顔で訊き返す灯里を見て、亜沙子は照れ笑いを浮かべた。
「ただの湯あたりです。すみません、広くて綺麗なお風呂だから、つい長風呂をしてしまいました」
「姫様の白い肌は、とても繊細なのですね。湯でそのように朱くなるなんて……」
「病み上がりってことを忘れていました……あの、それは?」
 灯里が手に持った漆盆を見て、亜沙子は首を傾けた。
「我が主からの贈り物でございます」
 恭しく畳紙たとうがみを開いた灯里は、彼女が仕上げに刺繍をいれたいう着物を、十数着も亜沙子に差し出した。
「こんなに?」
「虹を織ると評判の工房であつらえた反物ですよ」
「へぇ~」
 透き織り、紗に縮緬ちりめん天鵞絨びろうどと様々な織物が揃っている。触れるのを躊躇う亜沙子を見て、灯里は満足そうにほほえんだ。
「我が主は姫様に夢中ですね。着ているお姿を見せたら、きっとお喜びになりますよ。どれになさいますか?」
「こんなにあると、迷ってしまいますね」
 ここのお洒落は、亜沙子の感覚ではレトロモダンに映り、趣味が合う。
 衣装選びは楽しく、暫し吟味してから、亜沙子は柔らかい藤色の着物を選んだ。殆ど無地だが、襟と袖には金糸で蝶の刺繍をあしらわれている。袖はゆったりしていて、裾から繊細なレースが覗く。和装ドレスのような素敵な衣装だ。
「おかわいらしいこと。よくお似合いですよ」
 髪を念入りに結いあげた灯里は、亜沙子の全身を眺めて出来栄えを自画自賛するかのように頷いた。
「綺麗にしてくださって、ありがとうございます」
 全身鏡の前に立ち、亜沙子は鏡の中で礼をいった。薄化粧をして綺羅を羽織れば、心も華やぐ。
 準備が整い、正殿に向かう途中、回廊の美しさに思わず感嘆のため息が零れた。
 さんと降り注ぐ、光の洪水。
 くまなく硝子戸のはめこまれた回廊は、綺麗に磨かれており、柔らかな光がよく入る。
 ここへきた時は夜で、そのあとは寝こんでいた為、回廊がこれほど明るいとは知らなかったのだ。
 彩の間に入ると、紙面に目を注いでいた一世は、ぱっと顔を上げた。亜沙子を見て、嬉しそうに尾を左右に揺らす。
「おはよう、亜沙子」
「お早うございます」
「元気になって良かった」
 一世は回復を寿ことほぐと、着飾った亜沙子の全身を眺めて満足そうにほほえんだ。
「よく似合っているよ。とてもかわいい」
「ありがとうございます。一世さんもよくお似合いです」
 今日は着物ではなく、黒羅紗くろらしゃ金釦きんぼたんの軍装で、髪は後ろで一つにくくっている。惚れ惚れするような凛々しさた。
 ぽぅっと朱くなる亜沙子を見て、一世もまた眼を細めた。
 なんてかわいいのだろう……柔らかな眼差しが囁いている気がして、亜沙子は照れて視線を伏せた。
「こちらへおいで」
 傍へ寄ると、脇の下に両手を差し入れられ、ふわっと身体が浮いた。
「一世さん!?」
「ふ、かわいい」
 膝の上に亜沙子を横向きに乗せて、一世は上機嫌にほほえんだ。長い睫毛の下で、青と金の瞳が煌めいている。毎日のように顔をあわせているが、彼の見目麗しさに、亜沙子は未だに慣れずにいる。否、慣れる日は永遠にこないのかもしれない。
「下ろしてください」
 焦って肩を押すと、逆に隙間なく抱き寄せられた。
「こらこら、暴れるな」
「離してくださいったら」
 身じろぐと腹に腕が巻きつき、背中から一世に包まれた。
 長い指が髪に触れる。耳やこめかみに唇で触れられて、亜沙子は震えた。彼は子供に接しているつもりでも、亜沙子はそうは思えない。異性に触れられていることを意識して、顔が熱くなる。
