奇跡のように美しい人
1章:女神 - 5 -
一ヵ月も経つ頃には、時計塔での暮らしに佳蓮はずいぶん慣れていた。
幸い、言葉は通じるし、文字も読める。食事も美味しい。数字や暦も地球に酷似しており、時間の流れ方さえ、殆ど違和感はなかった。
この国では、電気やガスの代わりに霊気を循環させる星導技術が生活基盤を支えている。様式の違いに戸惑うことはあっても、不便はない。贅沢過ぎるほどだ。
判らないことがあれば、使用人が丁寧に教えてくれたし、レインジールも過剰なほど気を配ってくれる。
穏やかな日々は居心地が良く、怠惰で、考える力を奪っていく。
のらくらと過ごして陽気になれる日もあれば、先行きの見えない将来に不安を覚える日もあり、生来ふさぎの気質や理由もなく憂鬱になる傾向は強いのだが、この遠い異郷の地にきてからは乱高下が激しい。
――いつか、この摩訶不思議な世界から、目覚める日はくるのだろうか?
寝椅子でぼんやりしていると、控えめなノックの音がした。
「羽澄様、起きていらっしゃますか?」
レインジールだ。
「はーい」
多忙な身でありながら、彼は朝晩欠かさず佳蓮に挨拶に訪れる。
扉を開けると、一部の隙もない貴公子然とした天使が現れた。佳蓮を見るなり、その美貌がさらに輝く。
「お早うございます」
背を伸ばし、踵を揃え、完璧な礼をしてみせる。容姿も然ることながら、一連の所作が美し過ぎて、佳蓮は今朝も見惚れてしまった。
「……お早う、レイン」
部屋に招き入れると、レインジールは佳蓮のおろし髪に視線を注ぎ、しばし言葉を失った。
「……羽澄様の黒髪は、夜闇に流れる河のようですね。とても……お美しいです」
何をどうすれば、そのような思考になるのだろう。佳蓮は眉を顰め、正面から美貌を睨めつけた。
「そういうの、やめてって言ったでしょ」
「すみません……つい」
「お世辞はやめて。レインに言われても、嫌味にしか聞こえないから」
「世辞ではありません! 羽澄様は本当にお美しいです」
前のめりで言い募るレインジールの瞳は、熱っぽく真剣で、憎らしいことに嘘を言っているようには見えなかった。
熱の籠った眼差しを見返しながら、胸の奥に、歪んだ衝動が芽吹いた。このあざとい美少年に、一泡吹かせてやりたい。
「……キスしてあげようか?」
「えっ」
目を丸くして固まる少年を見て、佳蓮は意地の悪い笑みを浮かべた。
「褒めてくれたお礼」
子供特有の柔らかな頬を両手で包みこむと、レインジールは氷晶の瞳を、これでもかと見開いた。
――昏い記憶が蘇る。
小学生の頃、クラスの男子達に躰を押さえつけられ、罰ゲームと称して無理矢理キスをさせられた。
罰を受けるのは、佳蓮ではなく、相手の男子だ。心ない遊びのために、佳蓮は利用されたのだ。
〝やめて、離して!〟
必死に暴れても、五人がかりで押さえつけられては抗えない。
罰ゲームを受ける男子は、ゴキブリでも見るような目で佳蓮を見ていた。
〝まじかよ! 気持ち悪ぃー。そんなブスと、キスとか無理〟
唇は、くっついた途端に離れた。男子は盛大に顔をしかめて、涙目で唇を拭っていた。
〝うぇ、吐きそう〟
佳蓮の心は、ずたずたに引き裂かれた。哀しくて、辛くて、苦しくて、消えてしまいたかった。
〝ぅ……ッ……うぇーん……ッ〟
泣きだす佳蓮を見て、クラスメイトは笑った。
無邪気の為せる業とは思えない。
断言してもいい――あのとき彼等は、演しものを眺める気軽さで、佳蓮が踏みにじられる様を愉しんでいた。
悪戯心の裏に、報復の熾火が揺れている。
子供に敵愾心を燃やして大人げないと思うが、愉快だった。狼狽しているであろう少年を、心の中で嗤う。
調子に乗って佳蓮を褒めるから、こんな目に遭うのだ。
こんな真似をして、後で傷つくのは自分だと判っているのに――やめられない。相変わらずの自傷行為だ。
さらに顔を近づけると、レインジールは、ぱぁっと頬を染めた。
その反応は、まるきり予想外だった。
嫌悪して逃げだす様を期待していたのに、真剣な眼差しをする少年は、一〇歳という年齢よりもずっと大人びて見えた。
「……戯れを。私を子供だと思って、そんな風にからかうなんて……酷いです」
佳蓮は、むっと顔をしかめた。
「そっちが先に言ったんでしょ」
「先に……何を?」
「だから……」
