奇跡のように美しい人
1章:女神 - 5 -
一ヵ月後。
塔での暮らしにも、大分慣れた。
朝は先ず入浴から始める。
部屋に専用の浴室があり、青磁のタイルに猫脚の浴槽という、瀟洒な造りをしている。
この国では、電気やガスの代わりに、霊気で生活基盤を支えている。様式に戸惑うこともあるが、不便はない。むしろ贅沢な暮らしをさせてもらっている。
混乱に陥ることも、少しずつ減ってきた。穏やかな日々は居心地が良く、怠惰で、考える力を奪っていく。
熱い湯を浴びて身体は目覚めても、夢の余韻がなかなか消えない。
いつか、この不思議な世界から、本当に目覚める日はくるのだろうか?
長椅子でぼんやりしていると、控えめに扉をノックする音が聞こえた。
「羽澄様、起きていらっしゃますか?」
「はーい」
多忙な身でありながら、レインジールは朝晩に必ず、佳蓮のご機嫌伺いにやってくる。
扉を開くと、一部の隙もない貴公子然とした天使が現れた。佳蓮を見て、美しい顔を更に輝かせる。
「お早うございます」
背を伸ばし、踵を揃えて綺麗にお辞儀をしてみせる。容姿もさながら、一連の所作が美し過ぎて、佳蓮は今朝も見惚れてしまった。
「お早う」
密かに賞賛しながら中へ招き入れると、レインジールは佳蓮のおろし髪に視線を留めて、ぼうっとなった。
「……羽澄様の黒髪は、夜闇を塗り込めた黒石英のようにお美しいですね」
どこをどうしたら、そのような思考になるのだろう。佳蓮はしかめ面を作ると、美貌を正面から睨めつけた。
「そういうのはやめてって、いったでしょ」
「! すみません、つい」
「お世辞はやめて。レインにいわれても、ただの嫌味にしか聞こえないから」
「世辞ではありません! 羽澄様は本当にお美しいです」
天然なのか演技なのか。全く、末恐ろしい少年だ。将来は、どんな女たらしになるやら……熱の籠った瞳を冷静に見返しているうちに、一泡吹かせてやりたい衝動に駆られた。
「……キスしてあげようか?」
「えっ」
眼を瞠る少年を見て、佳蓮は意地の悪い笑みを浮かべた。
「褒めてくれたお礼」
そういって、子供特有の柔らかな頬を両手で包み込んだ。レインジールは青い瞳を、これでもかと見開いている。
昏い記憶が蘇る。
小学生の頃、クラスの男子に身体を拘束され、罰ゲームと称して無理矢理キスをさせられたことがある。
罰ゲームを受けるのは、佳蓮ではなく、相手の男子だ。心ない遊び感覚の罰ゲームに、佳蓮は利用された。
“やめてよ、離して!”
佳蓮は全力で暴れたが、五人の男子に押さえつけられては敵わない。
罰ゲームを受ける男子は、ゴキブリでも見るかのような瞳で佳蓮を見ていた。
“まじかよ! 気持ち悪ぃー。そんなブスと、キスなんてできるかよ”
唇はくっついた途端に、離れた。男子は盛大に顔を顰めて、涙目で唇を拭っていた。
“うぇ、吐きそう”
“ぅ……ッ……うぇーん……ッ”
佳蓮の心は、ずたずたに引き裂かれた。哀しくて、辛くて、消えてなくなりたかった。
それなのに、泣いている佳蓮を見て、クラスメートは笑うのだ。
無邪気の為せる業とは思えない。
断言してもいい。あの時彼等は、佳蓮の心を玄関マットのように踏みにじることを、絶対に愉しんでいた。
悪戯心の裏に、報復の熾火が揺れている。
当然のように流れる沈黙を、愉快な気分で味わいながら、狼狽しているであろう少年を心の中で嗤う。
調子に乗って人をからかおうとするから、こんな事態に陥るのだ。
こんな真似をして、後で傷つくのは自分だと判っているのにやめられない。相変わらずの自傷行為だ。
もっと、おどかしてやろうと顔を近付けると、レインジールは頬を染めた。
その反応は、まるきり予想外だった。
嫌悪して逃げ出すものと期待していたのに、真剣な眼をする少年は、十歳という年齢よりもずっと大人びて見えた。