「一世さん、離して」
「亜沙子、湯浴みで加減を悪くしたと聞いたけれど、大事ないか?」
「ただの湯あたりですから。あの、離して」
 一世は聞く耳を持たず、亜沙子をしっかと抱きしめた。傍に控えていた紫蓮は、亜沙子を見て器用に片眉をひそめた。
「貴方は、風呂もまともに入れないのですか?」
「入れますよ! お風呂が気持ちよくて、つい長居をしてしまったんです」
「これだから人の子は弱くて困ります。しっかり食べて、早く元気におなりなさい」
 紫蓮は、文句をいっているのか心配をしているのか、よく判らぬ台詞を口にした。ぱん、と手を鳴らして使用人を呼びつけると、朝餉の準備を始めさせた。
 すぐに漆塗りの盆が運ばれてきて、使用人が蓋を開けると、美味しそうな匂いと湯気が漂った。
 さりげなく膝から降りようとした亜沙子の腹に、一世はすかさず腕を回した。
「食べさせてあげよう」
「えっ?」
 困惑する亜沙子に構わず、一世は小鉢を開けて、蒸鳥の和え物を箸で切り分けた。
「ほら、口を開けて」
「自分で食べますから!」
「遠慮はいらぬ。寝こんでいた間も、私が手ずから食べさせていたのだから」
「あれは病気だったから……この通り元気になりましたし、もう自分で食べられます」
「いいから、いいから、ほら」
「……」
 一世は聞く耳をもたない。諦めの境地で口を開けると、途端に青と金の瞳が煌いた。三角の耳をピンと立てて、尾は嬉しそうに揺れている。
「美味しい?」
「……はい」
 雛鳥に餌を与えるように、一世は亜沙子の口に、小さくちぎった肉を入れる。十歳の子供に戻った気がして、非常にいたたまれない。
「さぁ、次はこれを食べよう」
「……まだ続けるんですか」
「ん?」
「……」
 この状況に、どうして誰も疑問を抱かないのだろう? 誰にも止められないことが驚きである。なぜか、生暖かく見守られている気がする。
「まるで雛鳥のようですね」
 紫蓮の言葉に、亜沙子は頭を殴られたような衝撃を覚えた。耐え切れず、そっと箸を運ぶ一世の腕を押しのけた。
「……あとは、自分で食べますから」
 反論の隙を与えず、さっと身体をずらして一世の膝から脱出した。
「遠慮はいらぬのに……」
 残念そうなつぶやきは聞こえないふりをして、亜沙子は黙々と箸を動かした。
 しかし、鉄箸の重いこと。
 なぜ食事をする為の箸が、これほど重い必要があるのか理解に苦しむ。箸を持つ手が震えて、摘まんでいた山菜の揚物が、ぽろっと膳の上を転がった。
「亜沙子……」
「ハイ、すみません」
 赤面して詫びる亜沙子の頭を、一世は優しく撫でた。
「亜沙子に箸は重すぎたか」
「!?」
 大真面目にいった一世の言葉に、亜沙子は通算何度目か判らぬ衝撃を受けた。
 硬直していると、食べるのが下手くそとでも思ったのか、紫蓮は無言で桐製の軽い箸を亜沙子に手渡した。先日も使わせてもらったものだ。
「ありがとうございます! 助かります」
「仕方ありませんね。これだから人の子は」
 ふぅ、と紫蓮はため息をついた。文句をいいながら、彼は亜沙子に茶を煎れたり、何かと世話を焼いてくる。言葉と態度が矛盾しているが、細やかな気配りのできる親切な天狼だ。
 桐の箸は、それでも亜沙子が持つには大きかったが、鉄箸に比べたら断然良かった。
 ようやく味わって食事をすることができる。
 優しい味付けの精進料理は、素材の味が生かされており、大変美味である。
 山菜のおひたしを口に運んでいると、つと伸びてきた指に口元を拭われた。びっくりして顔を上げると、一世は目を細くした。
