奇跡のように美しい人
1章:女神 - 6 -
三ヵ月後。
うららかな春が訪れ、中庭では見事な満点星 の木が花盛りだ。
時計塔の私室で、普段はあまり見ないようにしている鏡の前に立ち、佳蓮は首を捻っていた。
ここへきてから、気付いたことがある。
髪が、少しも伸びないのだ。更にいえば、生理もこない。
今更何が起きても驚きやしないが、己の身体に疑問を覚える。結局、生きているのか死んでいるのか……
「羽澄様? お目覚めでしょうか?」
鏡の前でしかめ面をしていると、いつものように、レインジールがご機嫌伺いにやってきた。
部屋へ招き入れると、佳蓮はしみじみと美貌の少年に視線を注いだ。
「羽澄様?」
じっと見つめられて、レインジールはそわそわしている。
大人顔負けで仕事をこなす少年だが、純情な一面もあって、こうして佳蓮が見つめていると、大抵は頬を染めて恥ずかしそうに俯いてしまう。
「ねぇ、髪に触ってもいい?」
「えっ? あ、はい。どうぞ……」
戸惑いつつ、レインジールは快諾した。佳蓮が手を伸ばす様子を、緊張気味に見守っている。前髪に触れると、レインジールは瞳をきゅっと閉じた。
腰まで届く長く艶やかな銀糸の髪は、とても滑らかだ。指で梳けば、からまることなく滑り落ちる。出会った時よりも、少しだけ伸びたようだ。
「……綺麗な髪だね」
手を離すと、レインジールはそろりと瞳を開けた。
「ありがとうございます。羽澄様は、本当にお優しいですね」
「本当に綺麗だもん。よく言われるでしょ?」
「まさか! こんな風に優しく触れてくださるのは、羽澄様だけです」
まだ幼い少年の言葉にしては切な過ぎて、佳蓮の表情は沈んだ。
彼は、既に親兄弟と死別している。こういう寂しげな表情を見ると、同情すると共に後ろめたい気持ちになる。
家族のことは、正直考えたくない。
ここでは尊い献身と讃えられるが、そんな大層なものではないのだ。辛いことから眼を背けて、逃げただけなのだから。
「あの……」
レインジールは上目遣いに呟いた。
「ん?」
「いえ、何でもありません」
「何?」
「いえ……」
「?」
珍しく歯切れの悪い少年を見下ろして、佳蓮は怪訝そうに首を捻った。
じっと見つめて言葉の先を促すと、レインジールはもじもじと手を胸の前で組んだ。
「あの、私も羽澄様の髪に触れても良いでしょうか……?」
少々面を食らったものの、佳蓮は気安く返事をして、長椅子に腰を下ろした。
遠慮がちにレインジールも隣に座る。慎重に伸ばされた小さな手が、そっと黒髪の一房を摘んだ。
「わぁ、綺麗……」
「普通だよ。でも、ここへきてから髪が綺麗になった気がする。皆がよくしてくれるおかげかな?」
「本当に、豊かで綺麗な黒髪ですね」
感極まったように、レインジールは呟いた。
彼の大袈裟な言動を最初は疎んじていたが、最近はもう慣れてしまった。
不思議で仕方ないが、天使と見紛う美貌を具 えているレインジールは、時に自分をどうしようもないほど卑下する。佳蓮を盲目的に女神と慕うあたり、相当変わっていることは確かだ。
それは、彼に限った話ではなかった。
塔の人間は、レインジールを筆頭に誰もが佳蓮を褒めそやす。
お伽噺のような世界で、蝶よ花よと傅かれていると、本当に女神にでもなったような気がしてくるから恐ろしい。調子に乗らないよう自分を律していても、感覚が麻痺してしまいそうだ。
「羽澄様」
不意に、レインジールは沈んだ声を出した。
視線だけで先を促すと、少年は形の良い眉を下げて、何かを恐れるように唇を開いた。
「実は、皇太子殿下から昼食会の招待状をいただいております」
「えぇ?」
嫌そうに佳蓮が返事すると、なぜかレインジールの愁眉は僅かに晴れた。
