メル・アン・エディール - 飛空艦と少女 -

1章:古代神器の魔法 - 9 -

 周囲に異変は起こらなかった。けれど、ルーシーの様子がおかしい。青い目を見開いて、飛鳥を見つめている。

“アスカ……”

 飛鳥は口を両手で押さえると、怯えたように後じさった。飛鳥が後ろに下がるたびに、ルーシーは一歩を踏み出して、二人の間に開いた距離を詰める。

『アスカ』

 とても丁寧に名前を呼ばれた。明らかに、さっきまでと声の響きが違う。魔法が効いているのだろうか。

「ルーシー、平気ですか……?」

『******……。***********』

“アスカ……。私は……、何故? 何だこれは……”

 ルーシーも混乱しているようだ。理路整然としていた思考が酷く乱れている。

「大丈夫……?」

 壁に背をつけた飛鳥の両肩に、ルーシーは大きな手を置いた。眼には見えない緊張感が、二人の間に流れる。飛鳥は、少しの変化も見逃さないよう、魔法にかかったルーシーを凝視した。

“アスカが愛しい”

「えっ!?」

 衝撃のあまり、横に飛びのいてルーシーから離れた。飛鳥の素早い動きに、ルーシーは驚いている。

『*********……』

“拒まれた?”

「あ、いや……」

『アスカ、**********?』

「どうしよう、どうしよう」

 やはり、使うべきではなかった。ルーシーの様子がおかしい。魔法のせいで、未知の影響を及ぼしてしまっている。
 壁に背を押しつけ、逃げるようにカニ歩きする飛鳥を見て、ルーシーは傷ついた顔をした。飛鳥の傍へ寄ることを躊躇っている。

“怯えないで”

「いや、別に……」

 逃げ回るのも人としてどうかと思い、飛鳥は意志の力でルーシーの傍へ寄った。それだけのことで、ルーシーの瞳は喜びに輝き出す。飛鳥が無思慮に口にしてしまった魔法のせいだ。

『******、**********。******?』

 この魔法はどうすれば解けるのだろう。そもそも解けるのだろうか。
 混乱の一途を辿る飛鳥と違い、ルーシーは次第に落ち着きを取り戻した。信じられないことに、自分の身に起きた変化を、早くも受け入れている。

“傍にいたい”

 どんどんルーシーの心が浸食されていく。そんなこと、さっきまで微塵も考えていなかったのに。

「あー、どうしよう、ごめんなさいっ!」

『アスカ、*******。**************』

“ここは狭い……。私は、どうしてアスカを閉じ込めたんだ?”

 ルーシーは飛鳥の背中に腕を回すと、扉を開けて外へ出るよう促した。飛鳥が呆気に取られるのも無理はない。
 魔法の威力を、今こそ思い知らされた。
 効果覿面ではないか。
 ルーシーは飛鳥を警戒していたのに、魔法にかかった途端、いともあっさり扉を開けてくれた。

 ――このままでも、いいんじゃない? 魔法にかかっていれば、私を大事にしてくれる……。

 悪魔の声が囁く。
 魔法を解けば、また閉じ込められるかもしれない。それに魔法をかけられたと知れば、ルーシーは飛鳥を許さないかも。古代神器であることも、知られてしまう……。
 ルーシーは飛鳥を見つめて、優しく微笑んだ。

“気に入ってくれるといいな”

 豹変したルーシーを見ると、良心がきしむ。だけどもう、積極的に魔法を解こうとは思えない……。
 隣の病室を訪れると、ロクサンヌはルーシーと飛鳥を交互に見て、怪訝そうに眉を寄せた。

『******、******?』

“なぜ? いいの?”

 戸惑っているようだ。ルーシーの言葉に相槌を打ってはいるが、納得しているようには見えない。
 彼女にも魔法をかけておいた方がいい。ルーシーで味を占めた飛鳥は、今度は大した葛藤もなく口を開いた。

「ロクサンヌ、メル・アン・エディール!」

 呪文を唱えると、ロクサンヌの表情は、みるみるうちに笑顔へと変わった。

“そうよ、窓もない隔離室に閉じ込めるなんて、可哀相だわ……”

 ロクサンヌは飛鳥を優しく抱きしめ、額と頬にキスをした。もう飛鳥に対する戸惑いや疑惑は欠片もない。

『ロクサンヌ、******』

『**********』

 なかなか飛鳥を離そうとしないロクサンヌを見て、ルーシーはそっと間に割って入った。

“どうした? 様子が違う”

 ルーシーとロクサンヌに、魔法をかけられた自覚はないらしい。ただルーシーは、ロクサンヌの変化には感づいたようだ。いつものように冷静に観察を始めたが、やがて意識は飛鳥に戻ってきた。 

“アスカを、高級船室に連れて行こう”

 ルーシーは飛鳥に夢中だ。ふいに、罪悪感が込み上げた。許されないことを、しているのかもしれない。人の心を、魔法で捻じ曲げてしまうなんて――。

「……」

『アスカ?』

“どうしたの?”

 肩を落とす飛鳥を見て、ルーシーもロクサンヌも、心配そうにしている。ルーシーは飛鳥の頭を撫でた。彼等の優しさを直視できず、飛鳥は気まずそうに視線を逸らした。