「……戯れを。私を子供だと思って、そんな風にからかうなんて酷いです」
佳蓮はむっと顔をしかめた。
「そっちが先にいったんでしょ」
「先? 何をです?」
「だから……」
「私は、何か羽澄様の気に障るようなことをいってしまったのでしょうか?」
「その畏まった口調も、どうにからないの? 子供の癖に、嫌味ったらしいよ」
わざと冷たく吐き捨てると、レインジールは傷ついた顔をした。
「私の振る舞いが、貴方を苛立たせてしまったのなら、謝ります。どうか怒らないでください」
「別に怒ってない」
言葉を遮るように応えると、反論を受けつけまいと更に言葉を続ける。
「美しいだの女神だの、褒めてくれるけどさ、本当は冴えない女と思っているんでしょ?」
「おっしゃる意味が判りません。貴方を冴えない女だなんて、思うわけがありません」
顔を背ける佳蓮に向かって、憤ったようにレインジールはいった。
「そういうのがムカつくの。やめて」
「え?」
「レインには一生判らないだろうけど、私だって綺麗に生まれたかった。冗談でも、からかわれると傷つくんだよ」
「からかうだなんて、そんな」
「いいよ、もう」
「あ、あの! では、本当に口づけをいただいてもよろしいのでしょうか?」
「いいよ、無理しなくて」
「無理などしておりません!」
「私とキスするなんて、ゾッとしちゃうんでしょ?」
「違います!!」
「ふーん? そんなにキスして欲しいの?」
「は、はい」
「どうして?」
苛々する。首を傾げて笑みかけると、レインジールは悩ましげに愁眉を寄せた。
「……羽澄様はとてもお美しいけれど、残酷です」
表情を歪めても尚麗しい美貌を見下ろして、佳蓮は瞳に憎しみを浮かべた。
「よく知っているくせに。美しい者は皆、残酷だって」
「そのようにおっしゃるのは、私の所為ですよね……私が……から……お怒りに……」
幽 かな呟きは小さすぎて、全部は聞こえなかった。
愁眉を寄せて、辛そうな表情を浮かべるレインジールに悪意は感じられない。それでも佳蓮は許せなかった。謝罪を跳ね除けるように背を向けて、部屋を出ていこうとする。
「羽澄様! お待ちください」
追い駆けるように、レインジールは席を立つ。佳蓮は振り向くと、憎悪の眼差しで睨 めつけた。
「レインは確かに綺麗だし、親切で優しいけど、無神経だよ」
冷徹に告げる佳蓮を、レインジールは唖然と見上げている。針のような視線から逃げるように、哀しげに青い瞳を伏せた。
「……この姿ですから、自覚はしております。私を綺麗だなんて……子供と侮っているのは、羽澄様ではありませんか」
少年の漂わせる悲壮感に、佳蓮はいくらか溜飲を下げた。
絶世の美少年の儚げな風情は、腹を立てている佳蓮ですら、思わず抱き寄せて慰めてあげたくなるものがあった。
「……ごめん、いい過ぎた」
「羽澄様。お慕いしております。ですから、悪戯に口づけを与えるだなんて、いわないでください。お願いします」
消え入りそうな声を聞いて、後悔の念が込み上げた。七つも年下の子供に、大人げない言動をしてしまった。
俯いた小さな頭を撫でると、弾かれたようにレインジールは顔を上げた。
まるで絹糸のような手触りに心を奪われ、無意識に指は何度か往復する。
そうしている間、レインジールは感情を堪えるように唇を噛みしめていた。
潤んだ瞳から、今にも涙が零れ落ちそうだ。
海のような青い瞳には、痛めつけられた者が浮かべる哀切と、一途な愛が浮いていた。
「ごめんね」
佳蓮が再び詫びると、レインジールは首を左右に振った。銀糸の髪が揺れ、透明な雫が散る。
いたいけな姿に、途方もない罪悪感が込み上げた。
昔は、もっと酷い中傷を浴びていたのに、どうして今更、あの程度の嫌味が勘に触ったのだろう?