「お嫌でしたら、招待を断ることもできます。いかがいたしましょう?」
「断っていいの?」
「いかな権威であろうと、羽澄様の意に沿わぬことを強要できません」
「……へぇ、すごいね。私って何様? 女神様?」
おどけて佳蓮がいうと、レインジールは微笑みを浮かべて頷いた。
「世界で一番、お美しい女神様です。私の女神様……」
全力で肯定されてしまった。
伸びてきた繊手に黒髪の一房を取られる。ゆっくりと、端正な顔が傾いていく。レインジールの行動はアンバランスだ。視線が合うだけで照れるくせに、たまにこうして大人びた仕草をする。
そっと黒髪に口づけるレインジールは、絵画のように美しかった。
幼い色香に誘われて、つい白い頬に手が伸びる。まろやかな頬を撫でると、レインジールは青い瞳を細めて、蕩けるような笑みを浮かべた。幸せそうに瞼を伏せて、佳蓮の手に頬擦りをする。
「あぁ、幸せです……」
もう、レインジールのこうした言動を、演技とは思えなくなってきている。
信じられないが、レインジールの瞳には、佳蓮が絶世の美女、麗しの女神に映っているらしいのだ。
美的感覚が死んでいるのかもしれない。
しかし、彼の管理している塔は隅々まで設備が行き届いており、内装も瀟洒だ。そちこちに趣味の良さが窺える。
佳蓮が毎日のように通っている塔内の資料館や、美しい庭園もレインジールが管理しているという。
考えれば考えるほど、どこまでも佳蓮に都合の良い世界だ。
どうして、こんなにも恵まれた生活を享受できるのだろう?
天の思し召し?
苦痛に満ちた生前を憐れんで、天が慈悲を与えてくれた?
どこにも居場所がなかったのに、ここでは、いるだけでいいといってもらえる。
“人は、誰もが咎を負って生まれる……”
レインジールはそう話していた。
咎――佳蓮の場合は決定的だ。自殺をした。償いが必要だとしたら、蘇ったこの都合の良い世界で、どう贖 えばいいのだろう?
うららかな春が訪れ、中庭では見事な
時計塔の私室で、普段はあまり見ないようにしている鏡の前に立ち、佳蓮は首を捻っていた。
ここへきてから、気付いたことがある。
髪が、少しも伸びないのだ。更にいえば、生理もこない。
今更何が起きても驚きやしないが、己の身体に疑問を覚える。結局、生きているのか死んでいるのか……
「羽澄様? お目覚めでしょうか?」
鏡の前でしかめ面をしていると、いつものように、レインジールがご機嫌伺いにやってきた。
部屋へ招き入れると、佳蓮はしみじみと美貌の少年に視線を注いだ。
「羽澄様?」
じっと見つめられて、レインジールはそわそわしている。
大人顔負けで仕事をこなす少年だが、純情な一面もあって、こうして佳蓮が見つめていると、大抵は頬を染めて恥ずかしそうに俯いてしまう。
「ねぇ、髪に触ってもいい?」
「えっ? あ、はい。どうぞ……」
戸惑いつつ、レインジールは快諾した。佳蓮が手を伸ばす様子を、緊張気味に見守っている。前髪に触れると、レインジールは瞳をきゅっと閉じた。
腰まで届く長く艶やかな銀糸の髪は、とても滑らかだ。指で梳けば、からまることなく滑り落ちる。出会った時よりも、少しだけ伸びたようだ。
「……綺麗な髪だね」
手を離すと、レインジールはそろりと瞳を開けた。
「ありがとうございます。羽澄様は、本当にお優しいですね」
「本当に綺麗だもん。よく言われるでしょ?」
「まさか! こんな風に優しく触れてくださるのは、羽澄様だけです」
まだ幼い少年の言葉にしては切な過ぎて、佳蓮の表情は沈んだ。
彼は、既に親兄弟と死別している。こういう寂しげな表情を見ると、同情すると共に後ろめたい気持ちになる。