「ついているよ」
 あろうことか、ぬぐった指先を一世は口に含んでみせた。
「ごほっ」
 むせる亜沙子の背中を、一世は気遣わしげに撫でた。
「ゆっくりお食べ」
「食事の間くらい、落ち着きなさい。ほら、お茶を飲んで」
 紫蓮にも世話を焼かれて、亜沙子は頬を朱くした。いつだって落ち着いているつもりなのに、食事の間くらい、とはどういうことだ。
 精神を消耗しながら食べ終えると、ほかほかしている千代紙の塊を手渡された。
「何ですか?」
「甘栗だよ。開けてごらん」
 千代紙の包みを開いてみると、焼き立ての甘栗が出てきた。
「わぁ!」
 感嘆の声を上げる亜沙子を見て、一世は蕩けそうな笑みを浮かべあ。
「美味しいよ」
「はい、いただきます」
 早速手をつけたが、皮が意外と固い。おまけに指が熱くて、なかなか剥けない。
「貸してごらん」
 苦心していると、横から伸びてきた手に取り上げられた。一世は、はさみも使わずに難なく栗を剥いていく。
「すごいですねぇ」
「何が?」
「素手で剥けるなんて」
「? そりゃ、剥けるだろう」
「人の子は栗も満足に剥けないのですか?」
 一世も紫蓮もきょとんとしている。紫蓮は冷たい手巾で亜沙子の少し赤くなった指先を拭い始めた。
「あ、すみません」
「ちゃんと拭きなさい」
「ハイ、すみません……」
 まるでお母さんだ。
「貴方は、栗に触れだけで指を痛めるんですか?」
 呆れたようにいわれて、亜沙子は軽く頭を下げた。
「申し訳ありません。お気遣いありがとうございます」
「全く。人の子は脆弱すぎますよ。目を離せないではありませんか」
 そんな台詞を美人にしかめ面でいわれて、亜沙子は小さく笑った。
「何を笑っているんです?」
「紫蓮さんってかわいいなと思って」
 ごほっ、と一世はむせた。紫蓮はちらりと一世を一瞥すると、真顔で亜沙子を見つめた。
「……かわいい? 私のどこが?」
「いえ、一見冷たいのに、実はとても優しいから。言葉と態度のギャップが萌えるというか」
「ぎゃっぷ? 燃える? 亜沙子の言葉は、時々理解できませんよ」
「ごめんなさい。なんでもありません」
「子供が目上に軽口を叩いてはいけませんよ」
「あの、私は子供じゃありません。ここへくる前は、独り立ちして働いていたんですから」
「働いていた? このようにいとけないのに?」
 眼を丸くする一世を見て、亜沙子は苦笑いを浮かべた。
「こういう人種なんです。こちらでも、何か私にできる仕事があればいいのですが……」
「余計な心配はせずに、身体を治すことに専念しなさい」
 紫蓮がしかめ面でいうと、一世も腕を組んで頷いた。
「そうだよ、亜沙子。客人として迎えるといっただろう? 働く必要はないよ」
「でも、お世話になってばかりいるのも心苦しいですし」
 困ったようにいう亜沙子を見て、そうだ、と一世は手を鳴らした。
「では、月胡を弾いておくれ。時々でいいから、夜の慰めに聴かせておくれ」
「月胡?」
「月明りを浴びて音を紡ぐ、弦楽器のことだよ。飛車とびぐるまで聴かせただろう?」
「私、楽器は弾けませんよ」
「私が教えてあげる」
 尾をゆらゆらと揺らして、一世は楽しそうにほほえんだ。
「それは嬉しいですけれど、仕事とは違うのでは」
「仕事を手伝ってくれるより、ずっと嬉しいですよ。天狼は楽を好むのです。亜沙子、楽しみにしていますよ」
 紫蓮にも期待の籠った眼差しを向けられて、亜沙子は居住まいを正した。
「そういうことなら、判りました。頑張ってみます」
 亜沙子の返事を聞いて、二人は嬉しそうに尾を揺らした。