美しい泣き顔を見下ろしながら、遠い日の自分を抱きしめてあげたくなった。
(貴方は、ばい菌なんかじゃない。泣かなくていいんだよ)
塔での暮らしにも、大分慣れた。
朝は先ず入浴から始める。
部屋に専用の浴室があり、青磁のタイルに猫脚の浴槽という、瀟洒な造りをしている。
この国では、電気やガスの代わりに、霊気で生活基盤を支えている。様式に戸惑うこともあるが、不便はない。むしろ贅沢な暮らしをさせてもらっている。
混乱に陥ることも、少しずつ減ってきた。穏やかな日々は居心地が良く、怠惰で、考える力を奪っていく。
熱い湯を浴びて身体は目覚めても、夢の余韻がなかなか消えない。
いつか、この不思議な世界から、本当に目覚める日はくるのだろうか?
長椅子でぼんやりしていると、控えめに扉をノックする音が聞こえた。
「羽澄様、起きていらっしゃますか?」
「はーい」
多忙な身でありながら、レインジールは朝晩に必ず、佳蓮のご機嫌伺いにやってくる。
扉を開くと、一部の隙もない貴公子然とした天使が現れた。佳蓮を見て、美しい顔を更に輝かせる。
「お早うございます」
背を伸ばし、踵を揃えて綺麗にお辞儀をしてみせる。容姿もさながら、一連の所作が美し過ぎて、佳蓮は今朝も見惚れてしまった。
「お早う」
密かに賞賛しながら中へ招き入れると、レインジールは佳蓮のおろし髪に視線を留めて、ぼうっとなった。
「……羽澄様の黒髪は、夜闇を塗り込めた黒石英のようにお美しいですね」
どこをどうしたら、そのような思考になるのだろう。佳蓮はしかめ面を作ると、美貌を正面から睨めつけた。
「そういうのはやめてって、いったでしょ」
「! すみません、つい」
「お世辞はやめて。レインにいわれても、ただの嫌味にしか聞こえないから」
「世辞ではありません! 羽澄様は本当にお美しいです」
天然なのか演技なのか。全く、末恐ろしい少年だ。将来は、どんな女たらしになるやら……熱の籠った瞳を冷静に見返しているうちに、一泡吹かせてやりたい衝動に駆られた。
「……キスしてあげようか?」
「えっ」
眼を瞠る少年を見て、佳蓮は意地の悪い笑みを浮かべた。
「褒めてくれたお礼」
そういって、子供特有の柔らかな頬を両手で包み込んだ。レインジールは青い瞳を、これでもかと見開いている。
昏い記憶が蘇る。
小学生の頃、クラスの男子に身体を拘束され、罰ゲームと称して無理矢理キスをさせられたことがある。
罰ゲームを受けるのは、佳蓮ではなく、相手の男子だ。心ない遊び感覚の罰ゲームに、佳蓮は利用された。
“やめてよ、離して!”
佳蓮は全力で暴れたが、五人の男子に押さえつけられては敵わない。
罰ゲームを受ける男子は、ゴキブリでも見るかのような瞳で佳蓮を見ていた。
“まじかよ! 気持ち悪ぃー。そんなブスと、キスなんてできるかよ”
唇はくっついた途端に、離れた。男子は盛大に顔を顰めて、涙目で唇を拭っていた。
“うぇ、吐きそう”
“ぅ……ッ……うぇーん……ッ”
佳蓮の心は、ずたずたに引き裂かれた。哀しくて、辛くて、消えてなくなりたかった。
それなのに、泣いている佳蓮を見て、クラスメートは笑うのだ。
無邪気の為せる業とは思えない。
断言してもいい。あの時彼等は、佳蓮の心を玄関マットのように踏みにじることを、絶対に愉しんでいた。
悪戯心の裏に、報復の熾火が揺れている。
当然のように流れる沈黙を、愉快な気分で味わいながら、狼狽しているであろう少年を心の中で嗤う。
調子に乗って人をからかおうとするから、こんな事態に陥るのだ。
こんな真似をして、後で傷つくのは自分だと判っているのにやめられない。相変わらずの自傷行為だ。
もっと、おどかしてやろうと顔を近付けると、レインジールは頬を染めた。
その反応は、まるきり予想外だった。
嫌悪して逃げ出すものと期待していたのに、真剣な眼をする少年は、十歳という年齢よりもずっと大人びて見えた。