「私が、何か羽澄様のお気に障ることを、口にしてしまったのでしょうか?」
「その畏まった口調も、どうにからないの? 子供の癖に、嫌味ったらしいよ」
冷たく吐き捨てると、レインジールは、はっきりと傷ついた顔をした。
「私の振る舞いが、貴方を苛立たせたのなら、謝ります。どうか、怒らないでください」
「別に怒ってない」
遮るように言い、反駁を許さず言葉を重ねる。
「美しいだの、女神だの、褒めてくれるけどさ、本当は冴えない女と思っているんでしょ?」
「理解できません。そのようなこと、思うはずがありません!」
憤ったようにレインジールは言った。
「そういうのがムカつくの。やめて」
「え……」
「レインには一生判らないだろうけど、私だって、綺麗に生まれたかった。冗談でも、からかわれると傷つくんだよ」
「からかうだなんて、そんな」
「いいよ、もう」
「あ、あの! では、本当に口づけを頂いても……?」
「無理しなくていい」
「無理などしていません!」
「私とキスするなんて、ゾッとしちゃうんでしょ?」
「違います‼」
――どうしよう。レインが手ごわい。
なかなか尻尾を見せないから、譲れなくなる。
「……そんなにキスして欲しいの?」
「は、はい」
「どうして?」
苛立ちを孕んだ笑みを向けると、レインジールは悩ましげに愁眉を寄せた。
「……羽澄様は、とてもお美しい、けれど……残酷です」
憂愁に沈む麗貌を見下ろして、佳蓮は瞳に憎しみを浮かべた。
「知ってるくせに。美しい者は皆、残酷だって」
「そのようにおっしゃるのは、私の所為ですよね……私が……から……お怒りに……」
幽かな呟きは小さすぎて、全部は聞こえなかった。
辛そうな表情を浮かべるレインジールに悪意は感じられない。それでも佳蓮は許せなかった。背を向けて部屋を出ようとすると、
「羽澄様、お待ちください!」
レインジールが追い駆けてくる。振り向いた佳蓮は、憎悪の眼差しで睨めつけた。
「レインは綺麗で、親切だけど……無神経だよ」
冷徹に告げる佳蓮をレインジールは言葉を失ったように見上げ、やがて、哀しげに美しい眼差しを伏せた。
「……この姿ですから、自覚はしております。私を〝綺麗〟だなんて……子供と侮っているのは、羽澄様ではありませんか」
その悲壮な声音に、胸の奥がわずかに緩んだ。絶世の美少年の儚げな風情は、腹を立てている佳蓮ですら、思わず抱き寄せて慰めてあげたくなるものがあった。
「……ごめん、言い過ぎた」
「羽澄様……心から、お慕いしております。ですから……悪戯に口づけを与えるなど、言わないでください……」
消え入りそうな声に、強烈な後悔が押し寄せた。自分がされて心底嫌だったことを、七つも年下の男の子にしてしまった。
悄気返って俯く小さな頭を、そっと撫でる。弾かれたようにレインジールは顔をあげた。
絹糸のような感触に心を奪われ、無意識に指は何度か往復する。
そうしている間、レインジールは感情を堪えるように唇を噛みしめていた。
潤んだ瞳には、痛めつけられた者が浮かべる哀切と、一途な愛が、同時に浮かんでいた。
「……ごめんね」
佳蓮が謝ると、レインジールは首を左右に振った。銀糸の髪が揺れ、透明な雫が散る。
いたいけな姿に、途方もない罪悪感がこみあげた。
中学の頃は、もっと酷い言葉を浴びていたのに、どうして今更、あの程度の嫌味に耐えられなかったのだろう。
美しい泣き顔を見下ろしながら、遠い日の自分を思った。
(貴方は、〝ばい菌〟なんかじゃない……泣かなくていいんだよ)
幸い、言葉は通じるし、文字も読める。食事も美味しい。数字や暦も地球に酷似しており、時間の流れ方さえ、殆ど違和感はなかった。
この国では、電気やガスの代わりに霊気を循環させる星導技術が生活基盤を支えている。様式の違いに戸惑うことはあっても、不便はない。贅沢過ぎるほどだ。
判らないことがあれば、使用人が丁寧に教えてくれたし、レインジールも過剰なほど気を配ってくれる。
穏やかな日々は居心地が良く、怠惰で、考える力を奪っていく。
のらくらと過ごして陽気になれる日もあれば、先行きの見えない将来に不安を覚える日もあり、生来ふさぎの気質や理由もなく憂鬱になる傾向は強いのだが、この遠い異郷の地にきてからは乱高下が激しい。
――いつか、この摩訶不思議な世界から、目覚める日はくるのだろうか?