家族のことは、正直考えたくない。
ここでは尊い献身と讃えられるが、そんな大層なものではないのだ。辛いことから眼を背けて、逃げただけなのだから。
「あの……」
レインジールは上目遣いに呟いた。
「ん?」
「いえ、何でもありません」
「何?」
「いえ……」
「?」
珍しく歯切れの悪い少年を見下ろして、佳蓮は怪訝そうに首を捻った。
じっと見つめて言葉の先を促すと、レインジールはもじもじと手を胸の前で組んだ。
「あの、私も羽澄様の髪に触れても良いでしょうか……?」
少々面を食らったものの、佳蓮は気安く返事をして、長椅子に腰を下ろした。
遠慮がちにレインジールも隣に座る。慎重に伸ばされた小さな手が、そっと黒髪の一房を摘んだ。
「わぁ、綺麗……」
「普通だよ。でも、ここへきてから髪が綺麗になった気がする。皆がよくしてくれるおかげかな?」
「本当に、豊かで綺麗な黒髪ですね」
感極まったように、レインジールは呟いた。
彼の大袈裟な言動を最初は疎んじていたが、最近はもう慣れてしまった。
不思議で仕方ないが、天使と見紛う美貌を
それは、彼に限った話ではなかった。
塔の人間は、レインジールを筆頭に誰もが佳蓮を褒めそやす。
お伽噺のような世界で、蝶よ花よと傅かれていると、本当に女神にでもなったような気がしてくるから恐ろしい。調子に乗らないよう自分を律していても、感覚が麻痺してしまいそうだ。
「羽澄様」
不意に、レインジールは沈んだ声を出した。
視線だけで先を促すと、少年は形の良い眉を下げて、何かを恐れるように唇を開いた。
「実は、皇太子殿下から昼食会の招待状をいただいております」
「えぇ?」
嫌そうに佳蓮が返事すると、なぜかレインジールの愁眉は僅かに晴れた。
「お嫌でしたら、招待を断ることもできます。いかがいたしましょう?」
「断っていいの?」
「いかな権威であろうと、羽澄様の意に沿わぬことを強要できません」
「……へぇ、すごいね。私って何様? 女神様?」
おどけて佳蓮がいうと、レインジールは微笑みを浮かべて頷いた。
「世界で一番、お美しい女神様です。私の女神様……」
全力で肯定されてしまった。
伸びてきた繊手に黒髪の一房を取られる。ゆっくりと、端正な顔が傾いていく。レインジールの行動はアンバランスだ。視線が合うだけで照れるくせに、たまにこうして大人びた仕草をする。
そっと黒髪に口づけるレインジールは、絵画のように美しかった。
幼い色香に誘われて、つい白い頬に手が伸びる。まろやかな頬を撫でると、レインジールは青い瞳を細めて、蕩けるような笑みを浮かべた。幸せそうに瞼を伏せて、佳蓮の手に頬擦りをする。
「あぁ、幸せです……」
もう、レインジールのこうした言動を、演技とは思えなくなってきている。
信じられないが、レインジールの瞳には、佳蓮が絶世の美女、麗しの女神に映っているらしいのだ。
美的感覚が死んでいるのかもしれない。
しかし、彼の管理している塔は隅々まで設備が行き届いており、内装も瀟洒だ。そちこちに趣味の良さが窺える。
佳蓮が毎日のように通っている塔内の資料館や、美しい庭園もレインジールが管理しているという。
考えれば考えるほど、どこまでも佳蓮に都合の良い世界だ。
どうして、こんなにも恵まれた生活を享受できるのだろう?
天の思し召し?
苦痛に満ちた生前を憐れんで、天が慈悲を与えてくれた?
どこにも居場所がなかったのに、ここでは、いるだけでいいといってもらえる。
“人は、誰もが咎を負って生まれる……”
レインジールはそう話していた。
咎――佳蓮の場合は決定的だ。自殺をした。償いが必要だとしたら、蘇ったこの都合の良い世界で、どう