「……戯れを。私を子供だと思って、そんな風にからかうなんて酷いです」
佳蓮はむっと顔をしかめた。
「そっちが先にいったんでしょ」
「先? 何をです?」
「だから……」
「私は、何か羽澄様の気に障るようなことをいってしまったのでしょうか?」
「その畏まった口調も、どうにからないの? 子供の癖に、嫌味ったらしいよ」
わざと冷たく吐き捨てると、レインジールは傷ついた顔をした。
「私の振る舞いが、貴方を苛立たせてしまったのなら、謝ります。どうか怒らないでください」
「別に怒ってない」
言葉を遮るように応えると、反論を受けつけまいと更に言葉を続ける。
「美しいだの女神だの、褒めてくれるけどさ、本当は冴えない女と思っているんでしょ?」
「おっしゃる意味が判りません。貴方を冴えない女だなんて、思うわけがありません」
顔を背ける佳蓮に向かって、憤ったようにレインジールはいった。
「そういうのがムカつくの。やめて」
「え?」
「レインには一生判らないだろうけど、私だって綺麗に生まれたかった。冗談でも、からかわれると傷つくんだよ」
「からかうだなんて、そんな」
「いいよ、もう」
「あ、あの! では、本当に口づけをいただいてもよろしいのでしょうか?」
「いいよ、無理しなくて」
「無理などしておりません!」
「私とキスするなんて、ゾッとしちゃうんでしょ?」
「違います!!」
「ふーん? そんなにキスして欲しいの?」
「は、はい」
「どうして?」
苛々する。首を傾げて笑みかけると、レインジールは悩ましげに愁眉を寄せた。
「……羽澄様はとてもお美しいけれど、残酷です」
表情を歪めても尚麗しい美貌を見下ろして、佳蓮は瞳に憎しみを浮かべた。
「よく知っているくせに。美しい者は皆、残酷だって」
「そのようにおっしゃるのは、私の所為ですよね……私が……から……お怒りに……」
愁眉を寄せて、辛そうな表情を浮かべるレインジールに悪意は感じられない。それでも佳蓮は許せなかった。謝罪を跳ね除けるように背を向けて、部屋を出ていこうとする。
「羽澄様! お待ちください」
追い駆けるように、レインジールは席を立つ。佳蓮は振り向くと、憎悪の眼差しで
「レインは確かに綺麗だし、親切で優しいけど、無神経だよ」
冷徹に告げる佳蓮を、レインジールは唖然と見上げている。針のような視線から逃げるように、哀しげに青い瞳を伏せた。
「……この姿ですから、自覚はしております。私を綺麗だなんて……子供と侮っているのは、羽澄様ではありませんか」
少年の漂わせる悲壮感に、佳蓮はいくらか溜飲を下げた。
絶世の美少年の儚げな風情は、腹を立てている佳蓮ですら、思わず抱き寄せて慰めてあげたくなるものがあった。
「……ごめん、いい過ぎた」
「羽澄様。お慕いしております。ですから、悪戯に口づけを与えるだなんて、いわないでください。お願いします」
消え入りそうな声を聞いて、後悔の念が込み上げた。七つも年下の子供に、大人げない言動をしてしまった。
俯いた小さな頭を撫でると、弾かれたようにレインジールは顔を上げた。
まるで絹糸のような手触りに心を奪われ、無意識に指は何度か往復する。
そうしている間、レインジールは感情を堪えるように唇を噛みしめていた。
潤んだ瞳から、今にも涙が零れ落ちそうだ。
海のような青い瞳には、痛めつけられた者が浮かべる哀切と、一途な愛が浮いていた。
「ごめんね」
佳蓮が再び詫びると、レインジールは首を左右に振った。銀糸の髪が揺れ、透明な雫が散る。
いたいけな姿に、途方もない罪悪感が込み上げた。
昔は、もっと酷い中傷を浴びていたのに、どうして今更、あの程度の嫌味が勘に触ったのだろう?
美しい泣き顔を見下ろしながら、遠い日の自分を抱きしめてあげたくなった。
(貴方は、ばい菌なんかじゃない。泣かなくていいんだよ)