寝椅子でぼんやりしていると、控えめなノックの音がした。
「羽澄様、起きていらっしゃますか?」
レインジールだ。
「はーい」
多忙な身でありながら、彼は朝晩欠かさず佳蓮に挨拶に訪れる。
扉を開けると、一部の隙もない貴公子然とした天使が現れた。佳蓮を見るなり、その美貌がさらに輝く。
「お早うございます」
背を伸ばし、踵を揃え、完璧な礼をしてみせる。容姿も然ることながら、一連の所作が美し過ぎて、佳蓮は今朝も見惚れてしまった。
「……お早う、レイン」
部屋に招き入れると、レインジールは佳蓮のおろし髪に視線を注ぎ、しばし言葉を失った。
「……羽澄様の黒髪は、夜闇に流れる河のようですね。とても……お美しいです」
何をどうすれば、そのような思考になるのだろう。佳蓮は眉を顰め、正面から美貌を睨めつけた。
「そういうの、やめてって言ったでしょ」
「すみません……つい」
「お世辞はやめて。レインに言われても、嫌味にしか聞こえないから」
「世辞ではありません! 羽澄様は本当にお美しいです」
前のめりで言い募るレインジールの瞳は、熱っぽく真剣で、憎らしいことに嘘を言っているようには見えなかった。
熱の籠った眼差しを見返しながら、胸の奥に、歪んだ衝動が芽吹いた。このあざとい美少年に、一泡吹かせてやりたい。
「……キスしてあげようか?」
「えっ」
目を丸くして固まる少年を見て、佳蓮は意地の悪い笑みを浮かべた。
「褒めてくれたお礼」
子供特有の柔らかな頬を両手で包みこむと、レインジールは氷晶の瞳を、これでもかと見開いた。
――昏い記憶が蘇る。
小学生の頃、クラスの男子達に躰を押さえつけられ、罰ゲームと称して無理矢理キスをさせられた。
罰を受けるのは、佳蓮ではなく、相手の男子だ。心ない遊びのために、佳蓮は利用されたのだ。
〝やめて、離して!〟
必死に暴れても、五人がかりで押さえつけられては抗えない。
罰ゲームを受ける男子は、ゴキブリでも見るような目で佳蓮を見ていた。
〝まじかよ! 気持ち悪ぃー。そんなブスと、キスとか無理〟
唇は、くっついた途端に離れた。男子は盛大に顔をしかめて、涙目で唇を拭っていた。
〝うぇ、吐きそう〟
佳蓮の心は、ずたずたに引き裂かれた。哀しくて、辛くて、苦しくて、消えてしまいたかった。
〝ぅ……ッ……うぇーん……ッ〟
泣きだす佳蓮を見て、クラスメイトは笑った。
無邪気の為せる業とは思えない。
断言してもいい――あのとき彼等は、演しものを眺める気軽さで、佳蓮が踏みにじられる様を愉しんでいた。
悪戯心の裏に、報復の熾火が揺れている。
子供に敵愾心を燃やして大人げないと思うが、愉快だった。狼狽しているであろう少年を、心の中で嗤う。
調子に乗って佳蓮を褒めるから、こんな目に遭うのだ。
こんな真似をして、後で傷つくのは自分だと判っているのに――やめられない。相変わらずの自傷行為だ。
さらに顔を近づけると、レインジールは、ぱぁっと頬を染めた。
その反応は、まるきり予想外だった。
嫌悪して逃げだす様を期待していたのに、真剣な眼差しをする少年は、一〇歳という年齢よりもずっと大人びて見えた。
「……戯れを。私を子供だと思って、そんな風にからかうなんて……酷いです」
佳蓮は、むっと顔をしかめた。
「そっちが先に言ったんでしょ」
「先に……何を?」
「だから……」
「私が、何か羽澄様のお気に障ることを、口にしてしまったのでしょうか?」
「その畏まった口調も、どうにからないの? 子供の癖に、嫌味ったらしいよ」
冷たく吐き捨てると、レインジールは、はっきりと傷ついた顔をした。
「私の振る舞いが、貴方を苛立たせたのなら、謝ります。どうか、怒らないでください」
「別に怒ってない」
遮るように言い、反駁を許さず言葉を重ねる。
「美しいだの、女神だの、褒めてくれるけどさ、本当は冴えない女と思っているんでしょ?」
「理解できません。そのようなこと、思うはずがありません!」
憤ったようにレインジールは言った。
「そういうのがムカつくの。やめて」
「え……」
「レインには一生判らないだろうけど、私だって、綺麗に生まれたかった。冗談でも、からかわれると傷つくんだよ」
「からかうだなんて、そんな」
「いいよ、もう」
「あ、あの! では、本当に口づけを頂いても……?」
「無理しなくていい」
「無理などしていません!」
「私とキスするなんて、ゾッとしちゃうんでしょ?」
「違います‼」
――どうしよう。レインが手ごわい。
なかなか尻尾を見せないから、譲れなくなる。
「……そんなにキスして欲しいの?」
「は、はい」
「どうして?」
苛立ちを孕んだ笑みを向けると、レインジールは悩ましげに愁眉を寄せた。
「……羽澄様は、とてもお美しい、けれど……残酷です」
憂愁に沈む麗貌を見下ろして、佳蓮は瞳に憎しみを浮かべた。
「知ってるくせに。美しい者は皆、残酷だって」
「そのようにおっしゃるのは、私の所為ですよね……私が……から……お怒りに……」
幽かな呟きは小さすぎて、全部は聞こえなかった。
辛そうな表情を浮かべるレインジールに悪意は感じられない。それでも佳蓮は許せなかった。背を向けて部屋を出ようとすると、
「羽澄様、お待ちください!」
レインジールが追い駆けてくる。振り向いた佳蓮は、憎悪の眼差しで睨めつけた。
「レインは綺麗で、親切だけど……無神経だよ」
冷徹に告げる佳蓮をレインジールは言葉を失ったように見上げ、やがて、哀しげに美しい眼差しを伏せた。
「……この姿ですから、自覚はしております。私を〝綺麗〟だなんて……子供と侮っているのは、羽澄様ではありませんか」
その悲壮な声音に、胸の奥がわずかに緩んだ。絶世の美少年の儚げな風情は、腹を立てている佳蓮ですら、思わず抱き寄せて慰めてあげたくなるものがあった。
「……ごめん、言い過ぎた」
「羽澄様……心から、お慕いしております。ですから……悪戯に口づけを与えるなど、言わないでください……」
消え入りそうな声に、強烈な後悔が押し寄せた。自分がされて心底嫌だったことを、七つも年下の男の子にしてしまった。
悄気返って俯く小さな頭を、そっと撫でる。弾かれたようにレインジールは顔をあげた。
絹糸のような感触に心を奪われ、無意識に指は何度か往復する。
そうしている間、レインジールは感情を堪えるように唇を噛みしめていた。
潤んだ瞳には、痛めつけられた者が浮かべる哀切と、一途な愛が、同時に浮かんでいた。
「……ごめんね」
佳蓮が謝ると、レインジールは首を左右に振った。銀糸の髪が揺れ、透明な雫が散る。
いたいけな姿に、途方もない罪悪感がこみあげた。
中学の頃は、もっと酷い言葉を浴びていたのに、どうして今更、あの程度の嫌味に耐えられなかったのだろう。
美しい泣き顔を見下ろしながら、遠い日の自分を思った。
(貴方は、〝ばい菌〟なんかじゃない……泣かなくていいんだよ)